雑踏

玉井冨治

第1話

 雨は嫌いだった。

 昔からずっと、雨の日は嫌いだ。それはこれまでもそしてこれからも変わることなどないだろう。雨が降ると髪の毛がぼざぼさになるし、何だか全てのものがじめじめして見える。雨の日だと、何をしても気が乗らない。何もかも台無しにしてしまう。雨が降らないと虹は出ないし、水も飲めないけど雨を好きになどなれない。雨は別に降ってもいいけど、雨の日は嫌い。

 あの日を思い出してしまう。

 地面を叩く雨の音、傘を叩く雨の音、子供達が雨が作った水溜まりを踏みつける音、その全てが憎い。水溜まりを長靴とレインコートでぱちゃぱちゃと何度も踏んで遊んでいる。




 あの日も雨が降っていた。

 私は道々にできた水溜まりを踏みつけて遊びながら歩いていた。一緒に歩いていた父は飛び散るからと何度も私に注意していたが、父も何だか楽しそうだった。私の父は大手広告会社に勤める広告デザイナーだった。父が手掛けた広告が駅にあると嬉しそうにどんな仕事だったか話してくれた。

 その日は確か数年前に亡くなった母の誕生日で、母に誕生日プレゼントを買いに行っていたのだった。母は純粋で儚い真っ白な薔薇が好きだった。だから誕生日には真っ白な薔薇の花束を仏壇に飾ることが決まり事だったのだ。


 「父さん、今年も薔薇を買うの?私はチューリップの方がいいな。」

 「阿澄、今日は母さんの誕生日だ。母さんの誕生日には?」

 「真っ白な薔薇の花!」

 「そう、母さんの誕生日には真っ白な薔薇の花。薔薇はね、母さんが大好きだった花なんだよ。特に真っ白な薔薇の花ことばの一つに『素朴』という言葉があるんだ。母さんは何よりも『素朴』でありのままであることを大切にしていたんだよ。だからほら、阿澄。君の名前も『阿澄』なんだよ。」

 「ふーん、私素朴より綺麗な方がいいな。」

 「まぁ、阿澄にはまだ分からないか。」


 阿澄の父、川島勇司は心優しい男だった。何よりも、自分よりも家族を大切にしていた。その為か、趣味もなければ頼る相手もいなかった。それでも彼は自分がした行いのお陰で誰かが笑顔になることを、最も生きがいにしていた。だから妻である百合が死んだ今でも、彼は毎日を笑顔で過ごすことができている。

 勇司が他人の手助けをしない時はほとんどない。道端で困っている人を見かけたらすぐに声をかける。それが家族との旅行中でも、妻とのデート中でもお構いなしである。男としては不十分な配慮の仕方であるが、人間としては十二分な配慮の仕方である。これはそんな彼だから起こってしまった悲劇なのである。

 相変わらず二人で手を繋いで花屋に向かって楽しく歩いていると、何んとも雰囲気の悪い声が聞こえてきた。何を言っているのかはよく分からないが、ここにはいたくないと阿澄は思った。きっとそんな時、普通の神経をした人間でマジョリティな感覚の持ち主ならばその場から逃げようと思うであろう。もしくは、見物人に加わるか。しかし勇司は普通の神経をもってはいないし、マジョリティな感覚の持ち主でもない。よって彼はその不愉快な声のする方へずんずんと進んで行く。

 声の主は高校生位の若者数人。ざっと数えて五人ほど。父親がその声の方へと進んで行くので、彼と手を繋いでいた阿澄も恐怖や不安に近付かざるを得なかった。近付いていくと段々とその姿が見えてきた。何んとも見すぼらしい出で立ちの痩せこけた中年男性を中央に囲って何やらしている。何をしているのか、はっきりとは分からないが中年男性はとても迷惑な顔をしている。嫌がっていて不幸な目をしている。『なぜ自分がこんな目に合わなくてはならないのか?』その目がそういている。

 もっとよく見てみると、少年達の中の一人の高価そうな洋服の胸元が汚れていた。黒い服に砂埃の様な汚れができていた。これが原因なのだろうか。彼等は中年男性に向かって罵倒している。顔を極限まで近付けて大声で『どうしてくれるんだ!』などと罵っている。

