1 作戦会議
三日前。俺はそれまでの十年間にわたる、絶望と後悔と憎しみに
彼女と一緒なら、俺は間違えずにやっていける。たとえ間違えそうになっても、彼女がちゃんと正してくれる。道の先を明るく照らしてくれる――
いや、やっぱそんなんじゃない。もっと単純なことだ。
みちるが好きで、この先どんなことがあってもずっと一緒にいたい。それだけ。
それがはっきり分かったから、俺はようやく立ち上がって、なすべきことを一つ一つ頭の中で整理し、その準備に取りかかった。
その夜、帰って来たみちるに、俺は役所で調達してきた婚姻届を見せた。自分の署名は済ませてある。
「これ」
「……え!?」みちるは声を上げて両手で口を塞いだ。「……なによ!?」
「いいだろ?」俺は軽い口調で言った。
「ちょ、ちょっと待ってよ、どういう――」
「ダメ?」
「ダメとかいいとか、そんな単純な――」
みちるは俺の手から用紙を取り上げようとした。しかし俺はぱっと手を逸らせて阻止する。
「どうする? そんな考えなくてもいいと思うけど」
「はぁ?! あなた、バカなの?」
「じゃあやめとくか? でもたぶん俺には、こんな感じがベストなんだと思う」
うーん、とみちるは腕を組んだ。彼女には分かっていたんだと思う。俺が、自分はもう大丈夫だと言うことを表現するためにわざと軽くやっていることを。
やがてみちるは大きく頷いて、パチンと膝を叩くと言った。「オッケー、乗った!」
俺もうんと頷く。「明日一日、大忙しだぜ」
「分かった。なら早速計画を練りましょ」
みちるは言って、まずは夜食よとソファから立ち上がった。
夜食のあと、作戦会議が始まった。明日の分刻みの行動計画を練るのだ。
それはつまり、楽しいはずの結婚の相談ごととはおよそ言い難い、まるで捜査会議のようだった。
「――まず最初に確認しときたいのは」俺は言った。「結婚しても、すぐに同居は無理だよな」
「うん。とりあえずは別居婚ね」みちるは頷いた。「わたしの仕事次第ってことになるかしら」
そうだな、と俺は同意した。これについては、今あれこれと考えない方がいいと思った。ふとみちるを見ると、申し訳なさそうな寂しそうな、がっかりした顔でテーブルを見つめている。俺はそんなみちるの頬を指でつまんで、彼女がこっちを見るのに合わせて手を広げて頬を包んだ。みちるはベソを掻いたように笑い、俺の手に自分の手を重ねた。もう片方の手で彼女の頭を撫で、軽く抱きしめると彼女は機嫌を直した。
「――じゃあ次は目標を立てよう。明日一日で、どこまで遂行するか」
「どうせなら全部。両家に挨拶して、指輪を買って、挙式・入籍まで。でも……相当難しいでしょうね」
「もちろん。だからいろんなことを同時進行でやらねえと。一応の優先順位を決めて、なおかつ臨機応変に。その中でどうしても無理な部分は明日以降でもいいってことで」
「まずは――両家への挨拶ってやつ? 距離的に
「っつったって、いきなりアポなしで訪ねて行って『お嬢さんをください』はまずいだろうな」
「うーん、さすがにダメかなぁ。両親の都合云々より、
「そもそも、どう転んだって悪いと思うけど」俺は苦笑した。
「とりあえず今から父にLINEするわ」みちるはスマホを手に取った。
「え、いきなり大丈夫?」
「大丈夫よ。うちの父、仕事の面では厳しいけど、プライベートじゃめちゃくちゃわたしに甘いの。明日――できれば午前中がいいけど――どこかで時間取ってもらうわ」みちるはスマホを操作しながら言った。「『みぃちゃんの頼みならいいよ』って、たいていのことは聞き入れてくれるの。親バカの典型ね」
「だからこそ俺みたいなのは許せねえんじゃね?」
「……そこはどうだか分からない」とみちるは首を捻った。「だって初めてなんだもの。結婚したい相手を紹介するのなんて」
「……警察庁のお偉いさんだったよな」
「うん。内部部局の局長の一人」
俺はテーブルに突っ伏した。そんな雲の上の上のそのまた上の人間から見たら、俺なんか虫けら以下、バクテリア同然だ。あと忘れてたけど、みちるも今は神奈川県警に属しているが、そもそも親父さんと同じルートで出世していく人種だった。
「今さら絶望したって遅いわよ」みちるは呆れたように笑った。「――あ、早速返信が来た」
