第4話 ハーブティーと告白|2014年1月

 窓際で自習していた幸彦がノートから顔を上げると、甲本さんが目の前にいた。


「今回は雪じゃなきゃいいね」


 幸彦はそっと周りを見回した。佐々木の姿はない。ひとりでいるときに甲本さんから話しかけてくるのは、初めてだった。


「センター試験?」


「そう」


「もう一回あんな雪が降ったら、去年経験している俺たちが有利になるかもよ」


「確かに、それ言える」


 唇の間から白い歯をのぞかせて甲本さんは笑った。いつもと違う雰囲気なのは髪をおろしているせいだろうか。窓から差し込む光に髪が透けている。触れたらきっと柔らかいのだろう。そんなことを考えてしまって、幸彦は視線を窓の外に移した。何だかまぶしくて、甲本さんを直視できなかった。


「あのね」


 と、甲本さんが言った。


「昨日、佐々木くんに告白されちゃった」


 予想外の一発だった。へえ、と答えるのが幸彦の精一杯だった。


「『センター試験を目の前にこんなこと言って悪いと思うけど、でも言っとかないともやもやして試験に集中できないから』だって。自分の都合ばっかり」


 へえ、と、ふたたび幸彦は言った。動揺していた。幸彦も甲本さんに淡い好意を抱いていたが、告白するなんて、そんなことを思いつきもなかった。でも佐々木は考えていた。いつもつるんでいて、自分と同じように受験のことしか考えていないと思っていた相手がそんな行動に出たことに、幸彦はショックを受けていた。


「しかもさ、『甲本さん、もてるから、俺なんかに告白されたくらいじゃ、動揺しないでしょう?』なんて言うんだよ? ひどいでしょう?」


 ひどいと言いながら、甲本さんは楽しそうだ。その顔に幸彦は少し傷つく。何だかひとりだけ置いていかれたような気がした。自分が立ち止まっている間に、時間はちゃんと流れていて、周りの人たちはちゃんと前を進んでいる。


「動揺した?」


「そりゃあ、するよ。人を何だと思ってるのよ」


 甲本さんが唇を突き出して、ふくれっつらをした。初めて見る甲本さんの損な表情にとまどいながら、幸彦は、甲本さんがなぜ自分に佐々木に告白されたなんてことを言うのかを考えていた。答えはすぐに出た。甲本さんは佐々木の告白を受け入れたのだ。もし、拒絶したのだとしたら、佐々木の友人である幸彦に、こんな話はしないだろう。


「まあ、いきなり言われて動揺したけど、それで試験ができなかったなんて言い訳は、通用しないしね。それに、去年起きた出来事に比べたら、このくらいどうってことないな。とりあえず、試験、がんばろうね。人生いろいろあるけど」


 去年起きた出来事というのが何なのかを、聞くべきか聞くべきじゃないのか迷っている間に、甲本さんは手を振って去っていった。幸彦はため息をついた。十歳上の果穂に言われるならまだしも、同じ歳の甲本さんにまで「人生」なんて言われると、妙な気分だった。幸彦にはまだ、いろいろな人生というものを思い浮かべることができなかった。


 果穂から呼び出しがあったのはセンター試験の三日前だった。幸彦の母親は、東大出の妹が受験のアドバイスをするために幸彦を呼び出したのだと信じて疑わず、わざわざ果穂の家まで幸彦を車で送ってくれた。だが、幸彦は果穂が単に自分の都合だけで呼び出したことを知っていた。でもそれでよかった。気を使われるより、有難かった。果穂といると、心が落ち着く。ほどよくガス抜きができる。


「じゃあ、果穂。幸彦をよろしく頼んだわよ」


 幸彦の母が去ると、


「わたし、お姉ちゃんに何を頼まれたのかな?」


 と言って、果穂は首を傾げた。


「さあ」


 幸彦も首を傾げておいた。


「で、俺は今日もまた脚を貸せばいいの?」


 果穂は今、リフレクソロジストを目指している。リフレクソロジストというのは、簡単に言うと、脚のマッサージ師のような、エステティシャンのような仕事だ。幸彦はこれまでにも何回か練習台にさせられている。


