竜の眠る町

レライエ

第1話ナラメシカの竜

 今は昔。偉大なる七大神が世界を一度無に帰す【聖伐カニバル】を実行する以前の、けれども徐々に神秘的で複雑な生態系が姿を消しつつある頃。現在では聖王国と呼ばれる地域の南西部にナラメシカという竜の死骸が残されていた。


 この何千年も前に永遠の眠りに就いた死体の主は当時クードロン諸島の南辺りを飛び回っていたちっぽけな翼竜種とは全く異なり、最初に死んだ竜であるランドリクスに近い幻想種ファンタジスタの頂点である真なる竜の一頭であった。

 彼――彼女かもしれないが――はこの土地で千年以上も魔力を貪りながら成長した、最も巨大な存在の一匹だった。何事もなければ更に大きくなっていただろうし、もしそうなっていたら世界は枯れ果てていただろう。少なくともナラメシカが生きていた千年の間に土地のほとんどは草木も枯れ果てた荒野と化していた。


 そして、高さ6300メートル、全長8000メートル。

 これが死してうずくまったまま何千年かを経て尚残った、ナラメシカの死体のサイズである。生気と活力に満ちていた時分にはどれほどの大きさであったか、想像するだに恐ろしい。


 とはいえ既にナラメシカの肉体は死んだ。

 それから長い時間を掛けて竜の死体には自然が覆い被さった。苔むした土に植物が根を張り、実った果物を目当てに鳥たちが集まり、その肉を食らう獣が集まった。竜の死体はいかなる神秘故にか朽ち果てることなくそのまま山となり、周囲の土地の荒廃を嘲笑うように魅力的な自然の宝庫と化した。


 大いなる食物連鎖のサイクルにヒト――広義の意味だ、人も獣人もそこには含まれる――が割り込んできたのは、傭兵サブリナ・エレクシアが魔術師から依頼を受けるほんの百年前の出来事だった。


「ヒトは獣より臆病なので」

 魔術師は神経質そうに眼鏡の位置を弄りながらそう言った。「『竜が再び動き出すことはない』という確信を得るまで、周囲を壁で覆って離れていたのです」

「笑える話だね。それとも泣ける話かな? もしアタシが竜の死を聞かされたなら、何千年もの間あのお宝の山を手付かずにはしなかっただろうにね」

「当時の人々では、竜を宝の山に変えることは出来なかったでしょう。【寂しがり屋の】マレフィセントやあの、忌々しいレウム・R・ドルナツがヒトと神秘との間に橋を架けない限りは」


 不健康そうな青年魔術師は薄暗い酒場の壁に掛けられた、レウム式世界標準時計を睨み付けた。若く熟達した魔術師にありがちなことに神秘は選ばれた者だけが持つべきだと、青年は考えているようだった。世俗に交わった魔術を堕落と思っている類いの考え方だ。

 もしかしたら周囲で賑やかに飲む客たちのことも、神秘の簒奪者と憎んでいるかもしれない。


 サブリナは気にせず、自分のグラスを口に運んだ。

 典型的な神秘隠匿派の魔術師の癇癪に付き合うより、上等な葡萄酒を味わう方が明らかに重要だった。エールでも混ぜ物多めの蒸留酒ディスティルでもない、どろりとした甘さは格別だ。依頼人の奢りなら特に。

 周囲の喧騒に嫌悪の視線を向けてから、ロシェは低く囁く。


「本来ならそうあるべきでした。竜は幻想種の中でもいわば王に等しい存在ですので。それをたかがヒトが扱うなど、それだけで間違いというものです」

「アンタの依頼が『一緒に酒を飲みながら愚痴を聞いて欲しい』なら別に構わないけどね、魔術師。そうじゃあないならそろそろ本題に入らない? でないとアタシは、飲むよ?」

