レディ・アイデス・ブラック・ダリアは人魚姫です ~少女と怪物~

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第1話 怪物たち

1

レディ・アイデス・ブラック・ダリアは人魚姫です。

彼女は白く輝くヒレを持っています。地上でヒレは消え失せ、代わりに彼女は、黒い義足を身に着けるのです。歩くたびに、ことことと、小さな音が鳴ります。

彼女は美しい海に面した町にたびたび現れます。きまって、大きな嵐で海が荒れたあとです。

彼女は人魚でありながら海の中に住みません。小さな船を所持していて、ほとんどをその上で過ごしています。

彼女は町の川辺へ船を停めて、滞在します。町人は彼女が町へやって来た事実を、彼女の船の有無で知るのです。

彼女は、いわゆる伝説上の生き物です。しかし彼女の現れる町の人々の多くは、彼女の存在に慣れきっております。彼女があまりに古い時代からそこにいるので、親から子へ、子から孫へと語り継がれるうちに、それが当たり前になってしまったのでしょう。

銀波町も、そういう町の一つです。美しい海を有する町で、昔からよく彼女はやってきました。

銀波町に昔から住む人々は、子どもの頃から彼女のことを聞いて育ちました。 仰々しく物語られてきたわけではありません。彼女があまりに当たり前に”いる”ので、たまに姿を見せる、ちょっと変わったご近所さんのような、認識です。あとから町にやってきた大人たちの中には、彼女のことを知らない人もおります。

レディ・アイデス・ブラック・ダリアは、悪い海の魔女を追って、陸地に現れると伝わっていました。


十二歳の夏でした。

ある願いを胸に、僕はレディ・アイデス・ブラック・ダリアに、初めて会いに行ったのです。

噂の通り、大きな川辺で彼女の船を見つけました。船はレトロな玩具をそのまま水に浮かべたような、可愛らしい形をしておりました。

彼女は船から垂らしたロープを川辺の杭にくくりつけているところでした。白くて細い腕は如何にも華奢なのですが、太い縄を容易く結んでいきます。その動きに合わせて、水面にヒレの先が覗きました。それは肌よりも白く、つやつやと輝いております。

間違いなく、彼女です。

緊張しながら、僕は、川辺へゆっくり降りてゆきました。歩道から川辺は急こう配になっていて、転ばないようかなりの努力をしなければなりませんでした。

「レディ・アイデス・ブラック・ダリアさん?」

僕は紙切れを読み上げました。前もって用意していたカンニングペーパーです。当時の僕は、恥ずかしながら、このカンペなるものに頼らねば初対面の人と話がし辛い性質でありました。

彼女は、すうっと振り向きました。

顎のラインで綺麗に切り揃った髪は、美しい白糸のようでした。その隙間から、二つの炎が覗いています。瞬きをすると、一瞬、桃色に淡く陰り、すぐにまた赤々と燃えあがりました。

美しい宝石に出会った。そういう心地になったのを、今も覚えています。美しい”人”と表現するのは、烏滸がましいと無意識に感じたのです(当時の僕は”烏滸がましい”などという言葉は知りませんでしたが)。

「ああ、星真珠の子じゃないか」

彼女はさざ波一つ立てずに僕の方へやってきて、僕の顔を見上げるや、言いました。川と地上の縁に腕を乗せ、ゆったり微笑んでいます。

彼女の美の迫力に圧されていた僕は、その言葉に、はっと我に返りました。

「そ、そう。お、オレ、星真珠の子だよ。覚えてるんだね? か、母ちゃんのこと」

当時の僕はこの吃音癖が恥ずかしくて、自ら人に話すことはほとんどありませんでした。きっとこの時も、彼女がそれに対して少しでも表情を変えたら、馴染みの弱虫が騒ぎ出して、くるりと踵を返したことでしょう。