「そうね。今日は脚だけじゃなく、心も貸して欲しいかな」


 心? どういうことなのかと聞き返すひまもなく、果穂は部屋の中に入っていく。幸彦も慌ててあとに続く。入った瞬間、自分がどこにいるの分からなくなった。部屋が、落ち着いたカフェのような空間になっていた。頭がすっきりするようなハーブの香りがする。


「どうぞ、こちらへ」


 かしこまった様子で果穂は言って、別の部屋のドアを開けた。


「お店みたい」


 と、幸彦は言った。幸彦の貧困なボキャブラリーと人生経験ではうまく言い表すことができなかったが、エステとか、ホテルのスイートルームとか、おしゃれなカフェとか、そういう洗練された空間がそこにあった。


「そう、お店なの。ここで自分のサロンをやろうと思って。今はまだ大きなサロンで技術とか学ばせてもらってるけど、少しずつ、こっちでわたしの理想の形を実現していきたいなと思って。ゆきちゃんはモニターね。気づいたこととか、何でも言ってね」


「もうお店を出すの?」


 幸彦はひとりごとのようにつぶやいた。果穂は去年の今頃、果穂はまだリフレクソロジストとは何の縁もない会社員だったのに、自分の道を自分の手でどんどん切りひらいている。甲本さんと佐々木の顔も思い浮かんだ。自分だけが取り残されているような気がした。

 いい香りのするハーブティーを飲む。体の中からあたたまる。


「はい、まずはカウンセリングから。簡単でいいから答えられるところだけ答えてください」


 手渡された紙を見て、幸彦はぎょっとした。細かい質問項目の中には「お手洗いに行く回数」なんてものもある。さらに、「小さい方は一日何回位行きますか?」「大きい方は何回行きますか?」と項目は続いている。


「こんなのまで、いるの?」


 うん、と果穂はうなずいた。


「全身の代謝の状態を知りたいから」


 真面目な果穂の顔を見て、幸彦は覚悟を決める。普段あまり意識していない生活習慣を思い出しながら、全部の項目埋めていく。次に短パンに着替え、フットバスで足を温める。足を温めるだけで全身がリラックスしていく。三日後に試験を控えていることなんて忘れてしまいそうだった。

 ベッドにねころがる。こんなふうに練習台になるたびに果穂のトリートメントが上達しているのが幸彦に分かる。


「ねえ、果穂の失恋の話、聞きたい。人生勉強の参考にさせてよ」


 天井を見つめながら、幸彦は言った。返事はなかった。幸彦は答えを待つのをあきらめて目をつむった。足を滑る果穂の手は変わらずあたたかだった。幸彦の質問に怒ったり気分を害したりしているわけではない、ということだけは分かった。


「前に勤めていた会社の上司だったの」


 果穂がしゃべりはじめたとき、幸彦は自分が聞いたくせに、一瞬何の話か分からなかった。


「とても尊敬できる人で、ずっと憧れてたんだけど、ある日、その人に好きだって言われて舞い上がって、奥さんも娘さんもいるのに夢中になって、恋人同士みたいに付き合うことになっちゃった。でも、その人の娘に見つかったの」


「それで、どうしたの?」


 動揺したまま、幸彦は聞いた。


「ふられちゃった」


 と、果穂は言った。


「いい思い出になったとか言って」


 幸彦は混乱した。不倫して、不倫相手の娘に見つかって……と状況だけ抽出したら、ドラマか何かでありそうな設定だけど、それをやったのが果穂だということがどうしても飲み込めなかった。


「その人の娘さんね、ゆきちゃんと同じ年なんだよ」


 どこかなつかしむような果穂の口調に、幸彦はいらいらした。果穂はまだそんなやつのことが好きなんだろうか。勝手に手を出して都合良く切り捨てたろくでもない男だというのに?


「浪人生してる。たぶん、ゆきちゃんと同じ予備校だよ」


「え?」


 急に果穂の世界と自分の世界がつながって、幸彦はぽかんとした。


「なんて名前?」


「甲本結季」


 人生いろいろあるけれど、という甲本さんの言葉が幸彦の頭の中に響いていた。

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