「バクテリアなんかとは会わねえって?」
「何よそれ」とみちるは顔をしかめた。「えっと――明日、十一時半。
「え、家族全員揃うの?」
「その方が手っ取り早いじゃない? でも、弟は分からないわよ。都合だってあるし」
「弟さんも警察官僚だっけ」
「ううん、まだ大学院生」
そう言うとみちるは面白そうに笑みを湛えて俺を見た。「弟の方が難敵かもよ。家族の中で彼だけ理系で、ちょっとヲタク気質があるの。おまけに結構ひねくれてて、父親のことも煙たがってるわ。その影響で警察官は嫌いみたいだし」
「……もっといい話してくれよ」俺はため息をついた。
「それなら母ね」とみちるは目を輝かせた。「母には貴志の話をしてるし、写真だって見せてあるわ。一目でもうメロメロ」
「まあ、そこはそうだろうけど」俺はふんと鼻を鳴らして腕組みした。「でも、だからこそ男子の反感を買う」
「しょうがないじゃない――やめましょ、どうにもならないことで悩むのは」
みちるはずっと操作していたスマホをテーブルに置いた。「弟に送信しておいた。次は貴志のご家族ね」
「俺んとこはあとでいいよ。遠いし、時間のロスだ」
「そういうわけにはいかないわ」みちるは眉をひそめた。
「大丈夫だって。だいたい俺が結婚するなんて期待はしてなかったし、するって聞いたらそれだけで喜んで、難癖付けたりしねえから。とりあえず電話だけしとくよ」
「そんなの、よくないわ。
「いいって。そもそも、一日で済ませようってのが無茶なんだから、どこかで妥協は必要なんだよ」
「……それを貴志のご実家への挨拶で妥協するの?」
「ああ。遠いんだからしょうがねえ」俺は強く頷いた。「もし今、ここが福岡なら、俺はみちるの実家に行くのを省略しようって言ってるぜ」
「……分かった」みちるは不承不承という感じで頷いた。「でも、納得はしてない」
「分かってる。いずれ連れて行くよ」
「両家の承諾を得たとして、その次は――」
「結婚指輪か」俺は言ってみちるを見た。「婚約指輪は――それもちゃんと用意するよ。順序が逆になるけど」
「無理しないでね」
「無理じゃない、って言うか、普段無理させてんじゃん」俺は目を細めた。「この前、めちゃくちゃ高けぇサンダル買わされたぞ」
「貴志が他の女とデートするからよ」
「デートじゃない。ただのメシ」
「あんな高いレストランに行くのはデートよ」みちるはキッと睨んできた。「それにあれはわたしへの誕生日プレゼントでしょ?」
「……にしてもよ……」
「脱線してる暇はないわ」みちるはまたスマホを手に取った。「結婚指輪って、買おうとしてすぐに手に入るものなのかしら」
「と言うと?」
「もちろん、どんなものでもいいのならお店に行ってある物を買えばいいとは思うけど――」みちるはスマホを見ながら言った。「――あった。結婚指輪の納期。既製品なら最短で二週間、セミオーダーで二カ月、フルオーダーで三ヶ月以上だって」
「え、ならダメじゃん」
「そうよね」みちるは頷いた。「サイズ調整と――内側に刻印するからか。なるほど」
「とりあえず代替品を着けるか。ペアリングとか」俺は言った。「それだったらすぐ手に入るだろ」
「カタチにこだわりたいのね」
「ああ、そこはな。今回俺がこんな無茶しようってことの発端だ」
「分かった。明日、朝イチでジュエリーショップに行きましょ。わたしが好きでよく行くみなとみらいのお店の系列店が、確か
「それなら十一時半に間に合うな」
「……ただし迷ってる暇はないかも」みちるは人差し指を頬に当てた。「でも大丈夫、お店のホームページがあるから先にリサーチしておけばいいわ」
俺は頷いた。とりあえずの代替品なのだから、みちるとしてもこだわるつもりはないらしい。
「じゃあ、次。会食が無事に済んだあとは?」
「婚姻届の証人欄の人選」俺は言った。「二人必要だ」
みちるは頷いた。「ちゃんとお願いしないとね。誰に頼むの?」
「それぞれの家族でもいいんだけど、他人の方が――なんてのかな、証人感が出るって言うか」
「それはそうね。簡単に離婚とかできない感じ」みちるは言うと肩をすくめた。「しないけど」
「そうなると――」
「鍋島くんね」みちるは言った。「適任者だわ」