しかし彼女は、類なき美貌に、妙に人懐っこい笑顔という組み合わせで、僕をしっかりと引き留めてくれました。

「ちょっと前のことだもの。覚えているとも」

僕の言っている『母ちゃんのこと』とは十一年も前の出来事なのですが、どうやら寿命が三百年あるらしい人魚には『ちょっと前』の範囲のようです。

彼女は小首を傾げました。

「それで、その星真珠の子が、今日はなんの用で?」

「えっ、あ……その」

僕は慌てて手元のカンペに目を落としました。

「じゅ、じゅ、十一年前と同じことが起きたんだ。海の魔女が産んだ、怪物が出たんだ」

だ、だから、と続けて、一度大きく呼吸し、僕は深々と頭を下げました。

「オレと一緒に、そいつを、退治してください!」


2

             *

大きな嵐と共に、海の魔女はやってくる。

海の魔女は、嵐の夜に、地上に邪悪な怪物を産む。

海の魔女は『怪物』に人を襲わせ、苦しめ、楽しむ。

           *

人魚姫と共に、僕たちの間で伝わる”海の魔女”の話です。

なぜこういう話が生まれたかというと。

大きな嵐のあと、僕たちの町では奇妙なことが起きやすかったのです。海の傍で人が失踪したり、奇妙な姿の『怪物』を見たという噂が後を絶たなくなります。

特に明確な証拠があったわけではありませんが、いつしかそういった出来事の元凶は、嵐と共にやってくる『海の魔女』だと、大人にも子供にも長く信じられてきたのです。

小さな異変が大きな事件に。小波程度だった恐怖が、次第に巨大な津波へと成長していきます。

そんな時、レディ・アイデス・ブラック・ダリアはふらっと町へやってきます。

彼女は短い時は数日、長ければ半年は町に滞在します。

その時の彼女は、特別なことをしているようには見えません。彼女は普通に店で生活必需品を買い、町の人と話をして、時折海にいたそうです。

そんな光景が当たり前になる頃。そういえば、最近、悪い話を聞かない、と誰かが気付きます。消えていた人が、いつの間にか戻っていたりもします。

そうして初めて、川辺から人魚姫の船が消えていることに、町人は気づくのです。

こんなことが何度か続くうちに、自然と人々は思うようになりました。

レディ・アイデス・ブラック・ダリアは、海の魔女から我々を密かに守ってくれている。


「別にそういうわけではないんだがな」

船のデッキに上がった彼女は、黒いシャツに黒いスラックス、そして黑い義足を身に付けながら、ぼやきました。僕はというと、子どもらしい好奇心と芽生えかけの道徳心の間で揺れながら、彼女の作業をチラチラ見ておりました。

「確かに私は海の魔女が産む『モノ』を追ってる。けど、それは別に怪物じゃないよ。ついでに言えば、人助けのつもりもない」

ぱちん、ぱちん。銀色の金具で、膝の関節部分を止めていきます。すべてを終えると、何度か確かめるように屈伸しました。

「で、でも、何か奇妙な『モノ』を退治してるのは本当だろ? お、オレの時だって」

「それは……」

彼女はうーんと唸り、何事か言いかけましたが、思い直したように、一度船の中へ引っ込みました。

戻ってきた彼女の手には、水色のアイスバーが二本ありました。一本を僕に渡し、一本をしゃくしゃく食べ始めます。

「まあ、まずは君の方の話から聞こうじゃないか。じっくり話してくれよ」

さあさあ。

妙に楽しそうな彼女に強く促され、僕は一口アイスを齧ると、カンペを開きました。


3

ことの発端となったのは、僕のクラスメイトの不登校でした。小雪という名の女の子です。

彼女は絵に描いたように真面目な少女でした。先生の言うことはきちんと聞く。同級生とは仲良く、しかし、間違っていることは間違っていると、しっかり指摘する。そういう子でしたので、同級生だけでなく、多くの先生にも信頼を寄せられていたと思います。

しかし、僕のような粗暴で不器用なタイプの子どもにとっては、相性の悪いタイプでありました。ハキハキとした声音。正しいことを正しいと信じ切る眼。そのどれもが僕はいやに苦手で、正直に言うと、怖いくらいでした。

小冬も僕の苦手意識に薄々気づいていたのでしょう。『みんな仲良く』がモットーのようでしたが、無理くりに僕と関わろうとはしませんでした。そう言う分別もひっくるめて、小冬は優等生の名に相応しい子でした。

小冬が学校を休んだ最初の日、僕は特に何も気にしておりませんでした。苦手な生徒が一人いなくて、せいせいした気分だったほどです。

小冬は翌日も、その翌日も、学校を休みました。

その辺りから、僕はようやく心配になってきました。ただしそれは、小冬に対しての心配ではありませんでした。

空席の小冬の席、の斜め後ろ。そこにある夏乃の背が、日に日に小さくなっていくのです。

夏乃と小冬は親友同士です。夏乃も小冬と同じ優等生タイプでしたが、小冬よりもおっとりとした性格でした。いつも人の話を真剣に聞き、自分の意見を言う前に、その正しさを推し量るように、少し小首を傾げる。美しく豊かな黒髪が肩を滑り落ちます。その思慮深い仕草は、小冬にもほかのクラスメイトにも、ないものでした。

