20
「私は彼らの言葉が分からないのです。旦那さまが羨ましい」
きるけえはふらんそわを強く抱きしめ、その優し気な目を見つめた。
「私は仙女や
紋次郎の言葉にきるけえは大きく安堵のため息を吐いた。
「それは有難い事です。私の力はイシュタルの呪いによってもたらされたようなのですが解き方が分からなくて」
「イシュタルは相当霊力の強い高位の神格のようですが、あなたは何故呪いを掛けられてしまったのですか。その原因が分かれば一番話が早い」
「その事すら忘れてしまったのです。気が付いた時には私は記憶のほとんどない状態である小島におりました。ここではない、ずいぶん西の地域であったと記憶しております」
きるけえは深いため息をついた。
しばらくうつむいた後、きるけえが口を開いた。
「化け物狩りを依頼されたとお聞きしましたが、わたくしの事は街の人々にはどのように伝わっておりますでしょうか」
「お気を悪くなさらないでください」
それだけ言うと、
「人食いだの人さらいだの、男を誘惑し獣に変えて市場で売りさばいているなどと言っては恐れています。『きるけえが来るぞ』と言えばどんな悪ガキでも黙って親の言うことを聞くぐらいに、あなたの悪名は人々にとどろいております」
そうですか、ときるけえは無表情で答えた。
「それから、タコつぼ渦もあなたが男たちを捕えるための罠だから絶対に近寄ってはならないとも」
確かに私も全く同じ事を、ウツボ海の漁師たちからさんざん聞いていた。
「醜い女だとか愚かだとか言われていませんか」
「何とまあ妙な事を仰る。男を誘惑できる女が醜い訳も愚かな訳もないでしょう」
きるけえの問いに、
「貴女は絶世の美女であり賢い女性だ。出来る事なら私は貴女をここから連れ出し、昼夜も開けずに睦み合いたいぐらいです」
「わたくしを生け捕りにするつもりでは無かったのですか。いえむしろ旦那さまにでしたら生け捕ってもらって、そばに置いていただきたいぐらいです」
きるけえは両の腿をもどかし気に交差させながら、
「そうしたいのは山々ですが、貴女にかけられた呪いは相当強い。古今東西の術を学び仙女や八百比丘尼の精気を頂いた私ですら、
きるけえは出されたヨモギ茶を飲み干した。
「私がヨモギを摂り続けてイシュタルに掛けられた呪いの力が衰えれば、ここにいる者たちはどうなってしまうのでしょう」
きるけえは、傍らに侍るふらんそわに目を落とした。
「獣人ならば愛玩動物として街で生きる術もあるでしょうが、半獣人はそれこそ化け物として恐れられるばかりでしょう」
「獣人を人に戻す材料を手配出来れば、獣人と半獣人は少なくとも人型には戻れますでしょう。さすれば彼らに仕事を与えるぐらいの協力はいたします」
「大変に心強いお言葉ですが、その材料はほぼ幻と言ってよいほど手に入りにくいものです。しかもその場所は、今の私には全く分からないのです」
きるけえの言葉を受けて、
しばらくして、
「貴方がかつて住んでいた島はアイアイエー島と呼ばれていました。その島の南西の崖下に九月に咲く、星形の花を咲かせるニラ科の一年草が必要なのですね」
「アイアイエー島」
きるけえはその単語をかみしめる様に何度もつぶやいた。
「私はかつてそこで一年もの間貴女の世話になったのです。あの時も私は大勢の部下を連れてアイアイエー島を訪ねた」
「余りに長い時間が経ったのでお忘れかもしれませんが、私はかつての名をオデュッセウスと申します。イタケの王位にありながら長き放浪の旅を続けている最中、貴女の世話になったのです」
「私は、この島に来る時に大切な思い出を全部置いてきてしまったのでしょう」
悲しげに目を伏せたきるけえを、
「貴女はかつてアイアイエー島に住む魔女キルケとして恐れられていました。貴女の父君は太陽神ヘリオス、母君も神の一柱でした。貴女は魔女とは呼ばれていたものの、本来はれっきとした神族の一員であったのです」
