10
海の中で目を開けるのは、風呂や洗顔時に目を開けるよりも数段難しい。
潮と砂で痛む目をごろごろさせながらとむを見やると、浜昼顔の上で大あくびをしているだけだった。
一見しただけでは遠浅の穏やかに見える海岸だが、水深は岸近くでも存外深い事を痛感したので恐る恐る顔をつける。
寄せては返す波が断続的に顔を殴るので、余計に目が開けられず水を飲みそうになって私はむせた。
耳に入った水を掻き出すように首を左右に振っていると、きんとした耳鳴り音と共に側頭部に酷いしびれが起こった。
「きえええええっ」
私は
浜昼顔の群生を通り過ぎて低湿地の方角へ幽鬼のように歩いていくと、
無表情のまま早口で呪文を唱えると、
「きええっ?」
顔を近づけられて目と目が至近距離で合うと、私の意識は急速に
『昨日の荒療治が効いたようですな。これなら念動力回路の開発も進められそうです』
『まだまだ海中で目も開けられないヒヨッコだぞ。良いのか』
『急がなければならない理由が出来まして』
とむと
『昨日の地震で大きな次元のひずみが生じて、一時的にこの島のキルケが元々居た世界に戻ったのです』
『では地震の事を知らなかったきるけえは、元々居た世界のきるけえなのか』
私の問いに
『一時的に元々居た世界に戻った時にキルケは意識を失い、この世界にあるのはキルケだと他者から認識されている物質存在のみでした』
元が高僧だか何だか知らないが、ややこしい物言いをする男だと私は
『キルケの意識体がこちらの世界から元々いた世界に戻る際に大きな次元のひずみが生じました。ゆえにキルケの意識体は、地震を認知出来ていないのです』
『それと急がなけりゃならない理由に関係があるのか』
『大いにあります』
私は
『次元のひずみが生じる時に、出入り口であるタコつぼ渦を通って男達が海岸に打ち上げられます。ですがキルケ自身がここから別の空間次元に出る事は無かった。それが私が知る限り初めて起こってしまった。これが意味するものは』
私はごくりと唾を飲んだ。
『この島とキルケが元々居た島が次元のひずみによって繋がってしまえば、我々が
『ふぁっくんしっと』
とむが故郷の言葉を吐き捨てるようにつぶやいた。
『下手をすれば、こちらの島のきるけえともう一つの世界のきるけえの間を永遠に行ったり来たりする事になりましょう』
『一度次元のひずみが開いてしまえば、二つの世界は繋がりやすくなる一方なのか』
『恐らくは』
『では私は何をすれば良い』
額にあんてなを刺した私は、すがるように
『肉体に負担が掛かるのは承知の上ですが、まずはアンテナの増設を。それからハイブリッド型パイケーエス式潜水艦に乗船して頂く必要があります』
『まだ進水はさせないんだろ』
とむが念押しのように確認した。
『自動操縦システムと念動力回路系統の同期が出来ないことには』
『人体はつくづく退化した機能が多すぎていけねえや。人間の中に紛れても目立たない獣面の人身にでもなったらどうだ』
「無理だ。まっぴらごめんだ。それならあんてなとやらを何本刺されても耐えるから」
思わず叫ぶように声を荒げた私に、
『その覚悟がおありなら話は早い。こちらへ』
岩場の奥には大きな鉄の扉があり、三角の印を押すと扉が開いた。
私たちをすっぽり包んでなお余りある巨大な箱が下に動き始め、一呼吸する間に再び扉が開いた。
『どうぞこちらに』
私の側頭部が再び激しく揺れ、操られるように固そうな寝台に横たえられた。
『すぐ終わります』
『何をする気だ』
『今つけておられるアンテナよりも高性能で負担の少ないチタン製のチップを、体内数か所に注入します』
ちたんやらちっぷやら訳のわからない言葉ばかりだ。
私は不安になって、
『あなたの意志次第です。獣になるか。脱出するか』
私は観念して
側頭部にあんてなを刺したような痛みが一瞬走り、私は気を失った。
目を開けると、私は一面真っ白な部屋に寝かされていた。
「目が覚めたかよ」
とむの声がはっきりと聞こえるが、頭の中にもやが掛かったように言葉がうまくつむげない。
まどろみの中を無理やり起こされてなおまどろみ続けるような奇妙な浮遊感を感じながら、私はとむの姿を探した。
「ここだ、ここ」