そうです。僕は夏乃が好きでした。まともに話したこともほとんどないのに、それでも彼女は特別でした。彼女にそれとなく話しかける機会を、いつも探しておりました。

ある日の夕方、掃除のバケツを持つ夏乃を見かけました。僕は勇気を振り絞って「手伝う」と言い、バケツの取っ手を一緒に持ってやりました。

夏乃は僕の顔を見て驚いたようですが、すぐに「ありがとう」とにっこり笑ってくれました。

自分からチャンスに飛び込んだくせに、意気地のない僕は、緊張ですぐに黙り込んでしまいました。しかし夏乃は、お互いの共通の話題を探し出し、僕へと差し出してくれました。

「銀波公園によく秋次郎くんと一緒にいるでしょう」

「えっ。あっ。な、なんで知ってんの?」

「あたしと、……小冬もよく行っていたの」

水場に着きました。水が飛び散らないように、二人でバケツの尻を支えながら、水を捨てました。掃除に使った水は真っ黒でした。

「あたしたちは銅像のある場所から、もっと奥の方、ほら、トイレあるほうのエリア。池の飛び石のとこ。あの辺で遊んでるの」

銀波公園、広くてすてきよね、と呟き、夏乃は微笑みました。

黒く濁った水は、くるくると渦を描きながら水道管に吸い込まれていきます。

僕はそれを目の端で捉えながらも、実際は、夏乃だけを見つめていました。

夏乃の笑顔が、みるみるくしゃくしゃになっていくのを。

「……小冬、まだ学校来れないのか?」

夏乃はしばらく無言で、やがて小さく頷きました。はたはたと涙が散りました。


4

塾の帰り路でのことだったそうです。

小冬は一人きりでした。電灯の明かりがほつほつと等間隔に並んで、行く先を照らしていました。

塾自体はいつも決まって九時に終わるのですが、その日は教室に残って友達と長々とおしゃべりをしてしまったそうです。

腕時計を確認すると、もはや十一時を過ぎておりました。彼女は早歩きから小走りになり、夜道を進み続けます。

銀波公園を横切り、彼女は海岸脇の歩道に出ました。通り慣れた道です。

その道は海より小高い位置にあるので、歩いていると、自然と海全体を見渡す形になります。昼間なら海景を楽しめもしますが、その時の彼女にそんな余裕はありませんでした。

砂浜に通じる石造りの階段があります。その横を小冬は通り過ぎました。

階段がない場所は背の高い草に覆われております。何台か車が駐車されており、乗り入れ禁止のはずなのだが、と小冬はチラと思ったそうですが、注意する相手も見当たらないので先を急ぎました。

海、歩道と並んで、右手には大きめの車道が通っています。しかし時間が時間だからか、車通り自体は少なかったそうです

小冬の耳には、波の音と、自分の切羽詰まった呼吸だけが聞こえておりました。

そこに、奇妙な鳴き声が混ざったのは、不意のことです。

けうぇー……けうぇー。

はじめ、小冬は、鳥の声だと思ったそうです。 思わず立ち止り、耳を澄ませました。

けうぇー……けうぇー。

やはり鳥の声に似ています。

背後からだ。彼女は振り返りました。

最初は、何も見えませんでした。街灯がちょうど途切れた場所だったので、視界は深い闇に呑まれておりました。

目を凝らしてようやく、ひらひらと何か、白いものが見えました。布か羽がはためくのにも似ていて、やはり鳥かと思いました。。

けうぇーけうぇー。

声は大きくなっています。

近づいてきているのだ。

彼女はそれを理解して、一気にぞっとしました。

ぼろろろろっ。

車道を、久しぶりに車が通りました。

そのライトに照らされて、一瞬だけ、それの姿が見えました。

鳥ではありませんでした。

それは巨大で、しかしガリガリにやせ細った手足を、一心不乱に振り回しておりました。

ぎくしゃくとした動きが白い軌跡を描いています。どう考えても、人間の関節の動きとは思えません。まるで細長い触手がうねるような。

血走り、見開かれた目。


けえっ‼


唾を飛ばして、それが一層高く鳴きました。


小冬は一目散に駆けだしました。 そうして、家までは無事に帰りつきました。

しかし今でも、”アレ”が外にいる気がして、小冬は学校に来られないのです。


5

小冬が夏乃にだけぽつぽつと語り、夏乃がその断片を埋めたうえで、僕へ伝わった話が以上になります。

泣いている夏乃の隣で、僕はその話を聞き終えました。

ここで一つ。十二歳の僕は常日頃から、漫画や小説を好んで読み漁っており、そこに出てくるヒーローになりたいと願っておりました。強い力を持ち、世界や好きな子を守る。そんなヒーローに憧れていたのです。

