第103話 こんなに幸せでいいのでしょうか
巨大なシャンデリアの輝きが、正面の席につくお兄様をまばゆく浮かび上がらせます。
その麗しい姿を私は陶然として見つめました。
「もう具合はいいのか?」
何度お会いしても──
慣れることはないのでしょう。
瞬きのあと、ぎこちなくうなずきます。
「はい、お兄様。ご心配をおかけしました」
食堂に響く私とお兄様の声。
給仕係を除けば私たち二人だけ。
「今日はお姉様とリオンが来られないようですね」
「ああ、まだ話していなかったな。リオンは貴族学校の寮に入っている。お前がシルバスティンに行って少ししてからだ」
「リオンが学校に?」
「見識を広げるために外で学びたいと言うので、私が許可した」
「そうだったのですか」
部屋に籠りきりだったリオン。
きちんと話をしなければと思っていたのですが、屋敷を出ていたことすら知りませんでした。
「アシュリーお姉様は?」
「あいつは大方、謹慎を命じた私に腹を立てているのだろう」
「そんな……お姉様が顔も見たくないと思っているのは私です」
「あまり気にするな。時間がたてば落ち着くだろう。今宵はお前の顔が見られただけで十分だ」
「………」
ナイフとフォークを動かす音が天井に響きます。
お兄様と二人きり。
うれしい。
すごくうれしいです。
うれしいです、けれど。
前菜を細かく切り刻みながら、頭にちらつくのは──
『本当に、私の願いを叶えてくださるのですね?』
『ああ。我々の結婚には必要なものだ』
あんな会話。思い出したくもないのに。
『我々の結婚には──』
「お前も」
お兄様の声がして、私はナイフを動かす手を止めました。
「私に怒っているのではないか?」
真紅の瞳と目が合います。
数秒ほどその瞳に魅入られてから、力なく視線を落とし、
「まさか」
私は嘘をつきました。
「お兄様に怒るだなんて」
嘘です。
本当は怒っています。
生まれて初めて、お兄様に対して腹を立てています。
私がいない間にフィーとの婚約を決めたこと。
エメル家で彼女と会っていたこと。
彼女に約束して何かを贈ったこと。
その贈り物で彼女を幸せそうな顔にしていたこと。
それらすべてに、今すぐ、叫び出したいほど怒っています。
でも──
それをしてしまえばお兄様との関係は壊れてしまう。
私たちは主従。そのルールの中でだけ、私はお兄様に近づくことができる。
お兄様は私だけのものになってくださると言いました。
しかし、それはあくまで任務を全うしたあとの話。その日が来るまで、私は嘘をつき続けなければならない。
嘘をついて、ついて、ついて、ついて。
つき通して、それで──
「フラウ」
我に返ると、いつの間にかお兄様がそばにいらっしゃいました。
「お兄、様……」
「この傷はどうした」
そう言って私の頬に触れます。
急激に体温が上昇するのを感じながら、私は手で頬を隠しました。
「こ、これは……なんでもありません」
「痣になっているようだが」
「ぶつけたのです。転んで」
「転ぶ? 部屋の中でか?」
「そういうことだってありますっ」
「そうか」
あれほど粉を重ねづけしたのに。
やっぱりお兄様は勘が鋭すぎます。
「お前に話しておくことがある」
頬を押さえる私の手の甲に手を重ねながら、お兄様は落ち着いた声で言いました。
「明日の夕刻、ヴィクター卿が南方から戻ってくる。それに合わせてエメル家を訪問するつもりだ」
「…………そう、ですか」
ずしりと体の内側が重くなりました。
私がエメル家に潜入したのは、ヴィクター卿が戻るまでにフィーのスキャンダルを見つけ出すため。結婚の具体的な段取りが進む前ならば、破談に追い込むことが可能だと踏んだからです。
でも、間に合わなかった。
おそらく明日、引き返せないところまで話が進んでしまう。
「だが、それまでは予定が空いている。明日の朝は二人でゆっくり過ごさないか」
「………え?」
私は自分の耳を疑いました。
お忙しいお兄様が?
私とゆっくり過ごす?
「昔、庭で遊ぶのが好きだったな。朝食を庭で取るのもいい」
もしかして──
お兄様は、私に埋め合わせをしようとしてくれている……?
私のために?
そう思った瞬間、目もくらむような幸福感に包まれました。口元が自然とほころびます。そんな私を見てお兄様もかすかに微笑みます。
ああ。
お兄様。
こんなに幸せでいいのでしょうか?
だって、私は。
こんなにも──
───愚か者なのに。
「申し訳ありません」
あふれ出る多幸感を一気に握り潰し、立ち上がって首を垂れます。
「せっかくのお誘いですが、明日はどうしても外せない用事がありますので」
「………そうか」
本当に申し訳ありません。お兄様。
それでも私は、まだ諦めたくないのです。
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