第90話 鱗

 透き通った水の中。

 降り注ぐ日差しを浴びて水面は煌めく。

 時折撫でる柔らかな風が立てたさざ波は、銀に輝く鱗のようで。

 力強い魚の上ではしゃぐ君は、まるで御伽話の中に登場する妖精のように美しく写ったのだった。


 少しずつ、一日という時間が長くなっていくように感じるのは、多分昼間というものが長くなっているように感じているからだろう。

 日が昇り落ちるまでの時間は常に一定ではなく、一年という区切りの中で緩やかに変動を続けている。これはこの惑星の軸が斜めに傾いてしまっているせいだから、どうしようもない話。当たり前の様にそこに在る共通認識を疑うことは考えたことがない。

 また一つ季節が終わり、そして新たな季節が始まる。

 それは一年を四つに区切ったうちの一つ。一番太陽が輝く夏という季節だ。

 とはいえ、その時期がやってくる前に雨の季節が訪れるのだが、どうしたことか、今年はその気配を未だ感じられなかった。

 連日のように続く青空は、日差しを遮る物が無くとても眩しい。温められた空気が地表を満たし、空気に混ざる湿度と絡み合い更に蒸し暑さを助長させる。肌を伝う汗が衣服に染み込む度感じる不快指数。その数値はとっくに限界を越えてしまっていた。

「あー……あつい……」

 幸いなのは、未だに蝉の鳴き声が聞こえてこないということ。開かれた窓から吹き込む風が少しだけ肌寒いせいか、精一杯声を枯らし求愛を続ける短い命は、地面の中で眠ったまま起きてこないようだ。

 風が吹けば忘れる蒸し暑さ。それでも、風が常に都合良く吹いてくれる訳では無く、どちらかと言えば凪いでいる状態の方が長いとすら感じる。空調設備をもう少しどうにかして欲しいだなんて。そんな我が儘を口にする人間は、このクラスにどれくらい存在しているのか何て考えるだけ無駄である。

 天井には、数台の扇風機。元気に羽を回転させ部屋に漂う熱気を拡散させようと必死に働いてるのは分かるのだが、それも効果は殆ど感じられる訳では無い。

 結局のところ、暑いものは暑いのだ。

 それならばいっそ、たっぷりの水の中に思いっきりダイブし、海月のようにぷかぷかと浮いていたい。そんな下らない事を考えながら、空に浮かぶ真っ白な雲を憎たらしげに睨み付けた。

 授業が始まり教師が教科書を広げ語る。黒板と触れ合うチョークの奏でる小気味良い音。勉学に励むのが学生の仕事だと分かっては居るが、集中力なんてとっくに切れてしまっている。一応、気持ち程度に耳は傾けながら、ぼんやりと窓の外へと向けた視線。

「……?」

 真新しい水の張られた大きなプールの中で、何かが跳ねた気がして首を傾げる。

「……魚」

 もう一度。それは大きく飛び跳ね水の中へと潜っていった。

「……疲れてんのかなぁ?」

 この時間、体育でプールを使っているクラスがあるのかと思ったが、その後は一切水面が動く事はない。そもそも、この場所からプールまでは結構な距離が離れているのだから、幾ら視力が良いとはいえ、プールの中で跳ねたものが何であるのかまでを認識するのは難しい。

「夢、かな」

 昼に見る夢。意識ははっきりしているし目は覚めているが、意識が此処に在らずという状態だと見ると言われている白昼夢に、どうやら捕まってしまったらしい。一人そう納得し、視線をゆっくりと黒板へ戻す。

 いつの間にか緑色の大きな板の上は大量の文字で埋め尽くされていた。

「やばっ」

 慌ててノートにペンを走らせ、授業の内容をまとめていく。成績が悪いと言うわけではないが、良い訳でもないという中途半端な状態なのだから、少しくらいは努力しておかないと、後で親に何を言われるか分からない。

 退屈な授業は進む。いつの間にか、先程見た奇妙な光景は記憶の中から押し出され、忘れてしまっていた。


 帰宅は部活動をやっている人間よりもずっと早め。運動は苦手。だからといって人と何かを頑張るのも余り性に向いていないせいか、迷うことなく選んだ帰宅部は、部員数一人の気楽な物で。運動部の暑苦しいかけ声を聞きながら真っ直ぐに正門を目指す。

「あ」

 プールの前に差し掛かったときだ。無意識に足を止め、何となくそちらへと視線を向けた次の瞬間、一人の女性が勢いよく水から飛び出したのだった。

「……うわぁ……」

 それは何て事は無い。水泳部の女性部員が練習しているだけの光景。しかし、何故かこの時、彼女の事をとても綺麗だと思った。

 彼女が水面から顔を上げる度、彼女を輝かせるようにしぶきが光りを受けキラキラと反射を繰り返す。まるで水に守られているかのように感じられるそれは、とても幻想的で神秘的。

「魚だ」

 その表現が嬉しいものだとは疑問には思ったが、この時は本当にそう思ってしまった。

 美しい、虹色の鱗をもった綺麗な魚。それは、水と溶け合うように水の中で自由気ままに動き回る。水は喜んでこの魚を受け入れ、そして守るように寄り添うのだ。

 その日から、無意識にその光景を探すようになった。

 名前も知らない一人の女性に、一瞬にして奪われてしまった心。あの魚をもっと間近で見てみたい。そんな欲望が日に日に大きく膨らんでいく。


 そしてついにチャンスはやってきた。

「ねぇ。今日も練習してるの?」

 フェンスの向こう側。一人で泳いでいる彼女に向かって、声をかける。

「え?」

 彼女は驚いてこちらを見た後、困った様に「そうだよ」と答えてくれた。

「泳ぎ方がとっても綺麗だから、つい見とれちゃったよ」

 警戒を解くように穏やかに笑うと、彼女は少しだけ考えた後嬉しそうに頷いてくれる。

「僕、泳ぎ苦手でさ」

 泳ぎだけじゃなく会話も苦手だけど、そこは敢えて打ち明ける必要も無い。

 それから二、三言、言葉を交わし、頑張ってねと応援の言葉を残して別れる。

 去り際に聞いた水の音。思わず足を止め振り返り目を凝らすと、一際大きな尾鰭が水面を強く叩き大きなしぶきを上げる。

「わぁ……」

 重力に逆らわず水面へとゆっくりと落ちていく様々な大きさの水滴。それが彼女の身体を飾るようにして光り輝く。まるでそれは、鱗のような宝石で、それを纏う彼女は童話の中で語られる妖精のよう。

「やっぱり、綺麗だなぁ」

 夏が終わるまでに、後何回彼女はプールでこのように泳ぐのだろう。

 明日も今日みたいに晴れるのだろうか。明日の天気を確認するためにスマートフォンを取り出すと、検索エンジンに天気予報と入力し結果が出てくるのを待つ。

 無意識に動く指。

 彼女が水の中で音を立てる度、その姿を焼き付けるように、カメラのレンズ越しにそれを見て思わず口角を吊り上げる。


 ああ。やはり、これは人魚なのだ。


 パシャリ、パシャリ。水の中で跳ねる人の形をした魚。

 それはとても、美しく、そして扇状的な魅力を放ながら、泳ぐと言う事を心から楽しんでいる。


 いつかはその鱗を手にしてみたい。

 今は小さな仄暗い感情。それが少しずつ膨らみ大きくなるまで、もう暫く時間がかかりそうだ。

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