そんな僕ですから、夏乃の話を聞き終えて最初に抱いた感情は、……今考えるとかなり恥ずかしいのですが、熱い熱い、使命感でありました。細い肩を震わせて目の前で泣いている、好きな子を、助けてやらねばという気持ちです。 本来、それは直接の被害を被った小冬に向けるべき感情のはずでしたが、この時の僕には思いもつかなかったのです。

とにかく僕は、夏乃に何かしてやりたい、という気合に支配されてしまいました。

水場で別れた後、僕はまず、親友の秋次郎を呼び出して、先の話を伝えました。秋次郎は僕の幼馴染で、クラスでも一番頭が良い男の子です。僕が感情を高ぶらせすぎて、話したいことが行ったり来たりすると、つまりこういうことだね、なるほど、ということはこうだね、と意図を酌んで補足してくれます。

おかげで、すぐに「そういえば少し前に大きな嵐があった」ことが思い出され「ということは、その奇怪な生き物は、昔から伝わっている海の魔女の産んだ『怪物』だろう」という結論に結び付いたのです。


「だ、だからオレも、その『怪物』を退治したいんだ。悪いやつのせいで、優しいひとが悲しい顔をさせられるのは、おかしい。だろ? そいつさえいなくなれば、もう誰も、怖がったり、悲しんだりしなくなる」

僕はそこまでを一息で吐き出しました。

アイデスは食べ終えたアイスの木の棒を咥えて、僕をじっと見ていました。

「退治してくれ、って私に頼みに来る奴は結構いたけど、一緒に退治したい、っていうのは、君が初めてだなあ」

赤い瞳には、全てを透かし見通すような澄んだ光があります。僕は拳を強く握りしめて、それを必死に見つめ返しました。

やがて、彼女はにやっと笑いました。

「……いいよ。じゃあ『怪物』を、一緒に退治しますか」

僕は思わずガッツポーズをし、手の中にあったアイスが垂れそうになったので、慌てて口に運びました。

赤い目を細めて、彼女は僕に、恭しく手を差し伸べました。

「じゃあ、今日から私たちは怪物退治のパートナーだ。よろしくな、星真珠の子」

僕の名前は若草です。そう言おうとしましたが、やめました。星真珠の子のほうが、怪物退治に際しては、なんとなく格好が良い気がしたのです。ヒーローの肩書か、コードネームのようで。


6

僕は最初、律義に「レディ・アイデス・ブラック・ダリアさん」と呼んでいましたが「長いから、アイデスでいいよ」と言ってくれたので、そう呼ぶことにしました。

「まずは情報収集だね」

アイデスが主張したので、まず、小冬の家へ行くことになりました。

小冬の家は、真新しい小さな一軒家でした。庭は狭いながらも、綺麗に手入れされており、一部に緑の葉が生い茂っていました。

その葉を僕は知っていました。母も同じものを育てているからです。ミントでした。葉っぱの形が可愛らしいし、食べられるから好きだと母は言っていました。

アイデスがインターホンを押すと、しばらく間があってから、玄関が開きました。

若い刈り上げの男の人が、扉の隙間から顔を覗かせました。アイデスの顔を見て、その風貌に一瞬ぎょっとしたようですが、背後の僕に気がつくと、表情を和らげました。

「こんにちは。この子は若草。小冬さんの同級生です。私は銀波町でちょっと有名な、人魚姫のアイデス。はじめまして」

アイデスの直球過ぎる自己紹介に、僕は一瞬呆れてしまいました。しかし刈り上げの男性は、大人の対応をしてくださいました。

「こちらこそ、はじめまして。小冬の父です」

アイデスは手に持った紙袋を軽く持ち上げました。道中で買ったお見舞いの品です。中身は高級な菓子折りと、なぜか箱入りのサイダーアイスでした。 アイデスのチョイスです。

「突然の訪問、申し訳ありません。小冬さんのお見舞いをさせて頂けたらな、と思って、来たんですけど、今、お時間大丈夫ですか? もし駄目なら、出直しますけど」

低姿勢とみせかけて、かなり強引な申し出なのが、子どもながらにも理解できました。大人同士の駆け引き。しかし、小冬の父は、他人を疑うことを知らない、あどけない笑顔を見せました。

「いやあ、全然大丈夫ですよ。来てくださって嬉しいです。ありがとうございます。どうぞ、上がってください」

玄関が全開にされると、小冬の父の姿がはっきりと見えました。

背の高い人です。黒いタンクトップから覗く二の腕、肩にはたっぷりの筋肉がついて、丸太のようでした。ジーンズに押し込まれた太ももはパツパツです。刈り上げの髪型と切れ長の目のおかげで、若手の格闘技選手を思わせる雰囲気があります。

