第47話 凍てついた花

 危うい二つの心を丁寧に積み上げて作った城だった。崩れて仕舞えば修復できない事は祐之進も朧げに分かっていた気がする。


 アオが言ったように、これは最初から限定的な恋だったのだ。

いや、そうではない。これが恋だと知らずに自分は恋に落ちたのだ。


 祐之進は浜路が折角作った赤飯も食べずに寒空をほっつき歩き、真夜中に歯の根をガタガタと言わせながら帰ってきた。寝たふりをしたアオのこんもりとした布団の山を見るにつけ、先ほど起こった事が夢の中の出来事だったのではないかと言う淡い期待を抱いてしまう。

だが現実はやはり現実。

 翌朝、アオは元々最小しか無い荷物をまとめて屋敷を出て行こうとしていた。昨日の今日で直ぐにこんな結論を弾き出すアオに祐之進は慌てた。裏木戸から出て行こうとしているアオを追いかけてその腕を引き留めた。


「アオ!何もこんなに急に出て行かなくても良いだろう?!」

「けじめだ。元々俺の住処は中洲だった。元に戻るだけのこと。長いこと世話になった。達者でな、祐之進」

「なぜそんなに急ぐのだ…!たった一日で全てをひっくり返す事はないだろう!」


 この後に及んでもまだ祐之進はアオの気持ちを信じていた。まだ何とかなると淡い期待を抱いていたのだ。だが、そんな祐之進の手をアオはにべもなく振り解いて言い放った。


「聞き分けのない子供は嫌いだ。お主はもう元服間近の大人なのだぞ!」


 そう言うとアオは振り向きもせずに歩いていく。アオとてこんな風に突き放すのは身を切るよりも辛い。だが祐之進と目を合わせればこの決心が鈍ってしまうと思ったのだ。祐之進から離れる最後の機会を逃す訳にはどうしてもいかなかった。

 そんなアオの心など知らぬ祐之進の目には、その頑な後ろ姿が出会ったばかりのアオに戻ってしまったように感じて居た堪れなかった。


「じゃあなぜあのような事を…!」

「あのような事?ああ、口付けの事か…?

ハハっ、それだけじゃ無いか」


「え…?」


「別に通じたわけでも無いし、お主が健気なものだから俺もちょっとそんな気になった。それだけだ」


 信じられない言葉だった。祐之進にとっては人生観が変わるほどの出来事だったのに、幸せで心が震えるほどの出来事だったのに。それを一笑に付された祐之進にとってそれがどんな一撃になるかアオは分かっていて手酷く突き離したのだ。

 もう春は直ぐそこだと言うのに、二人の咲き始めた花は開くのを待たずしてこうして凍てついてしまった。


 それからアオは焼け焦げた中洲に前よりももっと粗末な小屋を立てて暮らし始めた。寒空に出て行ってしまったアオを心配した浜路が中洲のアオに四月までは屋敷は借り受けているので住まうと良いと提案したが、アオはそれすら断った。本当にまるきり元のアオに戻ってしまった。あのジリジリと身も心も焦げ付くように過ごした時がまるで無かったみたいに。

 それから祐之進は郷里に戻るひと月余り毎日を淡々と過ごしたが、本当の所何をどう過ごしていたのか覚えてはいなかった。


 三月に入りまだ気持ちの整理もままならぬ頃、郷里の屋敷から立派な迎えの駕籠が遣わされた。


「ここも慣れれば良い所でしたねえ若様。里の桜を見ずして帰るのがなんとも名残惜しいです」


 引越し荷物を纏め終えた浜路が蕾も膨らみ始めた庭の桜を名残惜しげに見上げた。祐之進も立ち止まってその大きな木を眺めた。


「桜…、そうか。これは桜の木だったのだな」

「あら嫌だ!ずっと眺めていたお庭なのに若様ったら今頃気がついたんですか?」


 ここに来た時にはこの木で沢山の蝉が降り頻るように鳴いていた。青々と茂った大きな木だとしか思わずにいた。何の木かだなんて気にも留めた事はなかった。それほど自分はアオだけを見ていたのだ。


「さあ、出発しましょう。若様どうぞ御駕籠に」


 そう促す文吾に祐之進は苦笑した。


「駕籠など大袈裟な…そんな物は年寄りが乗るものだ。そうだ浜路、其方が乗ればいい」

「それは私が年寄りって事ですか? 若様のめでたい元服ですからね、御家老様が奮発なさってご自分が殿様から貸し下された権門駕籠けんもんかごを遣わされたのですよ?御家老様がどれほどお喜びか。さあ若様、早くお乗り下さい!」


 急かされて祐之進はもう一度、春を残して過ごした屋敷を振り返った。小ぢんまりとしたこの屋敷で色々な事があった。この場所で初めて恋をしその甘さと苦さを知った。初めて人を殺すつもりで刀を振るい、斬られた痛みと恋の痛みを味わった。忘れがたい思い出がここには詰まっていた。


 ここでアオとあの桜を眺めてみたかった。


 そう心で呟きながら駕籠に乗り込む祐之進を春待ちの桜が見送っていた。駕籠に揺られながら祐之進が中洲に差し掛かった時だった。はためく御簾の隙間から川靄の湧き上がる中洲の縁で糸を垂れる人影を見つけた。それはいつか見た風景と同じように背を丸め、釣り糸を垂れる愛しい男の姿だった。その姿が閉じていた祐之進の感情をいとも容易く呼び起こす。


 嗚呼、あれはアオだ…!


 遠ざかる姿に枯れたはずの涙が一筋溢れた。まだ心にはアオはいるのだ。あの日から少しも変わらず心の中に住み続けているのだと思い知る。遠ざかるその姿を祐之進はその目と心に焼き付けた。その時の祐之進の気持ちはとても一言で言い表せるようなものでは無かった。


「さようならは言わないよアオ。私達はきっとまた会える」


 そう心で唱えると、祐之進は毅然と顔を上げて涙を拭った。



「許せよ、祐之進。こうするしか無かったのだ」


 春浅い川靄の立ち込める中洲にて、祐之進の乗った駕籠をアオは目の端に見送っていた。こんな冷たい川でそうそう魚などかかるわけはない。だが、アオは魚ではなくここを通るはずの祐之進の駕籠を待っていたのだ。きっとこれが見納めと思うと、アオの両の眼も熱く潤んだ。「さらば」と動くその口元には吐く息が白く細く棚引いていた。


 後は己の身を処するだけだ。


 アオも潤む目を擦り顔を上げた。朧な朝日がそのかんばせに差していた。







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