16

 ふらんそわが出て行った部屋にしばしの沈黙が訪れた。

「もうすぐ夜が明けるな」

 洞窟の奥の船室に似合わない一言をつぶやいて、とむが伸びをした。

「夜が明ければニヘイさんがこの島に現れてからちょうど七日目だ。潜水艦自体の調整は終わっているだろ」

「ええ。潜水艦自体の改造調整はあらかた終わっています。出来れば本日より実際に潜水訓練を行いたい所ですが」

「ですが?」

 私の問いかけに海豚いるかの顔をした男は難し気な顔をした。


「出来るだけ潜水艦の中にいて欲しい所ですが、キルケが情緒不安定になる危険が高くなる」

「今のフランソワにキルケの相手が出来るかって言えば無理だしな。俺があんな事を言ったせいで、余計な気を使ってキルケのベッドに潜り込まなくなりそうだし」

「それは困ります。彼には極力キルケの気を惹いておいてもらわねば。船を作らせると約束したのはキルケ本人ですが、彼女の表層はともかく本心では大人しく二瓶にへい様を手放すとも思えない。彼女の術は本心に反応して発動するのですから」

 海豚いるかの顔をした男は、珍しく弱々しいため息をついた。


「私に潜水艦の中に出来るだけいて欲しい理由は」

「二つあります。一つ目は二瓶にへい様と潜水艦自体の同期を促進させるため。二つ目はキルケに二瓶にへい様の想念を読み取られないためです」

 無機物である潜水艦と私が同期する理屈が、今に至るまでまるで分らない。

 ただ、実際にそのように船を操った民族がいたと言うからには、無機物を人間の意志によって動かす事は不可能ではないのだろう。

 それが最も洗練された操舵そうだ方法とは、とても思えないのではあるが。


「潜水艦との同期が進めばその分、私の思念送信力が高まる訳だ。きるけえが聞くまいとしても、私の思念が聞こえてしまう恐れがあるのだろう」

「それが最も怖い。地震の件もありましたから、一刻も早く二瓶にへい様をこの島から送り出したいのです。チップのおかげで思念送信力を更に上げるように調整すれば、その分潜水艦との同期も早く強く進みます。本来ならそうしたい。ですが」

