ここに交わる多元世界
泳ぐ人
1話-1 『情けは人の為ならず』
「奴らまだ追ってくる……!」
銀に輝く翼を羽ばたかせて住宅街を抜けるソレは、地球上には存在しない響きで悪態をついた。
その姿は爬虫類にも見えるが、空を自在に飛ぶ爬虫類などこの世にはいない。そしてソレの言う『奴ら』も、動物のように見えて既存の種ではあり得ない見た目を有していた。
「こんなところで見つけられるとは思わなかったぜ」
『奴ら』の一人が壁を背にした銀翼に言葉をかけた。
彼らはじりじりと距離を詰めて、逃げ場を無くしていく。その言動には、暴力に身を浸した者特有の残忍さがにじみ出ていた。
――お父様、お母様。せっかく逃がしていただいたというのに、私の命はここまでのようです。これほど早く二人に会いに行く親不孝をお許しください。
銀翼の少女は心の中で祈る。しかしそれは、命をつなぐ奇跡を願うものではなかった。もうどうやっても助からないという諦観は、助かろうとする意志さえ容易く手折った。
少女は目をつむる。
「――か行けお前ら!」
聞いたことのない言葉。何かを考える暇もないうちに、温かな感触に包まれる。
一体、何が起こったの……?
思いがけず、命を拾った安堵で少女の意識は闇に沈んでいった。
*
――妖怪、妖精、宇宙人、UMA、その他色々。この世界には伝承として語り継がれて、この世には存在しないとされているものがいくつもある。だが、本当にそうなのだろうか? 我々には感知できないだけではないのだろうか?
見えないからといって存在しないとは限らない。
まさに今、異界からの来訪者たちと一人の少年が邂逅したのだから。
*
「レン! 勉強付き合ってくれてサンキューな! 今度ジュース奢るわ!」
「おう、楽しみにしとく」
机に広げた教科書をザッと鞄の中に詰め込んで部活に向かうバスケ部の同級生に、ヒラヒラと手を振って見送る。
「
「いやいや、俺も放課後は暇してたからさ。むしろどんどん頼ってくれって感じ!」
教室を出たときより表情が明るくなったクラスメイトと笑い合いながら別れを告げる。
「本当にすまん! 生徒会で文化祭の資料整理を頼まれたんだけど、昨日急に書類が倍になったんだ! 整理するだけでいいから手伝ってくれ!」
両手を合わせて拝み倒す生徒会所属の友人、須田の頭を上げさせてシャツの袖をまくる。いきなり倍とはまたずいぶんな無茶ぶりだ。
「わかったわかった! 手伝ってやるからさっさと終わらせて帰ろうぜ」
二人で黙々と書類を仕分けていたら、気がついたときには運動部も文化部も活動を終えて下校している時間だった。夕日のオレンジと夜闇の濃紺が教室を暗く照らしている。
「残りは……明日でいいか。付き合わせて悪かったな、
「いいっていいって。俺が好きでやってることだから」
須田の言葉を皮切りに荷物をまとめて教室を出る。廊下の蛍光灯もほとんど消えていて、スマホのライトを頼りに帰る羽目になった。
ようやく玄関にたどり着いたところで反対側の廊下にいた懐中電灯の光に呼び止められてしまう。
「キミたち! 近頃は物騒なんだからもっと早い時間に帰るように」
「はい……すみません」
見回りをしている警備員さんだった。ばつの悪い俺たちは声をそろえて平謝りする。
警備員さんの言う通り、もう少し早めに切り上げれば良かったな。そうすれば、少なくとも注意はされずに済んだはずだ。
「そういえば今日の番組録画してたっけ」
須田と別れを告げて一人になった帰り路。いつもは気にも留めないようなことが、ふと気になった。その懸念は少しずつ膨らんで、自然と足を速めさせる。普段ならほとんど通らない狭い路地に足が向いたのも、言ってしまえば気まぐれからだった。
塀と塀に挟まれた細い道は、人通りが少ないうえに暗く生臭い。犬猫の喧嘩だってしょっちゅうだ。今日だってゴミ捨て場の横からいくつもうなり声が聞こえている。
「ん?」
その喧嘩が今日は一段と騒々しかった。暗くてよく見えないが、鳥も犬もみんなまとめて一匹を集中的に攻撃している。自然界の生存競争というには異様な光景だった。
迷いは一瞬だった。そもそも迷いと言えるような時間もなく駆け出していた。
「どっか行けお前ら!」
脱いだ上着で取り囲んでいた方を追い払う。いじめられていた方をその上着で包むと、つるつるとした鱗っぽい手触りとひんやりとした冷たさが腕の中に広がった。どうやら哺乳類ではないらしい。どこかの家のペットが逃げ出したのだろうか。
