第8話 メイドの「ルネ」
競馬場から少し歩いた一帯に、競走馬たちの過ごす厩舎がある。太陽と雲が朱に染まり、世話人たちの仕事が終わったころを見計らい、建物の影から身を出す。
「馬房の中とはよく知っとるなあ。カネに困った旅人が使う手やで。まあ競馬場のを使うやつはそうおらんやろうけど」
「子供のころ、城の馬房に隠れて遊んでいたものです。わらの中が心地よくてそのまま眠ってしまい、大騒ぎになったことがありました」
「あー……なんだか目に浮かぶようや」
どの馬房にも、明日のレースに出走する馬がいた。彼らを刺激しないよう気を配りながら空いている馬房を探す。
競走馬が中にいるなら気配ですぐわかるが……厩舎の屋根からもかすかに気配を感じる。
「……あら?」
右側から人間の子供のすすり泣く声がかすかに聞こえてくる。のぞいてみると、パドックで出会った女の子がうずくまっていた。
あの子はトキをよく知っていた。競争中止になってとても悲しんだだろう。放っておくことはできない……確か『アニー』と呼ばれていたはずだ。
「アニーちゃん?」
「ぐすっ……だれ?」
「覚えてるかな? パドックでトキを見てたお姉ちゃんよ」
「あっ、おねえちゃん?」
アニーは涙をぬぐってこちらに寄ってきた。
「おねえちゃん、トキをなおせる?」
「ここにトキがいるの?」
「うん。こっち!」
アニーに手を引かれた先、ある馬房の中にトキはいた。
最初に見た雄姿はどこへいったか、ゆがんだ目つきでただぼんやりと立っていた。ほとんど動かない口からは、粘性の高そうなよだれが垂れている。
「お医者様には見てもらった?」
「うん。おとうさんとむずかしいこといってた」
「なんて言ってたか覚えてる?」
「えっとね、おいしゃさんは『ショブンしなさい』って」
頭の中を衝撃が跳ねまわる。後ろにいるヒノカを向くと、目と目が合った。
処分。つまり『死なせる』ということだ。この言葉の意味を、アニーが理解できなかったのは不幸中の幸いというべきか。
深呼吸をしてアニーの顔を見る。
「……それでアニーのお父様は、お返事をしたの?」
「ううん。こわいかおして『ゆっくりはなしをしよう』って、おいしゃさんといっしょにかえっちゃった。わたしはトキがしんぱいだから、ついていかなかったの」
おそらくアニーの父親は判断を渋っている。だが猶予はない。
頭上に目を向けて声をかけた。
「『ルネ』、出てきていいですよ」
「はいはいー」
屋根の上から影が降ってくる。音もなく着地したメイド服の女性は、裾を持ち上げ礼をしてみせた。
「お呼びですか、『お嬢さま』?」
「わぁっ、びっくりしちゃった! ねえねえ、どこからきたの?」
「うーん……空からかな? にししっ」
「今の話を聞いていましたね? 一刻を争います。どうかトキを診てあげてください」
「はーい、ただちに」
ルネはトキの体を調べ始めた。
「……おおう、いきなりでなかなか言葉が出てこんかったわ。お嬢、あの姉ちゃんはいったい?」
「城のメイドで、ルネという者です。城下町からここまで追いかけてきたようですね」
「ひょっとしてお嬢を連れ戻しに?」
「大丈夫。彼女は私の味方ですから、そんなことはしませんよ」
何かわかったのか、飼い葉が入った箱をまさぐると、真っ黒な団子のようなものをつまんで取りだした。そのままかじって口に含む。
「……こりゃ『一服盛られ』てる。効き目が遅くなるよう細工までして……ずいぶんと手のこんだことをしますねえ」
そう言うと布切れを取りだし、粒を吐きだしてしまいこんだ。
「治療できますか?」
「んー、ちょうどピッタリな薬草が手持ちにあるし、ちゃちゃっといけますよ」
アニーは今のやりとりを不思議そうに聞いている。『毒』とわかりやすい言葉を使わないのはルネなりの気づかいだ。
「では頼みます。私たちはアニーのお父様とお医者様に話を」
「トキ、げんきになるの?」
「もう安心ですよ。一緒にお父様のところに行って教えてあげましょう」
「うん! こっちだよ!」
涙で濡れていたアニーの顔がぱあっと明るくなり、一生懸命に走りだす。あの笑顔がいつまでも続いてほしいと願った。
関係者の居住地区は馬房の脇に点在している。アニーの家族は牧場の経営者だそうで、レースの時期はいつも借りて寝泊まりしているらしい。
案内された建物に入ろうとしたその瞬間、一人の男が乱暴に扉を開けてきた。
「きゃっ」
「なんだ危ないなあ、ホラどきなさい」
「おいしゃさん! トキがげんきになるんだって!」
「は? そんなこと誰が言ったんだね?」
「おねえちゃんたち!」
医者らしき男は目を丸くして驚いた様子だったが、こちらを見ると深いため息をついた。
「そうかそうか、そりゃよかったねぇ。じゃ、先生はもう帰るから」
すれ違いざま、こちらにだけ聞こえるようにボソッとささやく。
「期待させるのはやめたまえ。この素人が」
「なんやと、オマエ――」
ヒノカが何かを言いかけたところを制止する。ここであれこれ言いあうのは良くない。アニーを怖がらせないためにも黙って見送った。
ひと呼吸おき、あらためて扉を開ける。
「ただいま!」
「アニー、帰ってきたのか。そちらの方々は?」
アニーの両親だ。いよいよヒノカとの練習の成果を出すときが来た。これから何度も繰り返すであろう大事な儀式。勇気を出して頭を軽く下げた。
「私は、旅芸人一座の座長でエルミーナと申します。こちらは共の者です」
「ヒノカといいます、よろしゅう」
しっかりとあいさつできた!
相手にとっては何気ないやり取り。しかし女王にとっては『エルミーナ』という人間が初めて自分の足で立ったような心持ちだ。
あいさつの勢いを生かしてパドックでアニーと会ったこと、トキの故障を見ていたこと、馬房にアニーがいたことを説明した。
「……それで、本当にトキの容態はよくなるんですか?」
「病や薬に詳しい者がおりまして、手元にある薬で対処できると。既に治療を始めています」
「あ、ありがとうございます!」
アニーの両親は深々と頭を下げ、絞り出すように言う。
「エルミーナさん、その……お薬代はいくらほどで?」
「いいえ、私もトキのすばらしさに感動した身です。私が治したいのですから、お代はけっこうです」
ちらりとヒノカのほうを見た。満足気な笑みを浮かべている。彼女も賛成のようだ。
「代わりにと言ってはなんですが、一度トキの様子を見に来てくれませんか? 万全を期すため、あの子をよく知る方に見ていただきたいのです」
「わかりました。行きましょう」
一家を連れ、もういちどトキの馬房へと向かった。
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