第6話
「やっぱり、ミカエル様は私といるべきではありません。私は馬鹿な人間だし、踊ることしか能がないし。価値がないんです。だからきっと、ミカエル様の品位を落としてしまいます。自分が情けなくなる一方です。呼んでくださって、すごく嬉しいのですが、もう、これきりにしてください。」
だが、れいこはそんなこと言われても、どこ吹く風。自分を卑下するすみれの姿はむしろそそられる。
すみれの言葉をかき消すようにどんどん彼女に話を持ち掛けた。
「それは、とても変な話ね。私は、私が気に入ってるから貴女を呼んだ。なのに貴女は、自分は価値がない、情けないと自ら言う。じゃあ、回り回って私が価値のない人間が好きみたいじゃない?貴女が自分を卑下するほど、私の品位は落ちるのだわ。」
「そ、それは・・・。」
「何度も言うけど、貴女は素敵よ。」
すみれはまた黙ってしまい下を向いてスカートをぎゅっと握りしめる。
恥ずかしさが余るとそうしちゃうのかしら?
それとも、困り果てるとする仕草なのかしら?
れいこは畳みかけるようにすみれに話しかける。
「そうだわ!徳島さんって言うからよそよそしく感じるのね。貴女のこと、すみれちゃんって呼んでいい?」
「え・・・?えええっ!?」
全く思ってもいない展開に、すみれはスカートを握ったまま手を振り上げる。
「見えちゃうわよ。」
「ひゃっ!!」
慌てて手を離すと今度はテーブルの上のお茶をこぼしてしまう。
「あら。」
「すみませんっ!!すぐに拭きます!!」
すみれがそう言うや否や、れいこは手を挙げて雑務係を呼ぶ。
「山代さん!すぐにテーブルを拭いて頂戴。」
2人のやり取りをずっと怪訝そうに後ろから見ていたみちるは急に呼ばれて驚く。しかし、もっと驚いたことは、この訳の分からない年下の無礼な女の後始末を命令されたことである。
この女は、さっきからミカエル様になんて失礼なことをしているのだろう!
何もかもがみちるの気に触る。
とはいえ、やはり・・・れいこの言うことは絶対である。
みちるは唇を噛み締めながら「はい。」と絞り出すように答えた。
みちるがせっせとテーブルを拭くのを見ながら、すみれは彼女にも頭を下げる。みちるは、余計にそれが癇に障った。だがそれを尻目にれいこは話を続ける。
「すみれちゃん、可愛い響き。やっぱり、そう呼ばせてもらうわ。いいわよね?」
「あ・・・その・・・。」
「嫌?」
すみれはまたスカートを握りしめた。だが今度は彼女はほのかに頬を赤く染めている。
「嫌では、ないです。ミカエル様に名前で呼ばれて・・・嫌な気持ちになる子なんていませんから・・・。」
「ありがとう、すみれちゃん。」
優しい眼差しで見つめられ、すみれは恥ずかしいを通り過ぎて泣きそうである。
れいこは、こんな笑顔を簡単にできる。どんなに性格が悪かろうが、この美貌が魅せる鉄壁の笑顔で彼女は全てのものを手に入れてきた。
彼女は自分の表面上の感情をいとも容易く操ることができるし、他人の感情もまた同じだった。
「ミカエル様・・・。」
まるで教会の天使像を見つめるかのようにすみれはれいこを見つめる。
それに対してれいこは優越感に浸りながらも少し気に食わない。
「ねぇ、すみれちゃん。そのミカエル様って言うのやめてくれない?私には犬飼れいこっていう名前があるのだから名前で呼んで。」
「へ・・・?」
一瞬、れいこの言っていることが理解できなかったが、次第に冷静になってきて頭が追いついたところで、またすみれは理解できなくなった。
そして、首と手を高速で振り続けながら、珍しく声を張り上げて言う。
「無理です!無理です!!無理です!!!駄目です!そ、そんなことできるわけがありません!!」
「どうして?」
「どうしてって、当たり前です!ミカエル様は絶対的存在なのです!!それなのに私がそんなこと・・・。」
「じゃあ、絶対的存在が言うことは絶対なのよ。貴女は私に許されてるの。」
「は、はぁ・・・。」
なおもすみれが困っているのでれいこは、うーんと唸った後にすみれの手をそっと握った。そして耳元で優しく甘く囁く。
「名前、呼んで・・・?」
れいこの声に反応してすみれは耳まで真っ赤にさせ、目にいっぱい涙を溜めている。
やはり、すみれは感情が昂るとすぐ涙が出てしまうらしい。
それは感性が豊かという証拠なのだろうか。
れいこはそんなことを考えながら、最後の一押しと言わんばかりに、彼女に顔を近づけると瞳に浮かべた涙をそっと拭ってやった。
「呼んで・・・。」
するとすみれは暫く固まってしまったのち、恐る恐る声を発した。
「い・・・犬飼・・・先輩。」
れいこはそれを聞いてまだ不満気。頭を抱えながら首を振る。
「すみれちゃん、違うの。名前で!下の名前で呼んで頂戴。」
「え・・・。」
名字で呼ぶことすら躊躇われるのに下の名前で呼べとこの大天使様は言う。戸惑っていると、れいこはまたあの微笑み。
「れいこ。って呼んで。」
なぜだろうか、れいこの言葉は優しいが命令染みていて、そしてそれに逆らえない。先ほどもそうであったが、押し切られる。どうしても逆らえない。
ついに、すみれは彼女の名を呼んだ。
「れいこ・・・さん。あの・・・本当に許されるなら、呼ばせてください。」
それを聞いてれいこは満面の笑み。これは取り繕った笑顔ではない。心の底から悦びに満ちた顔である。
「いい子ね。」
れいこはすみれの頭を撫でてやると、彼女は恐縮しながらも上目遣いでじつとれいこを見た。
純粋でいて、だが熱っぽく。
「私、本当はとても嬉しいです・・・。」
そう、この目!この目なのよ!!