「私が、神……」
きるけえは自分の父母など、いたかどうかも覚えていないと言っていた。
きるけえは自分の事を、醜く愚かだと思い込んでいた。
そんな自分にも父母がおり、しかも自分が神の血を引く者であったと知らされたのがいたく衝撃的だったようだ。
きるけえは放心状態のまま虚空を見つめていた。
「あなたがオデュッセウスなら、あの大男は一体何者なのですか」
放心したきるけえの代わりに、ふらんそわが口をはさんだ。
ふむ、と首を前傾させかけた
「いしゅたるはえんきどぅと呼んでたな。貴殿の事をぎるがめしゅと呼んでいたし、『三度我に恥を掻かせるとは許さんぞ』と言っていた」
「そうか、ギルガメシュか……。見えてきたぞ。貴方の名前は
「それは確かに私が人間の時の名前ですな」
「二瓶さん、あなたはイシュタルと会話をしたのか。したならば覚えている事を全て思い出してくれ。特になぜ呪いをかけたのかを聞かされてはいないか」
きるけえは獣になった私たちと会話が出来ない。
ふらんそわを側に置き、祈るようなまなざしで私と
「貴方がぎるがめしゅとしての生を終えた後、いしゅたるがある神託をきるけえに授けたのですが」
「その神託のせいであわや国が内戦状態になりかけたのです。事態を収める為に、きるけえが敵国と通牒して偽の神託を出したとして処刑される事に」
ふらんそわが大きく目を見開いて私を見つめた。
きるけえは訳も分からぬまま、ふらんそわの首にしがみついていた。
「その処刑の際に呪いを掛けられたと言う訳か」
身を乗り出して畳みかける
頭の付け根部分に衝撃が走り、私は耳障りな高い鳴き声を続けざまに上げた。
「どうされました、二瓶様!」
ふらんそわの呼びかけにも、体が応じない。
「久しいのう、ギルガメッシュ。久しいのう、イタケの王オデュッセウス。三たび我を辱めに来たか。そうはさせぬぞ」
私はいしゅたるに取り憑かれたように話し始めた。
いしゅたるは
「
ふらんそわが立て続けに吠えるも、私の体は一向に言う事を聞いてくれなかった。
「失せろ!」
私は
「取りつかれたか」
頭からヨモギの茶まみれになった私は、ふるふると体を震わせて水しぶきを飛び散らかすと、ぐったりと横になった。
「しっかりしてください」
ふらんそわが前足で私の体を揺り起こそうとするが、反応する気力も起きない。
「そっとしておいてやってくれ」
「何てことを!」
ふらんそわの首にすがっていたはずのきるけえは、急に叫ぶと廊下へと走り出した。
「どうなさいました」
追いすがる
「あなたの部下達が私の牛を勝手に焼いて食べています。家畜も獣化した牛も一緒くたに斧で首を落として。許さない。同じ目に合わせてやる」
「お待ちなさい」
「イシュタルの仕業だな」
いしゅたるに取りつかれたきるけえを追って、正気を取り戻した私は甲板へ飛んだ。
甲板も遠くに見える海岸も静まりかえっていて、肉を焼いた気配もなかった。
「神鷹、ウミヘビを捉え我が元へ来たれ!」
きるけえは誰もいない甲板で月に向かって手を高く差し出した。
その様を
きるけえの声に応えて月の光から現れて夜の海に急降下した鷹は、ウミヘビを咥えて甲板に立つきるけえに差し出した。
「破!」
ウミヘビの元へ走り出た
「許さぬ、許さぬぞギルガメシュ。主は天の牡牛に引き続き天の蛇をも殺したか!」
いしゅたるの言葉が野太い男の声となって甲板中に響いた。
「良いかギルガメシュ。お前は天の牡牛を殺した代償で永遠の命を渇望しながら死んだ。そして憎まれ者のオデュッセウスとして再び生を受け、長き苦難の旅路の途中でキルケに産ませた子供に殺される運命となったのよ。その苦しい生涯を経てもなお、天の牡牛を殺した罪は償い切れておらぬと言うに」
いしゅたるに取りつかれていたはずのきるけえは、全身の力が抜けたようにくずおれていた。
「お前は今また
きるけえの代わりに、いしゅたるは