 海豚いるかの顔をした男は、いったん言葉を切って私を見据えた。

「さらに思念送信力を上げるように調整すれば、きるけえと同じ館で暮らす事は不可能なほど、私の本音が丸聞こえになってしまう。そうでしょう」

 私の推測に、海豚いるかの顔をした男は大きくうなずいた。


二瓶にへい様は無になりきる事は出来ていないのですから、思念しねんの垂れ流し状態です」

「それじゃ不安と焦りが最高潮に達したキルケが、ニヘイさんをけものにしてしまうのは確定じゃないか」

 とむは顔をくしゃくしゃにした。

「さりとて潜水艦にこもり切りで戻ってこなくなっても、捨てられたと思い込まれて発作が起こり、二瓶様は獣にされる訳でして」

 海豚いるかの顔をした男が平板な声色で告げた。


「そう言えば、あなたはあらゆる術を収められているのだから、当然操心術そうしんじゅつも使えるのでは。きるけえを操心すればあるいは」

「いくら呪われた妖女相手と言えども、心を操る術を使う事はまかりなりませぬ。たしかに操心の術はありますが、操る者は必ず操られる。必ずです」

 私の疑問に、海豚いるかの顔をした男は珍しく厳しい声を出した。

「だからフランソワの野郎が小難しい御託なんぞ並べず、人間の時にとっととあの女のご機嫌取りをしてくれりゃ片付いたんだよ」

「ご機嫌取りもそう楽じゃない」

 私はうんざりとした表情を隠そうともせずため息をついた。

 この調子では、館の中ではすぐにきるけえに私の心中が伝わってしまうだろう。


「満月の夜までは後八日か」

 満月の日までには何とか出航できそうだ。

 後八日、欲や憤怒ふんどなどに飲み込まれなければ、この悪夢のような日々からは解放されるのだ。

 初めのうちはきるけえを連れて出ようとも思っていたが、彼女は私のような凡夫ぼんぷには到底御しえない存在だと思い知った。

 彼女を置いて出ていく他はない――。

 私は心の中できるけえに謝った。


「やはり一度館に戻られた方が良さそうです。急いで」

 急に海豚いるかの顔をした男の声色が変わった。

「潜水艦の中での話は他言無用」

 私に念動力を使わせるのももどかしかっったようで、海豚いるかの顔をした男は自ら出入口を開けると私を急かすように追い出した。

「いくばくかの愛の欠片かけらを与えてやってください。それで時間稼ぎをするしかない」

「はんぎんぜあめーと(※)」

 とむは潜水艦の中に居残るようで、耳慣れぬ異国の言葉を私にかけるなり丸くなった。

※ Hang in there,mate!(頑張れよ。気合入れていけ)




