一九、滝沢呉服

 八字は寝ても覚めても七緒と、怨敵・マジ卍侍の事ばかり考えていた。


「俺は……マジ卍侍には勝てない……っ!」


 マジ卍侍は万能の天才だった。年齢は二十三、四。二年前に八字と同じく『桜都文学賞』を受賞し、今なお続く受賞作の続刊の売り上げも好調。表紙や挿し絵も自分で描いており、画集を出すかたわらで、並行して八字の『赤河原異伝』の絵も担当。七緒によるともう完成して彫師の手に渡っているとのこと。


 それだけでも八字は血反吐を吐くしかないのに、作家として人前に出ることも多いマジ卍侍は、その奇抜な服装と独特の受け答えで若者に大人気。監修した着物はすぐに売り切れ。流行に疎い八字でもその活躍を知っているくらいの有名人。それがマジ卍侍だった。


 八字は今日も家に帰るなり、布団の上で泣き伏している。文士として再起を果たしたものの、私生活は以前より悪化していた。


「まだ決まった訳じゃねぇだろ。心を強く持て。戦う前から負けててどうする」

「だって愛想尽かされる要素しかないじゃん!! じゃあハチはもし自分が可愛くて美人でお仕事もバリバリできちゃう生活力のある女の子だったとして、こんなほぼほぼ無職のぐしゃぐしゃの豆腐みたいな男と結婚できる!? 七年もろくに仕事せずに毎晩お酒飲んで家賃滞納して、そのくせお寿司とか買ってきたらほいほい食べるんだよ!? おいし〜、とか言って呑気な顔でさ!! できるもんなら結婚してみろよ!!」

「…………いや、ほら、新作書いたろ。少なくともヒモではなくなったわけだし」

「今ヒモって言った!! ヒモって思ってたんだ!!」


 わ〜ん!! と八字は布団に顔を埋めて泣き叫ぶ。


 ――お前には、姐ちゃんを好きだっていう誰にも負けない気持ちがあんだろ。俺はお前を応援するぜ。あんなチャラついた奴に、お前の長年の想い人を取られてたまるかよ。姐ちゃんとの約束を果たすために頑張ってきたお前を、俺は知ってる。自分を信じろ。負けるな。お前ならやれる……何とか奮い立たせようと言葉をかけ続けてきたハチだが、こうも頑なになられては頭を――墨壺を抱えるしかない。


「姐ちゃんにもいろいろあんのかもしんねぇ。けど俺は、お前には姐ちゃんと幸せになってほしいって、誰よりも思ってるぜ……」


 なぁ、八字。各種汁でめそめそになった顔に向かって、矢立は小さく呟いた。



「……え、俺が? そんな先に見ちゃっていいの?」

「うん。お母さんも、八字君に会いたがってたし……一人で帰るの、心細いから。一緒に来てほしいの」


 わ、わかった、と八字が頷くのを確認して、七緒は、じゃあ、と手を振った。


『赤河原異伝』の衣装を担当する七緒の実家・滝沢呉服へ、およそ十年ぶりに。浅い春のどん底で相変わらず湿気ていた八字は、呆然と裏長屋の玄関を見つめる。心なしか雲がかった想い人の表情が、眼裏に残っていた。


「姐ちゃんの、実家に行くのか」


 卓袱台の上に鎮座し、重々しく、ハチは訊いた。実感が湧かない八字は、そうみたい、と力なく応える。


「実家だと」

「うん」

「姐ちゃんの親御さんとは顔見知りなのか」

「ええ、まあ……何度か会ったことは」

「気合入れろ。服は。ちゃんとした服着ていけよ。なんだその汚ねぇツラは。それで許されると思ってんのか髭を剃れ髪を整えろ。菓子折りも用意しろ。上等なやつだ。相手の親から嫌われるのが一番厄介だ。塩撒かれるぞ。履物も隠される。心してかかれ」


 この矢立は一体何を見てきたんだろう。八字は不思議に思ったが、ハチの言も正しいので綺麗な着物を用意し、髭を剃って入念に身繕いした。


 どこかで、マジ卍侍との関係をお伺いして――この想いに終止符を打とう。悲壮な面持ちで、そう決意しながら。


 そうして、弥生のよく晴れた日。八字は、七緒と共に桜都でも名の知れた呉服商・滝沢呉服の店先にやってきた。



「こんにちは、八字さん。いつ振りかしらね」

「ごっ、ご無沙汰しておりますっ!」


 七緒の母は氷のような無表情で八字と娘を出迎えた。


 正直、八字は七緒の母親が苦手だった。顔立ちは七緒とよく似ているが、社交的で表情豊かな七緒を「動」とするなら、母親は「静」。静かすぎる、の「静」だった。


 まるで能面が如く表情に乏しく、声も何が起ころうと調子が変わらない。腹の中が一向に読めず、もし二人きりになったら間を持たせる自信がなかった。


「早速ご案内いたします。お足元お気をつけくださいまし」


 鮮やかな着物が彩る店の中を、品良い銀鼠の恵土小紋に続いて奥へ抜ける。七緒の母は「粋は地味の突き当たり」を体現したような人物だった。


 だが今日の帯は黒地に赤い鯛の、珍しい柄。生地は音羽の羽織と同じ桜錦で、描かれた鯛はお太鼓のところでびちびち元気に跳ねていた。お刺身食べたいな、と八字は少しだけ現実逃避する。