寝台の脇から毛むくじゃらの前足がぬっと出てきて、私の二の腕を叩いた。
「お加減はいかがですか。昼食をお持ちしたのですがこの分では召し上がられないやも」
黄金色の毛並みの犬が人語を話している。
「私の言葉が理解できますでしょうか」
返事の代わりに、私は緩くとむの前足を握った。
「分かるとよ」
「まだ目が覚め切っておられぬようですから、私は一旦失礼いたします」
枕元に、海苔の香りのする握り飯を包んだ風呂敷が置かれた。
「梅とわかめですな」
「惜しかったな。昆布とわかめは近いが不正解」
昼食の握り飯の具を当てる訓練は、ちたん製のちっぷなるあんてなを入れられた今後も続ける必要があるのか私は疑問に思った。
「やるに越した事は無いよな」
私の心の疑問の声を汲み取ったとむが、
「訓練はされた方が能力開発スピードがより速くなりますから、是非続けれられますよう。あくまでチップはアンテナと同じく補助具に過ぎません。性能と肉体の負担への配慮はチップが格段に上ですが、一度肉体に埋め込めば取り外しが効かないと言う欠点もありまして」
「それを先に言うべきではないのか」
取り外せないと聞いて、もうろうとした頭が一気に冴えた。
「どうするんだ。訳の分からないちっぷとやらを頭に入れられたまま元の世界に戻っても支障はないのか。あなたが取り外せないなら、元の世界ではなおの事取り外せる訳がない」
「
「しかしこれが原因で病になったりする事は無いのか」
「ここを出られる事に比べたらささいな事を。おかしな事をおっしゃる方だ」
言いくるめられている気がしたが、確かに
「ニヘイさんの元の世界、モモヤマバクフってのは俺の
とむが口をはさんだ。
「かの偉大なる処女王、エリザベス1世の治世に当たりますな」
「へえっ。それじゃニヘイさんは俺より三百歳以上も年上って事になるのかよ」
「年長者を敬いたまえ」
私が胸を張ると、とむは嫌なこったと吐き捨てて前足の爪を出す素振りをした。
「それにしてもこのちっぷやら太陽のようなまぶしい光やら潜水艦は、すべて私のいた元の世界には無かった。この島は私のいた元の世界よりどのぐらい先の技術で成り立っているのだ」
「きるけえが主宰するこの島で直線的な時系列を考えるだけ無駄というものです。あると思えばあり、ないと思えばない世界なのですから」
「無駄だ、無駄だ。考えるだけ訳が分からなくなるぞ。坊さんは聞けば説明はしてくれるが聞けば聞くほど混乱してくるからな」
とむがうんざりとした口調で大きく伸びをした。
「それより昼飯食おうぜ。フランソワはどこに行ったんだよ」
「館にでも戻ったのではありませんかな。一旦失礼しますと言っていたような」
「あいつ本当にキルケに懐きすぎだろう。あいつが小難しいことを
「かわいそうにとか言ってたくせに」
「今のあいつを見てたら、まんざらでも無かったんじゃないかと思ってよ」
犬の習い性で主人に絶対服従と言うよりは、地震の時の行動といい毎朝の食事の際に足元にぴったり寄り添っているあたりと言い、きるけえに懐いているのは事実だろう。
いくら呪いのせいだとは言え、男に愛されたいきるけえに迷惑を掛けられているのはこちら側なのだ。
人身御供として男を一人あてがって済むならどんなに気楽な事だろう。
「呪いさえ無ければ、夫婦の契りを交わしても不思議ではありませんでしたな」
「ところであなたは何を召し上がられますので」
オオヤマネコであるとむが野鳥や魚に鶏肉の湯がいたものを好んで食べているのは知っていたが、獣面人身存在は人であった頃の食生活をするのか獣面存在としての食生活をするのかを念のために(!)知っておきたいとも思った。
「食事は必要としません」
「人間の時から修行の成果で、空気中の水分やらで生きてるんだとよ」
それでは人間の頃から一種の化け物のようなものではないか。
化け物には化け物を充てるのが吉なら、
この島にいる唯一の人型である私は、きるけえの呪いを解くには幸か不幸か余りに凡俗だ。
私が当初考えたように、この小島と同じ時空間の外界と容易に行き来出来るようになるなら、きるけえの『場の支配力』を落とすことも可能ではないか。
とは言え、薄情な事に私は一度脱出した後にこちらに戻って彼らを助けるような義理堅い人間ではないのだが。