 その姿を見た勇司は黙ってはいられない。例え困っているのがホームレスであれ関係などない。どんな人がどんな状況で困難な状況になっていたとしても、助けるような馬鹿さなのである。勇司は阿澄の手を握ったまま少年達の方へとずんずんと進んで行く。どうせなら、手を離してから行ってほしいものだと阿澄は思った。振りほどこうと少し藻掻いてみたり、力を入れてみたりするが勇司は手を握っていることを忘れている様だ。そのまま少年達に近付くと少年の一人の肩に手を触れ、中年男性から引き離そうとした。


 「何だ、てめぇ。邪魔すんのか。あ?」

 「邪魔ってね、君。邪魔しているのは君達の方だろう。こんな道のど真ん中で、公衆の面前でこれはないだろう。」

 「じゃあお前、この服弁償できるのかよ。」

 「慰謝料合わせて二十万だな。」

 「この汚い奴の代わりに出せるのか。」

 「慰謝料合わせてもいいところ五万円だな。その服がいくらするのかなど知らないが、そんな少しの汚れなどクリーニングに出せばすぐに落ちる。そのクリーニングだってどんなに高くても一万や二万がいいところだろう。あとは・・・」

 「うるせぇな。ほざくな。お前等みたいな社会の底辺に、選択の予知なんてねんだよ。」


 勇司はそれは聞き捨てならないといった表情をしたが、何とか気持ちを収めた。少年達に手を上げたら、犯罪者になるのは勇司の方だ。だから彼は少年達に何を言われても暴力を振るわなかった。しばらく、少年達と口論を繰り広げると少年達の言い訳がなくなってきた。結局少年達は語彙力などさほどなく、力任せに相手に圧力をかけて金銭をむしり取っているのであった。勇司の言葉に対抗できなくなると気付いた少年の一人は強行突破をするために行動に出た。


 「うるせぇ、黙りやがれ!」


 その言葉が聞こえると、勇司の手が阿澄の手から離れた。何かを悟ったのであろう。阿澄は気付いた時にはもう、勇司は隣にいなかった。何が起きたのかと目をこじ開けると十メートル先に父が横たわっていた。勇司は頭をかばうように丸くなっている。少年達は中年男性を蹴飛ばしてどかすと、勇司を囲んで暴力を振るい始めた。少年と言えど、大人に近い少年達である。大人も同然の力で蹴られ続けられてはたまらない。


 「父さん!父さん!助けて!誰か助けて!」


 阿澄の声は雑踏を極める、ただ見ているだけの人間に飲み込まれた。勇司へのリンチが始まると近くにいた大人が、その輪の中から阿澄を出した。きっと、阿澄に影響が及ばないようにしたのだろう。それでも父を助けてくれる人は誰もいない。自分は子供で何もすることができない。ただ、助けを呼ぼうと叫ぶことしかできない。警察はいつまで経っても来ない。叫んでも叫んでも、その声はかき消される。

 数分間が無限のように感じられた。一旦、観戦者が増えたのを感じたのか少年達はその場を去ろうとした。しかし思い直したように道に転がっている勇司を引きずってどこかへ行った。




 その後の勇司の姿は誰も見ていない。彼は行方不明者として何か月もの捜索をされたが見つかったのはたった一つだけ。それは暗く狭い路地裏に落ちていた。彼がどこかへ消えてから二週間も経った雨の降りしきる日。警察に保護されていた阿澄(両親以外に親族はいなかった)の元に透明な袋に入っているそれは届いた。

 届いたというのは、その物ではなくその報告であるがまだ幼い彼女には何も理解できなかった。それは勇司が愛用していた万年筆であった。大手広告会社で働きながら小説化を目指していた勇司は万年筆マニアでもあった。万年筆にはこだわりが強かった彼がずっと胸ポケットに収めていた物である。

 しかしその万年筆はいつまでも阿澄の元へ帰っては来なかった。

 警察の『必死の捜索』は一か月半で打ち切られた。身元を失った阿澄は施設へ入れられた。施設では沢山の友達や同志とであることができた。楽しいことも、嬉しいことも、その多くをそこで体験した。しかし勇司失踪は阿澄に大きなものを残した。新しい小学校へ通うようになっても、新しい家族と生活するようになっても、事件から二年経つまで雨の日に外へ出ることはなかった。外へ出られるようになっても嫌な気分になることに変わりはなかった。

 元々、阿澄は雨の日が大好きだった。雨が傘を叩く音。雨が地面に当たる音。雨が水溜まりになって『ポチャン』とたてる音。雨の日の臭い。その全てが好きだった。でも、あの事件が起きてから雨の日が嫌いになった。あの事件はそれだけ、幼い阿澄に影響を与えたのだった。

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