 他の客から離された奥の間には、衣桁にかけられた『赤河原異伝』の絢爛たる衣装。その横で、何やら記帳している滝沢呉服の羽織姿の男。振り向いたその顔に、八字は見覚えがあった。


「姉ちゃんお帰り――って、その人、どこかで見たような」

「アッ、八字喜多八郎です。紅葉塾の」

「うぉああ!! 噂のヤジキタ先生じゃん!! まゆ!! 本持ってきて!! ヤジキタ先生のやつ!!」


 七緒の弟が呼びつけると、階段からドタドタと足音。『紅山記』を手に、丸眼鏡の少女が現れた。


「繭子ちゃんへ、でお願いします!!」

久也ひさやくんにもお願いします!!」

「二人とも後にしなさい。ご免なさいね、騒がしくって」


 本を差し出した娘を下がらせ、七緒の母は八字らを隣の客間に案内する。


「大きな舞台が決まったわね。おめでとう。滝沢呉服としても嬉しいわ。私たちの力作、ゆっくり見ていって頂戴な」


 相変わらずの仏頂面にぺこぺこ頭を下げ、七緒の母が席を外したところでようやく八字は一息ついた。


「あ、相変わらずだね、七緒ちゃんのお母様。お元気そうでなにより……」

「気遣わせちゃってごめんね。お母さん、怒ってるわけじゃないから」

「昔お邪魔させてもらった時に、俺、粗相とかしてないかな」

「うちの敷居跨いでる時点で大丈夫だよ。お母さん、招かれざるお客さんはたとえ式士の家の人でも追い返すから」


 追い返されなくてよかった。八字は胸を撫で下ろす。心臓が嫌な音を奏でていた。


「手汗どうにかしろ」ずっと握りっぱなしの矢立から苦情が飛ぶ。八字は一層強く矢立を握り込んだ。


 ――どこかで、マジ卍侍の話題を!


「……八字君とこの部屋にいるの、すごく懐かしいな」


 七緒は目を細め、客間を見回す。滝沢家の生活圏でもある店奥の一間は、紅葉塾時代の八字と七緒の定例会の会場でもあった。


 八字も、在りし日を懐古する。紅葉塾で出された課題をやったり、お互いに書いた作品を読み合ったり、おすすめの本を紹介し合ったり……出来損ないの身に余る、満ち足りた、楽しい日々だった。


 士学院に通う、文武両道で、心優しくて、美しい少女。誰にも告げてはいないが、その凛とした佇まいと、花開くような笑顔に憧れて、八字は『桜花七色主従』を書いた。庶民の八字には縁もない士学院という特殊な場所で学ぶ彼女の笑顔が、曇ることのないように。たとえ悲しいことや苦しいことがあっても、乗り越えていけますように。その先に、春のように暖かく、光に満ちた人生が続きますように――無力な十七歳の少年は、差し出がましくもそう願ったのだ。彼女から受けた大きな恩の対価には足りないくらいの、自らの人生すら捧ぐつもりで。


「楽しかったね……」目の縁を潤ませ、八字は零した。失ったものは大きすぎた。でも、七緒が幸せならばそれでいいのだと、努めて自分に言い聞かせた。


「あの~お話してるところ悪いんですけど~早く衣装の自慢させていただきたく~」


 隣の間からかかった声に、八字は涙を引っ込める。現れたのは、七緒の弟。続いて妹も鼻をふんふんさせながら顔を出した。


「職人一同腕によりをかけて作ったんで! 期待していいですよ!」

「貴方たちは騒がしいから下がっていてよろしい。表を手伝ってきなさい」

「「え~」」


 店主たる母には頭が上がらないらしく、命じられた弟妹はとぼとぼと店に戻っていった。


 弟妹相手の方が気が楽だったのだが。それは七緒も同じらしく、少し固い様子で、真っ直ぐ伸びた銀鼠の背に従った。


「わ、すご」


 思わず声が出て、八字は口元を抑える。


 流石は桜錦を生み出した老舗と言えようか、『赤河原異伝』の衣装は想像以上の出来栄えだった。それぞれの役柄に相応しい作りなのはもちろんのこと、大太刀を含めた小道具と同じく、細かな仕掛けに富んでいた。