玄関で靴を脱いでいると視線を感じました。顔を上げると、小冬の父と目が合います。緩めた目元に笑い皴が浮かんでいました。

「夏乃ちゃん以外の子が来てくれたのは、初めてだなあ」

僕は思わず手を止めました。

小冬は友達が多かった、はずです。もちろん、夏乃は中でも特別な親友でしょうけれど、それ以外の生徒たちも、小冬ちゃん小冬ちゃんと、何か困ったことがあるといつも小冬に群がっていたのを、僕は覚えていました。教室の中心にいる小冬を眺めて、秋次郎くらいしか親友がいない自分とは、別世界の存在だと思ったものです。

「小冬の部屋は二階にあるんです」

ピンクのスリッパを履いた小冬の父が先を歩き始めました。アイデスと僕もお揃いのスリッパを履き、後に続きました。


7

二階への階段は、廊下を進むとすぐに見えてきました。とんとんと階段を上っていく小冬の父を、僕とアイデスが追います。

白い壁にはところどころ、絵や花が飾ってあります。飾りの類にあまり興味がない僕ですが、それでもなんとなく、同系の趣味で統一されているのが理解できました。色合いは白やピンク。絵のモチーフは軽くデフォルメされた猫がほとんどでした。

階段を登り切り、一番奥のほうに、白い扉が見えました。閉まっています。

同じフロアには、他にもいくつか扉がありましたが、どれも開け放されていました。 だからこそ、一つだけ閉ざされたドアには、異様な雰囲気が滲んで見えます。

小冬の父が、白い扉をノックしました。丸太のような腕が奏でたとは思えない、小さくて柔らかい、こんこん、という音。

「小冬。お友達が来てくれたよ。若草さんと、人魚姫のアイデスさんだ」

お友達。その言葉を聞いた途端、僕は急に後ろめたさを感じました。 しかし今更、いやあ、友達と言う程の仲では、と言うわけにもいきませんので、アイデスの後ろに縮こまりながら、黙っていました。

「お前が心配で来てくれたんだよ。夏乃ちゃんから話を聞いたんだって」

むしろ小冬に、友達じゃない、と言われたらどうしよう。

僕は不安でした。しかし小冬は、そんなことは言いませんでした。

それどころか、ただの一言も、発さなかったのです

「一緒にお茶でも飲まないか? パパ、昨日、担当さんからおいしいお紅茶を頂いたんだよ」

沈黙。

「小冬の好きなチョコケーキもあるよ。みんなで食べようよ。ごはんがあまり食べられないんだし、せめて好きなモノくらい……」

沈黙。

小冬の父は項垂れ、僕たちの視線に気づくと、慌てて顔を上げました。

「……すみません。ちょっと疲れているみたいで」

「いえいえ、こちらが勝手に押し掛けたのですから」

アイデスが物わかりよく言いました。そして僕を見ました。

「小冬さんとお話ししなくていいのか? そのために来たんだろう」

「え? あ……う、うん」

アイデスが行くというから来ただけだ、という本音は、赤い瞳に射貫かれると喉奥へ押し込まれてしまいました。しぶしぶ僕は一歩前に出て、白い扉に向かい合いました。

耳を澄ませました。

扉の向こうからは、物音ひとつ、呼吸ひとつ聞こえません。

まるで自分の存在を消してしまいたがっているように。

「こ、小冬? 若草だけど」

沈黙。

「あのさ……」

沈黙。

「は、ははやく、学校来いよ。夏乃が心配してる。げ、元気なくなってて可哀そうだからさ、早く顔みせてやって」

沈黙。

僕はアイデスを振り向き、肩を竦めました。アイデスも肩を竦めると、小冬の父に「お邪魔してすみませんでした」と頭を下げました。

ぞろぞろと階段を下りて、玄関へ向かおうとした時です。

「お二人とも、お茶でもどうです?さっき言った通り、おいしいのを貰ったんですよ」

振り返ると、小冬の父が強張った笑みを浮かべておりました。

「……一人では飲み切れなくて」

当時の僕に、小冬の父の気持ちがはっきりは理解できませんでした。しかし、アイデスはわかっていたのでしょう。彼が、誰かに一緒にいて、話を聞いてもらいたいと願っていることを。

「お父さんがよろしいのであれば、よろこんで」

アイデスはにんまり笑って言いました。


8

小冬の父は僕たちをリビングに招くと、手早く紅茶の用意をしてくださいました。まず、一度沸かした熱々のお湯で紅茶を淹れます。続いて、氷が一杯に入ったグラスへ、熱い紅茶を注ぎます。作法に則った丁寧な淹れ方でありました。