手遅れだったかもしれない。そんな考えを腕の中の弱々しい脈動が無理やりに紛らわす。大丈夫だ。まだこの子は生きている。
突然の乱入者にひるんでいた動物たちが、一斉にこちらを振り向いた。
「はっ!?」
思わず上擦った声が出た。振り返ったそれらに目が釘付けになって、身動きが取れない。
それらは動物ではなかった。鳥のように見えたそれは見えただけでも目が八つ。足には人間の腕のような五指がある。唸り声をあげてこちらを威嚇する犬のようなものは、口が縦に裂けていた。
醜悪な見た目に目をそらしたくなったが、そのあまりの特異さに目を離すことさえ出来ない。
『逃げて』
声が聞こえたような気がして我に返る。目の前には臨戦態勢の謎の生き物たちが何体もいるのだ。呆けている場合ではない。回れ右をして、荷物も取らずに来た道を戻る。
人の多い大通りまではこいつらも追いかけてこないんじゃないか。何も考えずに逃げ出したが、こいつらが妖怪か何かなら人に見られるのは嫌うはずだ。
追いかけてくる足音や羽ばたきの音、吠え声が絶え間なく聞こえてくる。恐ろしさのあまり足を止めてしまいそうになるが、なんとか歩を前に進めていく。
大通りまで走り抜けて異変に気付いた。人の気配が全くないのだ。帰宅を急ぐ乗用車も、お気に入りの嬢と電話をするサラリーマンも、夕飯の買い物から帰る主婦もそこにはいなかった。
『テマドラセヤガッテ』
肩をつかまれると同時に声が聞こえた。金属が軋むような気分の悪くなる声で、びくりと体がはねて固まってしまう。恐る恐る振り返る。
――肩に乗せられた手のひらは、鳥のような異形の足に生えた異物だった。
「ひっ……」
悲鳴すら出ずに息が詰まる。腕の中の生き物を抱き留める力が無意識に強くなる。
『ヨテイニハナカッタがコイツモつれてイコう。ドヴォルグサまもお喜びになる』
『それもそうだ。俺たちにも取り分が回ってくるだろうさ』
『いいヤ、待てなイ。さっさと俺らで食ってしまおう』
徐々に化け物が発する言葉からノイズが抜けて鮮明になっていく。こちらの言葉を高速で覚えているのだろうか。そして、その言葉に背中を冷や汗がなぞっていく。
近頃多発している失踪事件を思い出す。ちょうど今くらいの夕暮れ時に様々な人が姿を消していて、地元のニュース番組はその話題で持ちきりだ。最近は全国区のニュースでも取り上げられるようになった。
手がかりが一切なく、行方不明者が帰ってこないという事実だけが残る怪事件に、自分自身が巻き込まれたという不安が急速に心臓の鼓動を速めていく。
腕の中の生き物がもぞもぞと動き出した。化け物に襲われていたこの子も普通の生物ではない可能性に今更ながら思い至るが、好奇心には勝てなかった。俺たちをそっちのけで、食うか連れていくかで喧嘩している化け物を横目で警戒しながら、上着をめくる。
そこにいたのは光り輝く白銀の鱗を持った美しいドラゴンだった。小ぶりながら真珠のようにつるりとした角と、傷ついて欠けてはいるものの体全体を覆えるほどに大きな翼が、その子がただの爬虫類でなないと如実に告げてくる。
「私、なんかを助けて……どうするつもりなんだお前は」
弱々しい女性的な声音で呆れられた。周りに女の人なんて見当たらなかったから、その声がドラゴンのものだと少し遅れて気付く。
「困っている人がいたら助けるのが当たり前でしょ?」
「呆れた。何か理由があるのかと思ってた」
普通に会話していることを疑問に思う暇はなかった。化け物に取り囲まれていることの方がよっぽど気がかりだったからだ。言い争いをしているそいつらは俺たちを逃すまいと時折こちらをうかがっている。その度、異形の姿にうろたえてしまう。
「それで? ここからどうするつもり? この空間は奴らが作り出した狩り場。ある種の結界よ。それをどうにかしないと奴らの腹の中か、連れて行かれて奴隷になるかの二択よ」
「うーん……最初はただの動物の喧嘩としか思ってなかったしなぁ。とりあえず逃げるしかない?」
おどけて悩むようなそぶりをしてみるが、化け物からは目を離さない。あちらは議論がヒートアップしているようだ。どうにかして意識を逸らせれば逃げられるかもしれない。
「馬鹿ね。それじゃあさっきの私みたいに囲まれて終わりよ」