れいこは悦びで震えそうになる身体をぐっと抑えた。
震えているのはすみれも同じで、れいこはその震えるすみれの甘い野いちごのような唇に触れようとした。
だが、触れようとしたところで手を止めた。手を止められたという方が正しいが。
「ミカエル様!テーブルの片付けも全て終わりました。」
みちるは割って入るようにわざと大声で言ってきた。その声にすみれも我にかえり慌てて立ち上がる。
「も、もう帰らないと。なおも心配しますし・・・。これ以上はご迷惑をかけしてしまいます。」
「荒牧さんって本当に貴女の保護者なのね。羨ましい関係。」
「いえ!なおとはそんな関係じゃないです・・・ないんです。ただ、なおが過保護なだけなんです。」
過保護ね・・・。
れいこは気に食わなかったが、ひとまず笑顔で繕う。
「そうね、あまり引き止めると荒牧さんに怒られちゃう。送っていきましょうか?」
「いえ!大丈夫です。1人で帰れます。私もそこまで馬鹿ではありませんから。あの・・・今日はありがとうございました。れ、れいこ・・・さん。」
まだ言い慣れず遠慮しながらすみれは、れいこの名前を呼んだ。
それがまた一段と愛らしい。
そして、すみれは何度も頭を下げると帰っていった。
「ミカエル様を名前で呼ぶなんて。遠慮するべきなのに。どういう神経なのかしら!」
すみれを帰るのを見届けた後、嫌悪に満ちた目でみちるが悪態をつく。
それに対して、れいこはいつもの鉄壁の笑顔で言う。
「ねぇ、少し黙ってくれない?」
表情は笑っているのに、声はいたって穏やかなのに、みちるは凍りついた。
「すみません、私っ・・・!!」
そう言うみちるの言葉を遮るようにれいこは彼女の唇に人差し指を当てる。
「ねぇ、黙ってって言ってるよね。」
笑顔はいつものミカエル様なのに、こんなにも彼女を怖いと思ったことはない。
みちるが目に涙を浮かべようとも、れいこは拭ってはくれないし、ましてや可愛いなんて言ってくれない。
恐ろしい、悲しい、そして悔しい。
沢山の負の感情が押し寄せてきてみちるが肩を震わせていると、れいこは、吐き捨てるように言う。
「いつもはね、貴女のそういうところが好きなのだけれど、今はとても鬱陶しい。」
そして、みちるの肩を冷たくぽんと叩くと彼女に背を向けた。
「今日はここまでにしましょう。私もこれ以上貴女を嫌いになりたくないし。」
れいこは、みちるに振り返ることなく帰っていく。
その姿をみちるはなすすべもなく、ただ見つめるしかない。
ミカエル様はどうして私にこんなことをおっしゃるの?
どうしてこんな仕打ちをなさるの?
みちるはふつふつと怒りが込み上げてきたが、決してその矛先はれいこではない。
すべては、あの子が、徳島すみれが悪いのだ。
今まで築いてきたれいことみちるとの関係をすべて壊した挙句、か弱い可愛い子を装ってれいこを騙そうとしている。
ずっとそばにいるのに名字でしか呼んでくださらない。
それをあの子は・・・。
なんて、汚い、いやらしい、最低な人間。
今まで、れいこに清らかな思慕の念でずっと接していたみちる。勿論、日常においても彼女は品行方正狂いのない優しい女の子であった。
だが、今、抱いたこともない恐ろしいほどの憎しみの感情が彼女の中に渦巻いている。
「徳島すみれ、絶対に許さない。私は貴女を絶対に許さない。」
みちるは悔しさに涙をにじませながらそう何度も言い続けたのだった。
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