僕はアイデスと隣り合ってソファに座りました。テーブルを挟んだところにある一人掛けソファに、小冬の父が座りました。

しばらくは何気ない雑談が続きました。最近はまた随分暑いですね。もうすぐ終わりますよ。おや、それは人魚姫の預言なのですか。

「実を言うと、本当に人魚姫がいるとは思っていませんでした。僕は子供の頃、銀波町に住んでいたんですが、小学校にあがる前に、都心に引っ越しましてね。小冬が生まれて、いい環境で育てたいと思って、戻ってきたんですよ。だから、この辺の”伝説”の類にはとんと疎くて」

僕は、リビング内をそっと見まわしました。

テレビの傍に二つの写真立てがありました。一つには、小冬の父と小冬が一緒に写った写真が入っております。つい最近のもののようです。父親と一緒にピースサインをした小冬は、少女らしい無邪気な笑みを浮かべていました。キッと前を向く小冬の横顔しかほとんど知らない僕の目には、物珍しく映りました。

もう一枚の写真にも、小冬の父が写っていました。けれど、小冬はおりません。代わりに、お腹の大きい女の人が、小冬の父に寄り添っていました。

「あの日、小冬さんに何があったのですか?」

アイデスが不意に呟きました。特別な大声だったわけでも、彼女の声音が変わったわけでもありません。しかしどういうわけか、僕の耳にはその声が、今までとは違い奇妙に反響して聞こえたのです。美しい海の底から湧き上がる泡のイメージが自然と脳裏に浮かびました。

小冬の父にもそう聞こえたに違いありません。目を見張って、口ごもっておりました。

「一人で抱えるのは苦しいでしょう。話しておしまいなさい」

アイデスの声は、今度は先ほど以上に大きく、強く響きました。

小冬の父は、ゆっくりと顔を伏せました。

次に顔を上げた時、その顔は、疲れ切った少年のようでありました。


9

小冬の父は、在宅で仕事をこなすイラストレーターです。階段の壁に飾られていた猫の絵は、彼の作品です。仕事時間は勤め人よりよほど柔軟なので、片親ながらも家庭を優先することができておりました。 小冬の母は、小冬を生んだその時に亡くなられたそうです。

母を知らない小冬を不憫に思うこともあったそうです。自分の親として不足している部分が、小冬に、二親であれば不要な我慢を強いているのではと、不安に思う日もありました。

けれど小冬は、本当に良い子でした。日頃から、自分がどういう振る舞いをすれば父にとって最善かを考え、実行している子でした。あまりに優しく大人びた子なので、父は時折、我が子を『子ども』として愛しているからこそ、不安になるほどでした。

小冬が塾通いをしたいと言い出したのも、父の為でした。本人が語ったわけではありませんが、父にはわかりました。父のイラストがネットの世界に受け入れられ、仕事が軌道に乗ってきていたのを、小冬は知っておりました。夕方から夜遅くまで小冬が塾に通っていれば、父はその間、仕事に十分集中できます。

父は小冬を止めました。そんなことはしなくていいと。お前の考えていることはわかっているからと。

しかし小冬は、自分のやろうとしていることは間違っていないと、強情でした。なにも父の為だけに言っているのではない。塾で勉強するのは、私の将来にもいいことだから。それに、お父さんが私に構っていて、そのせいで仕事がなくなったら、もっと大変でしょう。父さんのためにしていることは、巡り巡って、私の為なの。優しさを貫こうとする小冬は、時に酷く冷酷成りえたのです。

確かに、父は小冬が家にいると、何かと世話を焼き過ぎるきらいがありました。それは一人娘可愛さという単純な理由だけでなく、今は亡き母の分の愛情も注いでやりたいという気負いも関係していましたが、それを小冬に振りかざしたくはありませんでした。

結局、父は小冬の塾通いを許しました。家から一番近い塾を選びましたが、授業は九時までなので内心ではとても心配でした。しかしまっすぐ帰ってくれば、どれほどゆっくり歩いても九時十五分には家に着く距離です。 送り迎えをしたいと父は言いましたが、それも断られてしまいました。ほかの友達もいるから大丈夫だと。

塾に関わって、二人はふたつの約束をしました。授業が終わったら、絶対にすぐ帰ること。何かどうしようもないことがあって、帰りが十時を過ぎそうになったら、必ず家に電話すること。

そうして小冬は塾通いを始めました。

小冬はいつも九時一〇分には帰ってきました。父はそれに合わせてテーブルセッティングをし、夕食を温めるのが当たり前になりました。親子二人で一緒に食事をして、その日あったことを話して、十時になったらお風呂を沸かすのです。