 愛の欠片と言われても、愛せないものは愛せない。

 いや、その想念を拾われては獣に変えられてしまう。

 愛、愛、愛。

 私はぶつぶつと二文字をつぶやきながら、朱色の光が差し込む洞窟で目を細めた。

 一体私のような男のどこが良いのだろうと思いながら頬を撫で、いやきるけえは翁相手にでも片思いに苦しんでしまうのだと思い直す。

 全くひどく意地の悪い呪いを思いついたものだと、いしゅたるに悪態をつきながら、私は潜水艦が格納された洞窟どうくつを出た。


 見渡す限りの水平線が黄金色に染まっていた。

 息子が生まれた日の朝と同じだった。

 浜辺の小屋に白装束を着た身重の妻が籠って三日ほど経った日の朝、浜辺中に響き渡るほどの赤子の叫び声が響いた時と同じ海の色だった。

『旦那様。跡取り息子でございましたぞ』

『妻は無事か』

 海辺に立つ私の下に走り来た乳母がはいと答え、私は人目もはばからず息子と同じように声を上げて泣いたものだった。

 あの時と同じ、黄金の海だ――。

 私は館へ戻る事も忘れて、放心したように昇る朝日が海に映るさまを見つめていた。


「旦那さま」

 乳母と似ても似つかぬ柔らかな声で、私は自分が今どこにいるかを思い起こした。

 きるけえは、妻に似ていない。

「朝食の用意が出来ましたから」

 甲斐甲斐しく振舞うが、それはきっと彼女の本質ではない。

 きるけえは自分の強さを忘れている。

 男に好かれるための演技が、板につきすぎてしまっただけなのだ。


 私はふときるけえに意地悪をしたくなってしまった。

「いらないと言ったら」

 きるけえは一瞬黒真珠の瞳を見開いたかと思うと、長く影を落とすまつげを震わせた。

「そうですか」

 それだけ言うと、うつむいてとぼとぼと館への道を歩き出す。

 私は遠ざかっていく彼女の背を無言で見つめた。

 ふらんそわはいなかった。


 たった一人で黄金色の光を浴びながら砂浜を歩く彼女の姿が、どんどんと小さくなっていった。

 きるけえは振り返りもしなかった。


「旦那さまっ」

 なぜ自分がこのような行動に出ているのかが分からない。

 遠のく彼女の背に向かって韋駄天いだてんの如く駆け寄ると、私は彼女の薄い羽衣のような上掛けを引っ手繰った。

 浜昼顔の群生の上に、きるけえの藤色の下履きが良く映える。

 私はきるけえのすんなりと伸びた形の良い両の脚を大きく開いた。


「どうか、ここでは」

 胸元のあわせを押し開くと、形の良く弾力と透明感のある両の胸がさえぎるものもなく朝日に照らされた。

「これがあなたの望みでしょう」

 答えは聞かなかった。

 初めて会ったその瞬間に私を押し倒して唇を奪い、湯屋で私を犯そうとした女の答えなど聞くまでもない。

 この島には人など私ときるけえしかいないのだ。


 月の出ている昨夜は月の力に呑まれたのか私の記憶は消えていたが、太陽の下ならば月の支配が届かないようだ。

 きるけえは私と同期する事もなく、あえかな声を上げながら形式上私に抗うふりをした。

「嘘つき」

 抗うように見せかけて私を絡めとっていくきるけえの耳元で囁くと、彼女は内腿を震わせながら私を強く挟んだ。


 何度も何度も、きるけえがりんご酒を私に飲ませてせがんだ口づけ以上のそれを与えてやると、黒真珠の瞳を蕩けさせながら私の背にしなやかな両の腕を絡める。

 私たちは二体の蛸のように四肢の全てを絡み合わせて、浜昼顔の群生を押しつぶし続けた。


 きるけえが背を大きく反らせて高い声を上げた瞬間、私は太陽の残像を目に焼き付けた。

 彼女の上半身が私の胸板に崩れ落ちると同時に、私の聴覚は再び波の音を拾い始めた。

 無言できるけえの背を赤子をあやすように何度も軽くとんとんと叩くと、きるけえは何も言わず、私の胸板に体を預けたままだった。


 太陽がすっかり白くなった頃、私の体はきるけえから自然と分離した。

 久方ぶりに放った私の欠片は、きるけえのはらを満たした。

 彼女の救いの光となる愛し子が生まれてくるような、聖なる交合まぐわいとは程遠いものだった。


 そう言えば、彼女は子を成した事があるのだろうか。

 呪いを掛けられているとは言え体だけは求められてきたのだから、彼女は数多の男の精をその胎内に宿してきたはずだ。

 私の放った精は彼女のはらで実を結ぶのかと、ふと気になった。

「私を愛していただけますか」

 私の脳内の声が聞こえたのか、放心状態だったきるけえが体を起こして尋ねた。

「私はある意味においては、あなたを愛しているとも言えなくもない」

 はぐらかすようで狡いとは我ながら思った。


「それでも良いのです。初めて、愛していると言っていただけました」

 きるけえは目に涙をためきれず、私の肩口に顔を埋めてすすり泣いた。

 私はふらんそわよりも残酷だった。

「それでも、良いのです。旦那さま、お慕い申し上げております」

 私はたまらなくなってきるけえの首筋を強く吸い上げた。

 結局浜昼顔を再び枕代わりにした私たちが館に着いた頃には、朝食はすっかり干からびていた。ふらんそわはいなかった。



 館に戻った私は湯を一人で使う事にした。

 それにしても、昨夜から数えれば半日で三回もきるけえと交わったと言うのに、私はまだ人の姿を保っている。

