僕が本当の医者になれた日

木痣間片男(きあざまかたお)

第1話 プロローグ

「小竹(おだけ)先生、ALSの田名網(たなあみ)さんが心肺停止だそうです」

 隣で電話を取り次いだ看護師の谷島愛里(やしまあいり)がすばやい口調で囁いた。

「ちょっとすみません」

 彼女から電話器を受け取ると、診察中の患者を待たせて僕は診察室の奥へと姿を消した。

「西入江(にしいりえ)広域消防ですが、10時30分に家族から“呼吸が止まった”ということで要請を受けまして、40分に現地着・・・。田名網正さん五四歳が、すでに心肺停止の状態で・・・」

 電話口の向こうから、救急隊員の叫ぶ声が響いた。

「はい、わかりました。この方は僕の診ているALSの患者さんで、ご家族からも話しがあったと思いますが、心臓マッサージ等の蘇生の必要はありません。このまま静かに、ゆっくりで結構ですので来院してください」


 七年前、僕は埼玉県の医科大学を卒業し、医師の国家資格を取得した。自分のような平凡な学生でも、それなりに・・・、ある程度手を抜かず・・・、なんとかがんばれば・・・、医者になれる、そういう自信を付けさせてくれた大学に妙な感謝の気持ちがあったので、卒後、僕はそのまま母校に残った。

 “心肺停止”、ドキッとするような事態だが、医者として勤務するなかにおいて、想定内の結果だとしたら、それはそう慌てることはない。日常診療の一コマとも言える。だが、このALSという病気だけは違う。この病気を経験すればするほど、患者に携われば携わるほど、神経を専門とする医者は、症例の積み上げを自覚する一方で無力感にも苛(さいな)まれる。

 “ALS”、つまりは“筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)”。運動神経を麻痺させる難病中の難病と言われる神経疾患だ。徐々に手足の筋肉が動かなくなり、ついには食べたりしゃべったりするための喉の筋肉、そして呼吸をするための肋骨の筋肉まで障害がおよぶ。わずかに進行を遅らせる薬があるのみで、特別に効く治療法は、基本ない。リハビリは大切だが、それほどの有効性は期待できない。何もしなければ発病から三~五年ほどで死に至る。

 

 田名網さんがALSに罹患したのは四〇代の終わりころ、当時の職業は建築士だった。階段を登る動作に少しずつ違和感を覚え、ついには転びやすさを自覚するようになったために来院した。一目瞭然、四肢の筋力低下と筋萎縮がはっきりしていた。“線維束性収縮”という筋肉のピクツキもみられた。

「もしかしたら、運動神経になにか異常があるかもしれませんので、よく調べてみましょう」と言ったものの、このとき僕の頭のなかには、ALSという病名がはっきり浮かんでいた。過去に何人も診てきた同一疾患の患者像と、かなりの部分でダブっていたからだ。針筋電図という検査をすれば、おおよその見当が付く。筋肉そのものに針を刺して、そこから発せられる微細な電気的興奮を捉えることで、運動神経の障害の原因と程度とを知るのだ。ちょっと痛い検査だが、そんなことも言っていられない。

 結果・・・、病気は確定した。

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