そこまで考えた私は、ある疑問を抱いた。
「きるけえは出会った男全てを愛してしまうのだろう。では仮にだ。漂着したのが大船団だった場合にはどうなる」
きるけえは出会った男全てを愛する呪いを掛けられている。
ならば一度に何十人、いや百人以上の男達がこの島に降り立ったら呪いの力はどのように作用するのだろうか。
男の人数分一人当たりの呪いの力が分散されるのか。
それとも考えたくもないが、男の人数分のきるけえがこの島に現れるのか。
私は思考遊びのつもりで疑問を口にした。
「あんた面白い事を考えるな」
とむが飯だ飯だと言いながら、一面真っ白な部屋を出て行った。
とむは余り物事をごちゃごちゃと考えたがらない性質らしい。
人間の頃から耳慣れぬ酒を飲んだくれは喧嘩に明け暮れていたらしいから、オオヤマネコに変化したから考え事が苦手になったと言うわけではなく、元々の気性なのだろう。
とむに続いて
大きな鉄の扉の脇にある三角の印を
ほどなく私たちをすっぽり包んでなお余りある巨大な箱が上に動き始め、一呼吸する間に扉が開いた。
太陽が空の真上で照り付けていたので、岩場の影にある鉄の扉までは直射日光が届いていなかった。
「ここなら涼しいや」
とむは岩場の陰に寝転がったまま、風呂敷包みを催促するように右前足で引っ掻いた。
「ちょっと待ってくれ」
私は開いた風呂敷包みを膝に乗せると、経木に包まれた握り飯の白飯部分をもいでとむの目の前に置いた。
「梅はあんたが食べてくれ」
白飯の部分だけをぺろりと食べると、とむは再度横になった。
私は水筒の水を飲むと、ぼんやりとその動きを見た。
ぼそぼそと経文をつぶやきながらフラフラと岩場をたゆたうその姿は、化け物そのものである。
私は岩場の先に見える潮だまりに太陽が真上から差し込んでいるのを見ながら、ほとんど梅しか残っていない握り飯を食べた。
「わかめは要らないのかよ」
「食べたいのか」
「半分でいい」
横になっていたとむは再びむくりと起き上がると、わかめの握り飯を飲み込んだ。
がっしりとした後ろ足で岩場を蹴ると、とむはやおら潮だまりに向かった。
潮だまりに前足を突っ込んでは、小魚と格闘しているようだった。
「
とむと分け合ったわかめの握り飯を食べ終わった私に、ふらふらとしていた筈の
「実はこの島のキルケが元々いた世界で同じような事がありまして」
「昨日一時的に戻ったと言う場所か」
「ええ。そこでキルケは難破した船に乗った男たち四十余名をおよそ一年の間歓待しております。ただしその際は男全員を愛した訳ではなく、キルケはその船団の長であるオデュッセウスのみに惹かれたようで、残りの男たちはキルケの侍女たちと睦あったようですな」
「侍女たちはキルケの分身ではなくて」
私の問いに
「別存在のようですな」
しばらくして動きを止めると、
「それより興味深いのは、一度獣面人身にされてしまった男たちが
「きるけえはある草があれば、獣になった男たちを人間に戻す
獣面にしか見えなかったはずの顔が、ちっぷとやらを入れられることで表情が分かってしまうのだから、後の世の技術とは大したものだ。
「ちょっとした物ならば
目をすいっと細めた
ちっぷを入れられた事で、とむが言う通り人体はつくづく退化した機能が多すぎるのだと思い知らされる。
犬猫に渡り鳥など、言葉も無いのにどうして意思疎通が出来るのかと不思議に思っていた。
しかし彼らは彼らだけに分かる声で通信をし合い、光や熱なども使って認識の共有が出来る。
人の使う言葉は誤解を招きやすく邪魔なぐらいだろう。
確かにこれはうとんちゅ港で見たものとは背丈が違う。
「
「地震で予定が狂ったのだろう。早ければ早いほど良いはず」
「ええ。十六夜の月に間に合わせるつもりではありました。ですが貴方がチップの装着に同意してくださったおかげで、同期の微調整が出来次第出立も可能になりそうです」
「同期の微調整か」
全く分からない概念だが分かったような口ぶりで頷くと、私は潮だまりで遊ぶとむを見やった。
「ふぁっく」
故郷の言葉を叫びながら、水面を前足で叩いているのが見えた。
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