叔孫俊2 安城元王故事

叔孫俊しゅくそんしゅんは 416 年、28 歳で死亡した。拓跋嗣たくばつしはその死を大いに悲しみ、悼み、自らその遺骸の前で慟哭した。朝廷内外でもその死を惜しまないものはいなかった。侍中じちゅう司空しくう安城王あんじょうおうが追贈され、げんと諡された。皇帝クラスの祭器、葬送車でもって葬られ、その葬送車は衛士らが護衛し、拓跋珪たくばつけいの眠る金陵きんりょうに陪葬された。子の叔孫蒲しゅくそんほが爵位を継承した。


後に大功があったり皇帝よりの寵愛が厚かった重臣が死亡したとき、みな叔孫俊のときの葬礼が基準となったが、叔孫俊以上の手厚さでなされることはなかった。


ところで叔孫俊が死亡したとき、拓跋嗣は叔孫俊の妻、桓氏かんしに命じている。

「夫が生きていたときに繁栄をともにしていたのだ、ならば夫と同じ墓穴に入ることがよろしかろうな。むろん殉葬とは任意になされるものであるが」

凄まじい脅迫である。任意もクソもない。なので桓氏は首をくくって死に、叔孫俊と合奏された。


父の叔孫建しゅくそんけんはその大功から丹陽王たんようおうに封じられていた。叔孫俊も元々は丹陽王であったが、死後改めて安城王に封じられたため、丹陽王位は叔孫俊の弟である叔孫隣しゅくそんりんが継承。公爵に降号となった。叔孫隣もまた幼い頃から聡明さで知られていた。北部尚書ほくぶしょうしょおそらくは北部大人ほくぶたいじんの政務を司る高位幹部に任じられ、職務を讃えられ、尚書令しょうしょれいを経て涼州りょうしゅう鎮大將ちんたいしょうに任じられ、鎮西將軍ちんざいしょうぐんが加えられた。

しかし叔孫隣と鎮の副將であった奚牧けいぼくは、ともに国の貴顕の子弟であるという立場を悪用、貪るように財貨を収集し、威張り散らし、贅沢三昧をした。このふるまいが糾弾され、ともに処刑された。




泰常元年卒,時年二十八,太宗甚痛悼之,親臨哀慟。朝野無不追惜。贈侍中、司空、安城王,諡孝元。賜溫明祕器,載以轀輬車,衞士導從,陪葬金陵。

子蒲,襲爵。後有大功及寵幸貴臣薨,賻送終禮,皆依俊故事,無得踰之者。初,俊既卒,太宗命其妻桓氏曰:「夫生既共榮,沒宜同穴,能殉葬者可任意。」桓氏乃縊而死,遂合葬焉。

俊既為安城王,俊弟隣襲公爵,降為丹陽公。少聰慧知名。稍遷北部尚書,有當官之稱。轉尚書令。出為涼州鎮大將,加鎮西將軍。隣與鎮副將奚牧,並以貴戚子弟,競貪財貨,專作威福。遂相糾發,坐伏誅。


(魏書29-11)




普段列伝のエピソードをあまり拾おうとしない資治通鑑さんが、叔孫俊夫人の自殺強要だけは載っけてて笑った。

https://kakuyomu.jp/works/16816452219408440529/episodes/16817139554788077696

オメーそこだけ載っけると臣下の妻を殺すクソ暴君にしかうつんねーだろーが! いやここ読んでもクソ暴君な印象変わりませんが。いくら最愛の臣下が若くして旅立ったからって、冥婚を押し付けてんじゃねーですわよ! これで俊くんも寂しくないね☆ じゃねーんだわ!


ここまでにもしばしば「叔孫俊故事に倣って葬られた」って記述がしばしば登場してきましたが、ここに至ってようやくその意味を理解できました。しかし叔孫俊故事って表現、妻の殉死まで含んでない? 自分が母を殺されたからって重臣死亡時に妻を殺すことで憂さ晴らししてない? だいじょうぶ?

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