 恐らく、水神の力の届く範囲である海辺で、月の力を打ち消す太陽光の下で交わった事も好影響だったのかもしれないと思った。


「意外とやりおる」

 むわっとした薔薇ばらの香りと共に、あの聞きなじみのある声が聞こえてきた。

「嫁と子供を裏切って食す女の味はどうだった」

 くすくすと笑ういしゅたるの姿は見えない。

 私は聞こえないふりをして頭を洗った。

「それにしても愛してもいない女に、愛しているなどと嘘をつける男だとは思っていなかったのだがな、これはとんだ誤算だ」

「嘘ではありません。嘘ならばきるけえに見抜かれましょう」

 頭をすすいだ私は、虚空こくうに向かってにやりと不敵な笑みを浮かべた。

 くちなしのと青りんごの香りが漂った。

 いしゅたるの姿がまるで水神のように、おぼろげに湯煙ゆけむりに浮かんだ。


「愛されぬ呪い、でしたな」

「そうだが」

 いしゅたるの声がやや揺れたのを、私は聞き逃さなかった。

「愛の種類がいかほどおありかと。恐れながら貴方様が考える以外の愛の姿が、人の世には無限に満ち溢れておりまする」

「ふん、小賢しい。詭弁きべんぞ」

 いしゅたるは明らかに苛立ったように湯船の水面をたたいた。


「私はある意味においてはきるけえを愛しているのです」

「言うな!」

 いしゅたるが叫んだ。

「愛している、愛している」

「一回で十分ぞ!」

二瓶十兵衛にへいじゅうべえはきるけえを愛している」

「止めよ!」

 いしゅたるが絶叫するのに合わせて湯船がひっくり返り、館がみしみしと音を立てた。


「呪いは解けておらぬぞ! 解かせぬぞ!」

「愛しています。愛、愛、愛」

「妻子を裏切ったのだ。お前は妻子を捨てた」

「愛、愛、愛」

 いしゅたるの言葉を耳に入れぬように、私はひたすらにいしゅたるが嫌がる『愛』という単語をつぶやき続けた。


「許さぬぞ二瓶十兵衛にへいじゅうべえ。人の身にありながら神を出し抜こうとするなぞ言語道断ごんごどうだん。必ずやこの明星の大神を愚弄ぐろうしたことを後悔させてやる」

 大音声だいおんじょうで叫んだかと思うと、湯屋の天井がめりめりと音を立てて崩れ落ちてきた。

「悔いよ、土くれから出来た者」

 私の体は落ちてきた天井と土埃つちぼこりに埋もれた。


 館全体が強い揺れに見舞われたのか、いしゅたるの出現した湯屋だけが被害を受けたのかを私が推し量ることは出来ない。

 私はひび割れた地面と天井を支えるはりの板挟みになって、声を上げる事すら出来ぬまま肉体が押しつぶされる痛みに耐えた。

 そのうち、私は痛みの感覚をも失った。

 この生きているとも死んでいるとも言える曖昧あいまいな世界で、私は死を選ぶことになるのかと思ったその時だった。

 鋭い犬の吠え声が聞こえた。ふらんそわだ。


「旦那さまっ」

「ご無事で」

 私は声を張り上げようとしたが叶わない。

 瓦礫がれきの隙間からふらんそわの鼻先が覗いた。

「ああ……」

 絶望したようにきるけえがため息を漏らした。

 仮にこの状態で助け出されても、長くは生き永らえぬであろうことは自分が誰より分かっている。

 私は出せぬ声を振り絞るように、埋め込まれたちっぷで増幅された想念がしっかりきるけえに届くように念じた。

『いしゅたるの弱点は愛です。愛はあなたご自身にも、この世界全てにもあまねくあります。どうぞ、あなたの中に愛があることを、あなたは愛で満ちていることを思い出してください。あなたの中に、全てがあります。愛を外にう限り、いしゅたるの呪いからは抜けられませぬ』

 それだけを声にならない声でつぶやくと、私の視界が真っ黒になった。

「旦那さま、旦那さまっ」

 死の直前には聴力が最後まで残るのだと私は知った。

「旦那さま、許して。私を愛してくれた方」

 それが私が最後に聞いた一言だった。


 目を開けると、私は波打ち際にいた。いやに視界が高い。いや、何かがおかしい。

 ぐるぐると視界が回る。

『どういうことだ!?』

 私の叫びはもはや人語では無かった。

 動こうとするたびにぐるぐると視界が回り、身をよじらせようともがくと私の体が宙に浮いているのが分かった。

 あたかも何度か思い浮かべた光景のように。

 必死でもがくが足が地につかない。

 体が嫌に軽く、何より自分の口から出る叫びが、耳障りの悪い甲高い鳥の声になっていることに絶望した。


「旦那さま、許して。旦那さまをお助けする方法はそれしか無かったのです」

「私は何にされたのだ」

 私の言葉はもはやきるけえには伝わらない。

 私はきるけえのかたわらにはべるふらんそわに尋ねた。

「きつつきです。全壊した湯屋から自力で出ていただくには、小鳥にする他に方法がなかったものですから」


「そうか……」

 ハイブリッド型パイケーエス式潜水艦初号機も、墓場歩きもちたん製のちっぷも全ては無駄なあがきと成り果てたのだ。

 因果律が働かず、時間の流れすらゆがむこの世界では、どんな理屈も道理も試行錯誤も何ら意味も持たなかったのだ。

 いかにもイシュタル好みの、あまりに理不尽な結末だった。


「地震は島全体で起こったのか。とむは、法主ほっす様は、皆は無事か」

 ふらんそわは悲しげに目を伏せた。

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