「……だな、と思って」俺は頭を掻いた。「ただしそれだと、明日中の提出は無理だ」
「そこはもういいじゃない。彼は外せないもの」みちるはうんうんと首を縦に振りながら腕組みした。「もう一人は?」
「あいつがいいな」俺は言った。「みちるの部下の、あいつ」
「――
「鍋島ほどじゃないけど――結構巻き込んじまってるし。どうせなら巻き込みついでに」
「……いいわ、頼みましょう。会食が終わる頃に近くに呼び出せばいいかしら」
「わざわざ横浜から来させるのか?」
「時間がないんだから、仕方ないじゃない」みちるは平然と言った。「幸い今、大きな案件を抱えてないから大丈夫よ。何なら今夜のうちに言っといたっていいんだし」
「……別にいいけど」
自分から提案したものの、二宮には悪いなと思った。
みちるはまたスマホを手にした。画面を見て、「あ、弟から返信来てる」と言うとタップしてLINEを開いた。「――来れるみたいよ。ちょうど講義が無いから大丈夫だって」
「……なんか気ィ重いな」俺はため息をついた。
「大丈夫よ。別に反対するって決まってるわけじゃないんだし――え?」
「え、なに」
「母から写真が送られてきたって。『なんだよこのイケメン。姉ちゃん、騙されてるんじゃないの』だって。ウケる」みちるはふふっと笑って画面を見せてきた。
「いやウケねえし」俺は首を振った。「……やだなぁ、もう」
「弟のことはいいじゃない。話を進めましょ」
そっちがLINE見せてきたんだろと思ったけど、確かに雑談してる時間はない。
「二宮くんに署名してもらったら、次にやることは――」
「その前に一つ確認したいんだけど。二人の署名をもらえることを前提に、その婚姻届はどこで出す?」
「確か、どこでもいいんだっけ?」
「ああ」
「じゃあやっぱり――大阪の貴志のマンションがある区役所」
「いいのか? みちるは」
そう訊いた俺に、みちるは肩をすくめて見せた。構わないということらしい。
「俺一人で出すことになるけど」
「大丈夫よ。二人で出したいなんて言わない」みちるはにっこり笑った。「そういうの、意外とわたし、あっさりしてるのよ」
「分かった。じゃあ提出に備えて事務的なことをやっておかなきゃならない。戸籍謄本とか、本人確認書類とか、旧姓の印鑑とか――あっ――」
「わたしが芹沢姓に変わるわよ」とみちるは微笑んだ。「当面、仕事のときは旧姓を使うけど」
「……いいんだな?」
「うん。そこはまったく抵抗はない」とみちるは言った。「一条家はひねくれ者の弟もいるし。貴志は男一人の長男でしょ」
「……ありがとう」
正直ほっとした。実家に対しては勝手ばかりしている長男だから、せめて名字くらいは継がなきゃならないだろうなと思っていたから。
「明日中に揃えないとね。戸籍謄本はマイナンバーカードがあればコンビニで取れるんだっけ」みちるはまたスマホで調べ出した。
「たぶん。その本籍地のコンビニだったら」
「だったら、貴志はやっぱり福岡に帰らないとダメなんじゃない? 郵送だと時間かかるわよ」
「……やっぱそうなるかな」
「行きましょうよ、福岡」
「ぎちぎちのスケジュールになるぜ?」
「いいわよこの際。お金だってかかってもいい」
「式は諦める?」
そうね、とみちるは頷いた。「そもそも無理だと思う。家族の反対にあうだろうし。あらためてちゃんと挙げろ、ってことになるんじゃない?」
俺も頷いた。まぁ結局、式なんてものはそうなんだろう。周りに祝われてナンボってとこ。
「二宮に署名もらって、その足で
「ギリギリできないことはなさそう」
「福岡に着くのは二時間後。俺ん
「助かる。申し訳ないけど」そう言うとみちるはスマホを眺めた。「帰りの羽田への便は――八時……遅くても九時くらいかしら」
「大阪行きもそれくらいだ」
「あ……そうか」みちるは声を落とした。「そこで別れるのね」
「とりあえずは、だよ」
俺は言って笑った。またみちるが泣き顔になるのを阻止しないと。
「……うん、分かった」みちるも何とか笑った。「次の休みは、わたしが大阪へ行くわ」
「待ってるよ」
俺は言って、もう一度みちるの頬をつまんだ。
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