『おい、テメエら! 何のんきに話し合ってんだ!』
現実逃避の時間は終わる。こちらに気づいた一匹が威圧的に吠えたからだ。恐怖で身がすくむなんて生まれて初めてする経験だった。ドラゴンを抱えていない右手で、笑う膝を叩いて自分を鼓舞する。
「大声出して!」
突然のドラゴンの指示を、何もわからないままに実行する。
「逃げろっ!」
あらん限りの大声が異形たちの聴覚を揺さぶる。どうやら人より音に敏感らしい。一瞬だけできたその隙をついて俺は走りだした。
『走れ走れェ! こっからはいつもの狩りの始まりだ! 俺たちを楽しませるんだなァ!』
背中から怒鳴り声が聞こえてくる。ここらへんの道はあいつらよりは詳しいだろうけど、いつまでも逃げ続けられるほどの体力はもちろんない。いくつもの暗い路地と誰もいないであろう他人の家の敷地をまたいで距離を取る。
「私なんかに関わったばっかりに災難だったわね」
物陰に隠れて息をつく。全力疾走したから少しでも息を整えたかった。
「……俺が助けたかったから助けたんだ。後悔はしていない。それよりもあいつらはなんなんだ? あんな化け物見たことないぞ」
「あいつらはこの世界とは別の世界、私の故郷ドラグニカから来た邪悪な戦士グラーダたちよ」
別の世界、ドラグニカ、グラーダ。聞きなれない言葉の連続に酸素の足りていない脳みそが余計にくらくらする。しかし、それらは目の前に存在していて、このドラゴンも現実だ。幻覚や夢だと自分をごまかすには、真に迫りすぎていた。
「というか、お前だってなんなんだよ。なんであいつらに襲われてたんだ? というかあいつらと同じじゃないのか?」
彼女は翼を羽ばたかせて唸り声をあげる。ドラゴンの表情なんて読めないが、不機嫌そうな雰囲気は伝わってくる。
「失礼ね。あんな奴らと一緒にしないで。私の名前はニュート。ニュート=ドラグニカ。ドラグニカの祖王ドラグニオンの直系にして次代王女なんだから。奴らみたいな力だけの蛮族とは違うのよ。そっちこそ名前を名乗ったら?」
出てくる単語は相変わらずさっぱりだが、高貴な身分ではあるらしい。幸い周りに化け物が近づいている様子もなかったから、自己紹介をすることにした。
「俺は
「ガクセイ? ……ああ、学び舎で勉学に励む者たちのことか。ここに来た理由は、奴らが異界へつながる門を狙ってお父様の城に攻め込んできたからよ。私を追ってきたってことは、城の者たちは全滅しているということ。元の世界には帰れないわね」
淡々と話してはいるが、彼女の知人はすでにあいつらにやられているのだろう。吐き捨てるような声音がかえって痛々しい。
「……今更だけどこっちの言葉分かるんだ。あいつらも喋ってたし、翻訳できる魔法でも使ってる?」
「馬鹿言わないで。突然飛ばされた異世界の言葉を喋れるわけないじゃない。たぶんだけどこの世界には……」
彼女の言葉が途切れてしまう。俺たちを探す化け物、グラーダたちの声が聞こえてきたからだ。
「この結界って範囲とかないの……!」
できる限り小さい声で質問をする。しかし、ニュートは残念そうに首を横に振った。
「範囲に限界はあるわ。けれどそこには出入口はなくて境界の壁があるだけ。何度も言うけど普通の人じゃ逃げることなんてできない。ご愁傷様」
全てをあきらめたその声色にふつふつと湧き上がる感情。怒り? 焦り? よくわからないそれをつかみ取る前に思考は寸断される。あいつらが俺たちの前に現れたからだ。
「見つけたぞォ~逃げられるなんて思ってねえよなァ」
目を疑うほどに大きな影が頭上を覆う。それは光の加減でできた虚像などではなかった。小動物サイズだったグラーダたちはちょっとした物置くらいの大きさにまで巨大化していた。
「ようやくこの世界に体が馴染んできたぜ……追いかけっこはおしまいだ小僧!」
犬型グラーダの鋭利な爪が振り下ろされる。しかし、いきなりの巨大化に目算が合わなかったのか、その攻撃は間一髪で横にあるコンクリートの塀を破壊した。あれが自分の体だったらと思うとぞっとしない。
「チッ! こうも姿が変わるとやりにくいな!」
大きくなって破壊力も増しているが、その分動きは大雑把だった。脇の下をくぐり抜けてまた走り出す。
「待ちやがれェ! 逃がすと思うなよ!」
「結局逃げられてりゃあ世話ねえなァ!」
「うるせえ腰抜けが! 黙って追いかけろ!」