何事もなく二ヵ月ほどが経ちました。

しかしその日、小冬は、十時になっても帰ってきませんでした。

父は塾に電話しました。事態を理解していない塾講師はのんびりと「小冬さんはいつも通り九時に帰りましたよ」と答えました。

父は慌てて警察に連絡しました。学校の担任にも。警察の反応はいまいちでしたが、担任は、小冬の性格をよく理解しておりましたので、父の味方となって、そんな警察を熱心に説得してくれました。

町中、海岸、川辺、公園と、多くの場所を、多くの大人が協力して探しました。しかし小冬は、いっかな見つからなかったのです。

小冬は結局、早朝になって、一人で帰ってきました。

裸足でした。

足裏は擦り傷だらけで、白い砂と赤い血が凝っておりました。手にも同じような傷がありましたが、こちらは砂汚れがない代わりに、深く酷い怪我が多くありました。

病院で診察した結果、身体の傷はそれだけでした。しかし小冬の胸の内にある、もっと柔らかな部分が、どうしようもなくズタズタになっているのが、父にはわかりました。

約束をやぶってごめんなさい。

帰宅以降、小冬が父にまともに話したのは、今に至るまで、それきりなのです。


そこまでのことを一気に語った小冬の父は、とたん、大粒の涙を流しだしました。大人の、しかも体格のいい男性がそのように泣く姿を見るのは、初めてでした。

シュシュシュっと妙な音がして、出所に目をやると、アイデスが、ピンクの布カバーのかかったティッシュ箱(この家の物でしょう)から、大量のティッシュを引き出しております。

「どうぞ」

枚数が多すぎるティッシュは、もはやペラ紙ではなく、いびつな団子になっておりました。しかし、不格好な団子と、絶世の美女。そのギャップは、不思議と場の空気を和ませましたのです。

小冬の父も泣き笑いになり、白団子を受け取りました。

鼻をかんだり涙を拭ったり。そうして、湿ったため息を大きくつきました。

「……警察は本人からの被害届などがないとほとんど動けないんです。今の小冬は黙ったままで、夏乃ちゃんにしかまともに話しません。それに彼女は……一応”無事に”帰ってきているので」

小冬の父は、両目にティッシュの塊を押し当てました。

「……警察に言われたんですよ。”夜に一人で出歩いたわりに、無事でよかったですね。もっと最悪なケースもありますからね”って。……でも、”無事”って、なんなんでしょうね。話せないくらいに傷ついている子どもがいるのに……」

あれほど量のあったティッシュ紙が濡れそぼり、無惨な残骸となって、ぼとぼとと床に落ちていきました。

僕は小冬の父から滲む、あまりの悲しみの圧にたじろぎ、思わず目を逸らしました。テレビ脇の写真立てと、目が合いました。

満面の笑みの小冬がそこにおります。紙に焼き付けられた偽物とはいえ、彼女の顔をこれほどまじまじと見たのは、初めてのことでした。

小冬の左目の下にほくろがあることに、僕はその時初めて気づいたのです。


10

小冬の家を後にした時には、もう夕方になっておりました。

よかったら、また来てね。小冬の父は最後に言ってくれましたが、その時の僕は曖昧に頷くのが精一杯でした。小冬の父の涙や、閉ざされた白い扉に自分一人で向かい合うと思うと、足がすくむような心地になったのです。

アイデスが家まで送ってくれると言うので、僕は彼女と隣り合って歩いておりました。相変わらず彼女が歩くと、小さな音が鳴ります。

「何か、どこか、引っかかるなあ」

アイデスが急に言いました。

「……こ、小冬が嘘ついてること?」

僕も微妙に、何かが、気になっておりました。

嘘、というのは正確な言い方ではなかったかもしれません。しかし、夏乃が小冬に語った話と、小冬の父の知る事実には、確かに細かい相違がいくつかあったのです。『怪物』のことを話していないとか、それ以前の部分です。

小冬は夏乃には友達とおしゃべりをしていて遅くなり、家路を急ぐ頃には十一時だったと言っていました。しかし塾講師の話では、小冬は九時にはもう外へ出ていたのです。

足が砂まみれだったというのも奇妙です。

夏乃の話では、小冬は歩道をかけ続け、なんとか家までたどり着いたといいます。砂まみれの裸足になるタイミングはどこにもありません。そもそも靴はどうしたのでしょう。

小冬の父の話では、小冬は早朝に帰ってきたと言います。もしも十一時ころに塾から家までの帰路で追いかけられたのだとしたら、時間が合いません。普通に歩いても十五分で辿り着く道筋です。夜が明けるまで、小冬は町中を走り、『怪物』から逃げ回っていたのでしょうか。だとしたら、捜索に出ていた大人の誰にも会っていないのは不思議です。

