さようなら①

 視界いっぱいに広がる空は、黒く厚く重たい雲に覆われている。垂れ込める、というより今にも落ちてしまいそうなほどの重量感がある。

 ところどころで電弧が跳ねている。今にも雨が降ってきそうな空模様だが、一滴の雫もこぼさずギリギリのところで踏み留まっている。

 だから、大地は乾ききってしまっている。手に触れている地面は、石礫いしつぶてが混じっている。痩せた土壌は水を含みやすい性質があるものだから、雨が降れば歩くことすらままならないほど、ぬかるんでしまうに違いない。


 首を横に倒してみると、鬱蒼とした森が小さく見える。ところ狭しと生い茂り、少しの光も通さない夜のように暗い森。

 草がひしめき、木々はうねり、行く手を阻む。

 その木も不気味なうろだらけで、とてもじゃないが建材には使えないし、家具になってくれるか、わからない。あんなものを切り出そうとしたなんて、あの職人たちの目も節穴だな。

 森に分け入ってみれば、カビ臭い湿気が全身にまとわりついて、鬱陶しい。

 そのまま歩みを進めれば、気色悪いものを好み生意気な口を叩くゴブリン、ミルルが放ったモンスター、毒草に人食い花、ベルゼウスがうっかり連れてきた地獄の亡者が住み着いている。


 暖かな陽射しを遮る空、耕作に向かない大地、人を拒む土地、無数に蔓延る粗暴な魔物たち。

 黒魔術世界が望むものは、人間にとって都合が悪いことばかりだ。白魔術世界が忌み嫌い、討伐しようと目を釣り上げて、躍起になるわけだ。


 ミルルが作った通りを挟んで、もうひとつの森が広がっている。柔らかな木漏れ日が降り注ぎ、爽やかな風が優しく吹き抜ける、人にとって心地のいい森だ。脇目も振らず天を目指して真っ直ぐ伸びる木々は、太くて固くて何をするにも向いている。

 無類の酒好きは困ったものだが、家具づくりや家の修理で積極的に協力をしてくれたドワーフが暮らしている。


 結局、自分にとって都合のいいものとしか、仲間になろうとしないんだな。相手の本質を知ろうとするのは、それが利益になるときだけだ。

 俺自身も含めて、だ。


 ミルルは、どうだっただろうか。

 自分に危害を加えなければ、白魔術世界だろうと黒魔術世界だろうと、魔王でさえも同じように接していなかったか。

 子供だから純粋なのだ、そう片付けられるものだろうか。

 一切の先入観なく垣根を越えて、礼をたっとび分け隔てなく付き合うミルルは、必ずこの世界に平和をもらたす、俺はそう信じている。


 出し抜けに、俺の指がピクリと跳ねた。

 今度は、自分の意思で動かしてみる。


 ……どうやら、ようやく癒えたらしい。

 両手を支えにして、腕と腹筋に力を込めて上体を起こす。

 節々がきしみ、脈が跳ね、荒い血流が身体を絞め上げ、全身が苦痛に歪んでしまいそうになる。

 上半身を直立させて呼吸を整え、深く息を吐いてから辺りを見回す。


 俺の周りには、砕け散った鎧が散乱していた。

 まったく、束になって掛かって来やがって……全員、峰打ちにするのは骨が折れたぞ。


 俺は『真実の斧』を掴み取り、柄だけを抜いてやいばを湖に放り投げた。

「畜生、何が『真実』だ……」

 俺は斧の柄を杖代わりにして、ベルゼウスの城へ……ミルルの元へと向かっていった。


 *  *  *


 シンと静まり返った城からは、業火のような熱も、あざける息吹も感じられない。乱雑に開けられた扉から漂うのは、死のカーテンから透けて見える希望の光。

 城に入ると、俺たちを歓迎してくれた無数の鎧や、ベルゼウスの命で剣劇を見せてくれた剣と盾が、足の踏み場もないほどに廊下を覆い尽くしていた。

 薄ぼんやりと照らされた壁や床のそこかしこには、黒い霧が弾けたように染み付いている。城を案内してくれたオーク、階段の炎を灯してくれたゴースト、城外を巡回していたドラゴンが、ブレイドによって葬られた跡だろう。


 以前であれば殊勲に思える状況だったが、今の俺には畏怖しかない。城を守ろうとする魔物たちは、ブレイドたちの圧倒的な力によって死の世界へと導かれたのだ。


 ブレイドたちは、今……。


 ベルゼウスは、今……。


 そしてミルルは、今……。


 先を急ぎたいところだが、薄明かりだけが差し込んでいる廊下も部屋も、複雑怪奇に入り組んでおり、案内がない今は迷ってしまいそうになる。

 オークの後ろを追った記憶と、常に触れている壁、ブレイドが倒した魔物の影を辿るほかない。

 今すぐにでも駆け出したい衝動や、募る焦燥をいさめながら、慎重に歩みを進めていく。


 ついに、最後の階段だ。これを上がって一番奥まで辿り着ければ、魔王の部屋。すれ違っても、追い抜いてもいないからブレイドたちも、そしてミルルも、この階にいるのは間違いなさそうだ。

 いや、間違いなくミルルはいる。

 階段には、窓枠がだらしなく落ちている。

 見上げてみれば、遮るものを失った窓がポカンと口を開けている。

 ここからミルルは飛び込んだ、動かぬ証拠だ。


 緊急事態とはいえ、あいつ……また窓から突っ込んだのか。


 俺は窓枠を避けながら、最後の階段を一歩一歩踏みしめていった。

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