背後で言い争っている声が聞こえてくるが、俺たちを追う足音も止みはしなかった。少しでもあいつらの動きが阻害されることを願って雑木林に足を踏み入れる。手入れの中途半端な木立は鳥型の侵入も犬型の蹂躙もちょうどよく阻んでくれる。
くぐり抜けた先にはこじんまりとした神社があった。その空間だけがわずかながら開けている。隠れ場所を探して走りだそうとすると、ニュートがするりと腕を抜け出した。
「無駄だって分からないの!? 奴らの力は強くなる一方で私たちは逃げ出すこともできない! どうして!?」
逃げるなんて無駄だ、諦めるしかない。そんな弱気な言葉が、同意を求めるように頭の中で暴れまわる。
この逃避行に終わりがないのは嫌というほど理解していた。ガラス張りの水槽で自由を奪われた熱帯魚。それが今の俺たちだ。
それでも、最後の瞬間まで諦めることはしたくない。そして、ここで足を止める彼女を置いて俺だけが逃げることもしたくない。
「俺は、諦めたくないんだ。あいつらから逃げることも、キミを助けることも」
困っている人がいたら助けてあげる。そしてそれは途中で投げ出してはいけないんだ。たとえその本人が望んでいなくても。
――思い浮かぶのは病室で外を眺める、歳の離れた幼なじみの顔。疲れ切ってすべてをあきらめたあの顔をもう二度と俺は見たくない。
「最後まで一緒に足掻いてやろう。俺ら二人でさ」
宙に浮くニュートに手を差し伸べる。彼女がその手を取るか躊躇っているまさにその時、音を立ててしめ縄が巻かれた御神木らしき巨木が倒れた。蓮理が五人いても囲いきれないほどに大きな木でも、あいつらにとっては少し邪魔な障害物でしかないらしい。
「追いついたぞ小僧」
連理たちを囲むように化け物は並ぶ。その数は五体。今度こそ逃がす気はないようだ。
いよいよ年貢の納め時ってやつか。そんな慣用句が頭に浮かんだ事実に少しだけ可笑しさを感じた。ニュートには啖呵を切ったくせに諦めが顔を出し始める自分がなんとも情けない。短い人生を振り返ろうと走馬灯が走りだすその直前、ニュートが言葉を発した。
「全く。お人好しにもほどがあるわよ。あんたが私を助ける義理なんてどこにもなかったのに」
「さっきも言ったけど、助けたかったっていうのが理由だよ。人助けの理由なんてそれで十分だ」
「死ぬ前に仲良しこよしか? いいぜ、見せてみろよ」
グラーダの一人がはやし立てる。狩りが終わればあとは獲物をどう調理するかだ。俺たちをこれからどう弄ぶかという算段が、あいつらの頭の中にはたくさん浮かんでいるに違いない。しかし、ニュートは少しも視線を揺らさずに俺を見つめている。
「……あんた賭け事はよくするの?」
「いや、あんまり……」
質問の意図が分からず歯切れの悪い返事をしてしまう。賭けなんて、給食のデザートをめぐってじゃんけんしたことくらいしか記憶にない。
「なら、これがあなたの人生最大の大博打よ。私の後に続いて言葉を紡ぐの!」
空気が張り詰める。俺たちを囲むグラーダたちの顔色が変わった。爪が牙が嘴が、俺たちの命を刈り取ろうと幾多も振り下ろされる。しかし、それらがこちらの命に手をかけることはなかった。温かな光を放つ障壁を彼女が魔法で生み出していたからだ。
――『言葉は人を生かし人を殺す』
聞こえてくる音は知らない言語だったが、なぜか意味だけが伝わってきた。言われるがままに彼女に続く。障壁が割られかけているが、彼女は気にせず呪文のようなものを唱えるのをやめない。
――『言葉は悪を弾き、あるいは悪を招く。しかし我らは悪を認めず。悪を挫く意志に力は宿り、新たな言葉を生み出すだろう』
――レンリ! 私の名前を呼んで!
障壁には無数の亀裂が走り、決壊寸前だ。後先など考える余裕もなくがむしゃらに叫ぶ。
「ニュート!」
彼女の名前を叫ぶと、己の内側から間欠泉のように知らない言葉が湧き上がる。その勢いは新たな叫びとなって喉を震わせた。
「――ッ!
目を開けていられないほどのまばゆい光が俺たちを包む。それと同時に障壁は砕けていくつもの爪牙が迫るのがスローモーションのように見えた。しかし、その致命の一撃を何かが阻む。
刃物のように鋭い爪を受け止めていたのは銀の輝きを放つ俺の左腕だった。
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