「……いえ、それは……」

 魔術師は数回瞬きして、それから真っ青な瞳に理性の光を戻した。「確かに。その方が合理的ですね」


 ロシェ・クルーニーと、魔術師は名乗った。

 儀礼的にグラスを重ねると、魔術師は赤い葡萄酒を一息に飲み干した。


「現在竜の死体はナラメシカという名前のままで山になっています。周囲には町が広がり、で生計を立てています」

「連中の墓所の鼠っぷりはアタシも聞いたことあるよ。鱗を剥ぎ取るんでしょう? 火にも刃にも魔術にも強いって、傭兵の間でも話題になった」

「身に付けたことが?」

「無いよ。実際話題にしてたのは装備蒐集家コレクター以外じゃ駆け出しの連中ばかりだったからね、直ぐ下火になった」

 運ばれてきた鹿の串焼きを受け取りながら、サブリナはニヤリと笑った。「命より高い剣のことをアタシたちは無駄遣いって呼ぶのさ」

「無駄遣いが趣味のヒトは存外多いようですがね。実際、ナラメシカの町は随分と上手くやったようですので。納められる税金の前では、トニック辺境伯も口をつぐんでばかりだとか」


 ロシェは串焼きを断った。

 代わりに酒をお代わりした。勿論サブリナもそれに便乗したし、干した無花果も追加した。


「だとしたら、アンタはアタシに何を頼みたいのさ? 辺境伯様さえ手を出さないなら、傭兵と魔術師にお鉢が回るとは思えないけど?」

「簡単な話ですよ、そして辺境伯も手をこまねいてはいられないでしょう。そういう事態ですので」


 ロシェは無花果は手に取った。

 半分に切られた実を手の平で転がして、それからゆっくりと口に運ぶ。日に焼けたことなど無さそうな青白い顔の中で、赤い実を飲み込む口内の朱が不気味な予感をサブリナに与えてくる。いつだって予感はサブリナを助けてくれた、そして今回も、危険な予感は正しかった。


 魔術師は仮面のような無表情を浮かべたままで、およそ考え得る最悪の情報を吐き出した。



 周囲の喧騒が急に遠のいたような気がした。

 静けさの錯覚の中でサブリナは、ゆっくりとグラスを持ち上げた。

 血に似た色の水面に映った自分の顔と見詰め合う。その鏡像が目をそらしたりしないだろうか、その唇が『これは夢だよ、サブリナ。アンタはちょっと飲み過ぎたんだ』なんて、小馬鹿にしてこないだろうか。


 どうやらこれは現実らしいとサブリナが認めるまで、ロシェは歯車でそう決められてるみたいな一定のリズムで、一つ一つ、無花果を口に放り込んでいた。


「……それは……厄介な話だね」絞り出したのはそんな締まらない台詞だった。

厄介な話です」応じたのはそんな詰まらない台詞だった。


「……アタシの母さんは優しかった」

「はあ」

「アタシが畑の子ウサギみたいに小さい頃は良く、寝る前にお話を聞かせてくれたんだ。色々な話を。夢みたいな話を。余った野菜の皮でフリットを作るみたいに、ワクワクする話を即興で作ったりしてくれた。アタシは今でも、母さんのお話のどれが本当でどれが嘘だったのか、さっぱり解らない」

「…………」

?」


 それは誰もが知っている物語だ。

 邪悪なる巨竜に挑んだ五人の勇者。彼らは自分たちが持ち得た全ての力をもってナラメシカに打ち勝ち、五人の命と引き換えに竜の心臓は鼓動を止めた。悲劇として、或いは寓話として、世界中で語り継がれている。

 そうではなかったのか? 彼らはし損じたのか?


「多くの英雄譚と同じくかの五人の物語も、語り手によって都合の良い脚色が為されてはいます。彼らは自分たちの魂を、あまりにも短い時間に燃やし尽くしてしまいましたので。ですが、骨子の部分で伝説は正確に伝わっています。竜の心臓は間違いなく、彼らの手で停止させられた」

「なら、竜は死んだんでしょ?」

「物語は正確だと言ったはずです、ミズ・エレクシア。『竜の心臓は鼓動を止めた』のです」

「同じでしょう、心臓が動かないで生物は動けない」

「不正解ですが正しい言葉です、ミズ・エレクシア」

 子供に合格の印を押すような口振りで、魔術師は眼鏡の位置を直した。「『動けない』。正にその通りであり、そしてそれだけの事なのです……ナラメシカの死体が腐らないという話を知っていますか?」

