そのとき僕は強く拳を握った
クレオメ
ふたきれのトンカツ
たにっちとちひろくん。
この二人には練習で一度も勝てなかった。一度も。勝てたら嬉しいな、とは思っていたけれど、たにっちは僕たちよりもずっとはやくに身長が伸びていて体力もついていたし、ちひろくんはその校区では有名な足の速い三兄弟で小学一年生の時から一番か二番だった。いつも負けても少し悔しいくらいでしょうがないと思っていた。
そんなこんなで持久走大会の二週間くらい前におばあちゃんが入院した。乳がんの再発だった。よく分からないなりに悲しかったことを覚えている。そして悲しいなりに頑張って走っておばあちゃんを応援しようと考えた。
本番まで秘密の特訓だ。そう思って朝は早起きをして校庭を二十周も走った。放課後はスポーツ少年団でサッカーボールを追いかけ回した後に母親に車のライトで暗い夜道を後ろから照らしてもらいながら、走った。
二週間とにかく走って走って走り続けた。
「あーちゃんが外出の許可をもらって応援に来てくれるって」
母親からそう告げられたのは本番前日の夜のことだった。思いもよらない言葉に驚いた。そしてどういう訳かぼくが負けたらおばあちゃんがもう死んでしまうんじゃないかという思いが浮かんできて、その途端に怖くなった。どうせ勝てっこない。そう、どうせ負けてしまうんだからせめて余計なことをしないでほしかった。
「来なくていいのに…」
本番前日にしてぼくはなぜか戦意を喪失した。
母親が験担ぎに作ってくれたトンカツは、ふた切れ、残した。
当日は凍てつくほど寒い日だった。開始直前のみんなの頬は寒いからなのか、緊張からなのか薄く赤らんでいた。僕はおばあちゃんの身体が気がかりだったけど、久しぶりに目にするおばあちゃんは意外にも元気そうな表情で安心した。それでもぼくのためだけに、こんな寒い日に無理をして外に出てきてくれたことに対する申し訳なさの方が強かった。
「怪我だけはしないようにね。頑張って」
いつもと変わらない優しい口調でおばあちゃんは語りかけてくれた。その声を聞いた瞬間、ぼくの胸に沸々と熱いものが込み上げてきた。そしてそれまで思ってもみなかった言葉が真っ白な吐息と共にぼくの口をついた。
「絶対一番で戻ってくるから。ゴールで待ってて。」
間もなく六年生の番であることを告げる先生の声が聞こえた。僕は練習の時と同じように、たにっちとちひろくんと三人でまとまってスタートラインに立った。
「負けないから」
僕が足元を見つめながらぼそっと放ったひと言は耳をつんざくようなピストルの音にかき消された。顔を上げて僕の目は前を、ただひたすら前だけを見据えた。
つづく
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