きるけえは蒼白になりながら、綺堂が発するいしゅたるの言葉を聞いていた。
ふらんそわはぺたりと甲板に座り込むきるけえを包み込むように側にいる。
「ようやくあんたの事を思い出したよ。あんた俺のことがまだ忘れられないのか。好きで好きでたまらずに、今度こそ俺に振り向いて欲しくてこんなバカな真似をしているんだろう。いやあ五千年を超える片思いってのは辛いねえ」
「悪いがね、俺はあんたのような女は好みじゃないんだ。五千年以上前に言っただろう」
いしゅたるの依り代となった
「あんたは確かに見てくれは奇麗かもしれないが、男を欲して飽きれば獣にしたり拒めば気まぐれに逆剥ぎにしたり獣に食わせたり。この五千年間のたった一度でも男にあんたの真心の一つでも差し出したのかね。いや、無理だろうな」
「あんたは何一つ変わっちゃいない。あんたに真心なんかそもそもない。キルケに取り憑いてアイアイエ島まで俺を呼び出したあの時も、俺は同じ説教をしたよな。天の女主人を気取る割には学習能力がなさ過ぎていけねえや」
「男に真心だと。笑わせるな。我は死すべき者から真心を捧げられる者だ。我に真心や誠などという、死すべき者の持つ徳とやらがあるわけもない」
綺堂の左親指が二尺七寸はあろう剣の鯉口に伸びた。
「神とは力よ。神とは繁栄よ。神とは生み増やし死すべき者を地に返す営みの主宰者よ。愛や真心、正義に法などは死すべき者の為に我が編み出した幻に過ぎぬ。神はそのような物で縛られる存在ではないぞ」
「御大層な口ぶりだが明星の大神とやらが俺というちっぽけな死すべき男一人モノに出来ないのは何でかね。ちなみに言っとくが、俺はキルケなら抱く。あんたはその価値がない」
「天の女主人、明星の大神に何たる無礼。増上慢。滅びよ」
いしゅたるに操られた
「キルケ、ヨモギを持ってきた。頼む」
ひらりと剣線を交わしながら、
きるけえは受け取ったヨモギの束で夜空に向かって文様を描いた。
「主の呪術は所詮我の力を元にしているに過ぎぬ。効かぬわ」
風圧でヨモギの束を跳ね飛ばすと、
「キルケよ。主は我の一の神殿巫女であったくせに我を欺き裏切り、西へ東へ流転した果てに我を滅ぼそうとするか。主の力は我の力ぞ。思い上がるな」
剣先を振り上げた瞬間、ふらんそわが矢のように
「邪魔だ、邪教の犬!」
腕一本で払いのけられたふらんそわはそのまま海に落ちた。
きるけえは絶叫して海へと駆けた。
いしゅたるに操られた綺堂は、
蛇の毒や蜘蛛の糸が絡まりつくように、ねちねちとじわじわと
私は
それが分かっているから、
「不味いな」
いしゅたるは船の生き残り達も操り始めたようだ。
ヨモギの焚かれたかがり火が消され、甲板へと男達がわらわらと上がってきた。
私はふらんそわに教えたように、愛、愛、愛といしゅたるの嫌う言葉を唱え続けた。
「俺を裏切るつもりか。良いだろう」
「良い、実に良い眺めぞ。大人しく我の神殿に上がれば良かったものを、死すべき者の分際で侮蔑とともに拒んだがゆえにこのざまだ」
生ごみが腐臭を放つ中、
「今生では最愛の友エンキドゥと相打ちで果てるか。共に天の牡牛を屠った神殺しのお前たちに似合いの末路だな」
「シャマシュ!」
「それがお前が愛し愛される男の真の名だ。力の限り呼べ。まだ間に合う!」
「我の一の神殿巫女が異教の犬の洗濯女に成り下がるか。お前もあれも愚かよのう」
切っ先が振り上げられ、月の光を吸い込んだ。
「さらばだ、ギルガメッシュ。愚かなるイタケの王オデュッセウス。浅はかなる
切っ先が空気を切り裂いた
船が大波にさらわれたのだ。
飛び上がった私の上で、キルケの鷹が旋回するように舞っていた。
「ワシにはまだ、水神としての力は残っておるのじゃ」
きつつきになった私の前に、水神が現れた。
前に会った時に比べて随分と姿形がはっきりとしていた。
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