「形を保ってるっていうのは、聞いたことあるけど……」

「えぇ、その通り。形を保っている。ナラメシカの魂が、肉体を時の流れから孤立させているのです」


 何を言っているのか、サブリナには解らなくなってきた。

 葡萄酒を飲み過ぎたせいではないだろう。魔術師が当然のように語る全てのことが、サブリナにとっては未知の言語で記された詩集のようだった。


「竜とはそういうものですので。心臓は確かに停止しました。ですがそれは、大いなる怪物にとっては些細なことなのです。竜が何故巨大なのか解りますか? 彼らは肉も水も必要としないというのに」

「竜に喰われた奴等もそれを知りたがるかもね」

「魂が巨大だからです。彼ら幻想種は魔力を吸って魂を育て、肉体を押し広げる。千年魔力を食らった竜の魂はあまりにも強大で、最早、滅多なことでは滅ぼせない。彼にとって肉体とは鎧であり住居であり、そして檻でもある。停止した肉体とは、魂が牢獄に取り残された状態に過ぎないので」


 いつの間にかロシェの手には、短い杖が握られていた。

 軽く身構えたサブリナを、誰も責めることは出来ないだろう。彼女は傭兵として何度も魔術師と出会していた。その経験から言って魔術師が杖を構えたら、自分の喉元にナイフが突き付けられているのと何ら変わらない。後はどちらが早いかだ。

 サブリナは自身の右手、その中指に填めた指輪を弄りながら魔術師の、奇妙な材質の杖をジッと見詰めた。あぁ、勿論杞憂だろう。このガラス細工のような杖に魔力が込められているとしても、雇おうとしている相手を殺す理由は無い。だがそれでも……反射的に動こうとする身体を押しとどめるのには、相当な理性が必要だった。


 ロシェが杖を振った。

 テーブルの真ん中に淡い光が生じる。小さな光だ、攻撃の意図は感じない。その白い光の塊に、ロシェは上等なハンカチを被せた。

 子供がする幽霊の真似のような形になったハンカチは、魔術師の杖の動きに従ってふわりと浮かび上がった。


「いかがです?」

「……拍手かな、それとも銀貨でも投げるべき?」

「魔力に何が出来るかという実演です。これは僕のように若い魔術師でも行える簡単な魔術です、そして竜は、世界で最も老練な魔術師の何倍もの時間魔力と親しんでいる。を動かすくらいは容易いと思いませんか?」

「アタシは門外漢だからね、そういうものかなと思うだけだけど。だとしたら、なんで何千年も竜は寝てたのさ? さっさと身体を動かして何処へなりと飛び立てば良かったのに」

「僕は『牢獄』と申し上げたはずです、ミズ・エレクシア。『牢獄』には『看守』がいるものです。例え王が住んでいるとしても、そこは宮殿ではありませんので」

「看守?」

「貴女のお母様が教えてくれたでしょう。竜殺しの英雄。彼らはその魂を使って竜の肉体を、快適な屋敷から不都合な牢獄へと変えたのです。それは実際見事な手際でした、ですが、ヒトの技に永遠は無いものです――少なくとも、竜の魂の寿命よりは短いものですので。そして看守がいなくなれば、牢獄の王は再び返り咲くことになるでしょう」

 ロシェが杖を振ると、ハンカチは見る見るうちに形を変えていった。「そうなった場合、竜は飛び立つでしょう、ミズ・エレクシアの思う通りに。ただしその前に、寝起きの竜は食事を取るでしょうけれどね」


 小さな竜の形になったハンカチは光り輝き鋭く鳴いた。

 口から淡い光を吐き出しながら飛び回るハンカチ。夢のように美しい光景だ――飛んでいるのが体長8000メートルの怪物で無い限りは。


 思わず見とれるサブリナの目の前で竜は一際大きく鳴くと、口を開け、爛々と瞳を輝かせながら――

 ――ドンッという音と共に、竜が墜落した。

 フォークでハンカチをテーブルに縫い止めたロシェが、淡々と告げる。


。僕からの依頼は、それだけですので」

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