「合戦の場面で、鬼の本性を表した朱天丸――私たちは勝手に超朱天丸と呼ばせていただいてますけれど――その変化をわかりよくするために、妖気を放っている風に見えるよう工夫しましたの」


 舞台で映えるようにと光沢のある生地が用いられた朱天丸の衣装は、七緒の母親が触れると、ぼう、と紅色を滲ませた。溢れる妖気に呼応するように、衣が纏う光沢も流動する。


「え、かっこ良……」

「誰だよ超朱天丸とか言い出したの」


 言葉を失う八字の懐で、ハチがぼやいた。


「東軍の桜式で雨が降る場面があるでしょう。それにも合わせて、超朱天丸と東軍側の式士の衣装は濡れて色が変わったようにもなりますの」


 ほらこの通り。実演してみせる七緒母の顔に感情の類は一切見られない。


「『赤河原異伝』のために、こんな素晴らしい衣装を作っていただいて……本当に、ありがとうございます」


 これが、滝沢呉服の本気。八字は身体の硬さが許す限界まで深々と頭を下げた。


「……ありがとう、お母さん」


 七緒が礼を言うと、七緒の母はふいと顔を背けた。


「持ってきてくれたお菓子、みんなで食べましょう」



 八字と七緒と、七緒の母。三人で手土産の生菓子を食べた。途中、妹に呼ばれた七緒が席を外し、八字が最も危惧していた事態が起きた。


 七緒の母と二人きり、何か喋らなければと機を窺いつつ逃し続け、無言で菜の花を象った金団きんとんを頬張る。


「――八字さん」

「ほごぁ――!!」


 不意を突かれて、そぼろ餡が鼻に誤進入した八字はむせた。「失礼いたしました」


 七緒の母は少し間を置いて、「面白い人ね」表情に変化はない。


「八字さん、七緒をいつもありがとうね。感謝しているわ」

「そんな、僕の方が七緒さんにお世話になってばかりで、申し訳ないです、本当に……」


 酒代を立て替えてくれただけでなく、八字が昼まで寝てやけ酒を煽るような生活をしていた時も、七緒は八字でもできる細々とした仕事を持ってきてくれた。出前まで取ってくれた。野垂れ死ななかったのはひとえに七緒のお陰だ。


 遜りすぎて小さくなる八字。七緒の母は八字の湯飲みに茶を注ぐ。


「私が勝手に考えてるだけかもしれないけれど、今の仕事をしていなかったら、七緒はあんなに楽しそうじゃなかったと思うの。もしあのままあの子が八字君と出会わずに、家業を継いでいたら、あんなに嬉しそうにすることはなかったんじゃないか、って」


 僕が、と手を伸ばした八字には急須を渡さず、自分の分の茶もついで、七緒の母は、いいのよ、と一言。


 八字をじっと見据えた目は七緒とよく似ているが、七緒ほどの輝きはなく、静かに凪いでいる。


「主人の遺言で、あの子は士学院に入って。元から責任感が強かったから、きっと無理をしていたのでしょうね。寝る間も惜しんで勉強ばかり。式士の家の人からも、嫌なことの一つや二つ、言われたでしょうに。裁縫だって苦手なくせに、大好きな本も読まずに練習して、指を傷だらけにして。紅葉塾が、心の支えだったのでしょうけど……あの子の暗い顔を、親として、見ていられなかった。だから私、言ってしまったの。あなたは向いてないから、家を継がずに別の仕事につきなさい、って。――失敗だったわ。それじゃあまるで、家から出て行けって言ってるようなものよね。結局あの子は、自分の意思で今の仕事を選んだけれど……余程のことがない限り、家に帰らなくなってしまった」


 相変わらず表情は無いが、七緒の母は目を伏せた。申し訳なさそうにも見えた。


「――でも、楽しそうで安心したわ。うちが『赤河原異伝』をお手伝いすることが決まった時、ふみさんと二人でうちに来てくれたの。あの子ったら、文さんの横で、とっても嬉しそうにしていたわ。まるで、自分のことみたいに。あの子のあんな嬉しそうな顔を見たのは、士学院の時以来かしらね――そう、ちょうどその時も、八字さんが賞を取ったって、うるさいくらいにね。七緒は、八字さんのことが好きなのね」

「うっ!? そんなっ、まままま、まさかぁ~」


 突然の裏話に、八字は両手を振った。「ないですないです」遅れて俯き、耳を赤くする。


 おいっ、おいっ、と膝の上の矢立は色めき立つ。「あるぞこれは」


「応援してるわ。お芝居、楽しみにしてるわね」


 ふふ、と微かな笑い声が聞こえた気がしたが、八字が顔を上げると、変わらず能面のような無表情があるだけだった。

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