第8話 大打者の遺伝子
「……? 雄大くん?」
「松井秀喜は元来右打ち……、左打者転向……、それがさらなる大打者になるきっかけだったとしたら……?」
「ど、どうしたんすか?急に固まってひとりごとを言い出して」
雅は急に思考モードに入ってしまった僕に驚いている。
一方の僕は、今までにない速度で頭の中をぐるぐると動かしていた。
雅の打撃が開花する方法があるかもしれない。
「雅、君は左打ちだよな?」
「今まで散々見てきたじゃないっすか。正真正銘の左打ちっす。なんなら利き手も左っす」
「じゃあ、右打席で打ったことはあるか?」
「右打席……?そんなの一度も無いっすよ。だってメリットないじゃないっすか」
ご存知のように野球における左打者というのは、僅かながら右打者に比べて一塁に近い。また、一般に物理的な観点から左打者は右投手に有利とされている。
そして世の中には右投手のほうが圧倒的に多く、左打者であれば有利な対面が増えるのでメリットとなる点が多い。
実際のところ、女子の選手はスイングに利き手の先入観が少ないコトから、右利きでも初めてバットを持った日から左打ちを指導者から仕込まれることがある。
ゆえに、元来左利きで左打ちである雅が右で打つ意味というのは全くと言っていいほど無い。
ただし、今の現状ではそれは違うかもしれないと僕は思った。
「雅、君の打撃フォームは色々な人の指導を取り込み過ぎてぐちゃぐちゃになっている」
「……それは分かってたっすけど、今更言われると落ち込むっすね……」
雅は事実を突きつけられて塩がかかったナメクジみたいに縮こまる。
「正直僕もそのぐちゃぐちゃなフォームは手に負えない。リセットボタンがあったら連打したいくらいだ」
「でもリセットボタンは無いっす。このフォームを直すしか方法は……」
「それがあるんだよ、リセットボタン」
僕はベンチの近くに立て掛けてあったバットを握って、右打者の構えをする。
「……もしかしてっすけど、私に右で打てって言ってるんすか?」
「その通り!誰も手をつけていないまっさらな右のフォームなら、上手く行けば雅の打撃が開花するかもしれない」
「そ、そんなの上手く行くわけないじゃないっすか。怪物松井秀喜と私は全然違うっす」
雅は困惑する。
今までうまく行かなかったことが急にうまく行くなんて、そんな虫のいい話はない。
「でも試さないよりはいいだろう?このままやってもジリ貧だ」
「まあ……、確かにそうっすね……。試せることは試しておかないと悔いが残りそうっす」
突拍子もない僕の提案に、雅は不安そうながら賛成してくれた。
「よし、じゃあ早速右打席で試してみよう」
「ちょっ、ちょっと待ったっす!右打ちはそもそもフォームが全く固まってないんすから、せめてどういうイメージで打つか方針を決めて欲しいっす」
「そうだな……、雅の一番好きなプロ野球選手の打者を一人だけ思い浮かべて、その人の真似をしてみるのはどうかな?」
プロ野球選手の打撃フォームはその人の癖や長所を考慮した上で作り込まれたもの。雅がモノマネ程度で実践したところで形になるはずはないのだが、闇雲に無方針でやるよりは修正すべきポイントが見つかりやすいだろう。それに、こういうのは気持ちが大事だと僕は思う。
『好きこそものの上手なれ』という言葉はあながち間違いではないはず。
「……好きな選手っすか?――わかったっす、やってみるっす」
雅は休憩モードから切り替え、バットを持って打席へと向かった。
彼女の頭の中ではおそらく、憧れのプロ野球選手の姿がひとり思い浮かんでいることだろう。
人生初の右打席。しかも左利きなのに右打席に入るという、野球のセオリーに反した荒業中の荒業。上手く行くかなんて保証は全くないのだけれども、妙な焦燥感と期待に僕はドキドキしていた。
「よし、じゃあ投げるぞ」
「はいっす」
バッティングピッチャーを務める僕はマウンドに立つと、ロジンバッグをお手玉のように手にとって、滑り止めの粉を手にまぶす。硬球の縫い目に指をかけると、本日何球目か分からない直球をホームベースに向けて投げ下ろした。
この瞬間、僕は何故か『間違いなく打たれる』という電撃のような直感に襲われた。
よくプロの投手が痛打されたときに、『投げた瞬間打たれるのがわかった』というエピソードを聞くが、今の僕が感じたのはまさにそれだ。
僕の放った打ちごろの棒球は、雅の握るバットの真芯へ吸い込まれていく。
左打席のときからは考えられないくらい力感の無い軽やかなフォームで雅はバットを振ると、ボールは乾いた音とともに外野の遥か向こうへ飛んでいった。
打球角度も飛距離も長距離打者のそれ。しかも全く力んで振っておらず、癖になっていたドアスイングも見られない。
しかも雅が真似たそのフォームは、僕が人生で一番目にしたであろうものだった。
「……う、打っちゃったっす!よく分からないけど、今までで一番気持ちよく打てたっす!」
「あ、ああ……、まさか本当に右打席で改善するなんて……。しかも、そのフォームは……」
雅はとびきりの笑顔でこちらを向く。
「そうっす!私が真似したのは雄大くんのお父さん、
僕の親父は元プロ野球選手。走攻守揃った5ツールプレイヤー……ではなかったが、ちょっとマニアックなファンが多い選手だった。
それを象徴するのが親父の持つ独特な記録――シーズン代打本塁打の日本記録。
要はシーズン通してピンチヒッターとして打席に立った際のホームランの数が日本プロ野球界で一番多いのだ。
その記録は10本。大して多くないように見えるが、2位の選手が7本であることを考えれば異常なまでの代打男であることがわかる。
ここ一番、どうしても打ってほしいところで必ず打つ。それが僕の親父の仕事だった。
雅はそんな代打一筋のうちの親父のフォームを真似したわけで、それがなんと上手いことハマってくれたみたいだ。
「まさか親父のフォームを真似して来るとはね。もしかしてちょっと僕に気を使ったりした?」
「いやいや、雄大くんへの忖度はゼロっす。私の憧れは昔から戸崎和義っすから」
まあマニアックな野球少女もいたもんだ。
イケメンで背が高い現役選手とか、もっとレジェンド級の選手を推すのではなくわざわざうちの親父を推すとか、僕に言わせたらどうかしている。
ただ、僕は諦めかけていた野球への想いというのを雅が継いでくれたような気持ちになっていて、ちょっと嬉しかった。
「『ピンチヒッター戸崎和義』がコールされるだけで球場の雰囲気を変えちゃうその瞬間か堪らなく好きっす。だから私もそんな選手になりたいっす」
「そうだな。じゃあ、さっきの良い感覚を忘れないうちに反復練習だ。まだまだ行くぞ」
「はいっす!」
再び雅は打席に入る。
それから僕ら2人はあまりにも練習に夢中になりすぎた。日が暮れてから生徒指導の先生にそろそろ帰れと怒られるまで、ずっと僕は雅へボールを放り続けた。
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水卜みう
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