そういった矛盾点や、未知の点をひとつずつ挙げながら、僕は次第に、気持ちが上向いていくのを感じました。少しずつ謎を解き、怪物の正体に迫るヒーローの心境でありました。小冬の家で覚えた後ろめたさも、そうこうするうちに、忘れていきました。

いつの間にか自宅の玄関についておりました。人と話すのが苦手な僕ではありますが、何故かアイデスと話すのは不思議と心地よかったので、時間が経つのはあっという間でした。

「小冬さんがわざわざ話を曖昧にしたり、嘘をつく理由は何だと思う」

僕が玄関をくぐる直前に、アイデスは言いました。質問というより、意見を聞きたい、という含みのある声でした。

しかし僕には何一つ、思いつきませんでした。小冬の父が言うように、僕も思っていた通り、小冬はとてもいい子なのです。嘘をつくのは最も似合わない人に思えました。物事の事実や理屈を曖昧にするのも、彼女らしくないと感じました。

僕が正直にそう告げると、アイデスはふむ、と一人納得したように頷きました。

「なるほど。だからか」

何が、と聞くより先に、アイデスは歩み去り始めていました。

「明日は学校が終わったら、川辺の船に集合ね」

アイデスはちらりと僕を振り向き、また魅力的に微笑みました。

「怪物退治には、星真珠の力が要る。さっそく、今夜から母上に借りておいで。使い方は、母上に聞けばわかる」

そう言うと、彼女はもう振り向きませんでした。コトコトという特徴的な足音が、少しずつ消えていきました。


11

アイデスが僕を「星真珠の子」と呼ぶ理由は、なんということもありません。母が十一年前に、アイデスから「星真珠」という品をもらった人であり、僕がその子供であるという、いたって単純な理由であります。彼女が母を覚えていて、僕を一目見て母の子であると見抜いたのには多少驚きましたが、存在そのものが怪奇な人魚姫でありますから、そのくらいの不思議は受け入れられました。

帰宅した僕はさっそく、夕食を作っている母に、今日の出来事を語って聞かせました。今日アイデスのところに行くことは知らせておりましたので、母の方から「どうだった?」と聞いてきたくらいです。

「な、なんか割とあっさり、手伝ってくれるって」

「だろうね。あの人、もともと好きなんだよね。人をそばで見るのが。だからそういう機会は逃さないタイプ」

「そ、そうなの?」

「アイスのサイダー味、食べてた? 水色のアイスバー」

母は気安く言いました。僕は「うん」と頷きました。

「十一年前も食べてたの?」

「そう。暇さえあれば食べてた。あの時はもう冬が近かったから、お腹を壊さないのかなって思った。相変わらずなのね」

「……義足はカタカタ言ってたけど」

「十一年前もそうだったよ。壊れてるわけではないんだって。だから大丈夫だよ」

母はテーブルに皿を並べながら言いました。

「私も、あんまりコトコト鳴るもんだし、あの人が人魚姫って知ってたもんだから、つい聞いちゃったんだ。”海の魔女からもらった足は……?”ってな感じに。そうしたら”それは妹”だって」

「妹?」

「ああ。有名な人魚姫のお話に出てくる、海の魔女に足をもらって陸に上がったのは、一番下の妹だって。アイデスは、お姉さん人魚姫の中の一人だそうだ。海の魔女に髪を上げて、短剣をもらった……」

言われて、僕はアイデスの切り揃った綺麗な白髪を思い出し、同時に、人魚姫の物語も思い出しました。

夜明け前に王子を殺して、その血を足に塗れば、人魚姫は人魚に戻れる。その心臓を刺す為の短剣を持ち込んだのは、確かに姫の姉たちであったはずです。可愛い妹を助けるために。しかし妹は王子を殺すことを拒み、姉たちの愛が籠ったナイフを海に捨ててしまう……。短剣が落ちたところは、まるで血が滴るように真っ赤に光ったと伝わっています。

「でも、そっか。あんたもこれを使うんだね」

母の言葉に、僕は現実へ引き戻されました。

母は首に下げていた鎖を取り、僕の目の前に掲げておりました。星の形の真珠が、先っぽにぶら下がっています。真珠と言うと丸いものを想像しがちですが、それは微かに扁平で、つやつやした表面は鏡のように見えます。大きさは僕の親指の長さくらいあり、かなり大きめです。

「十一年前、あんたが神隠しにあった時。私は身近の誰も頼らず、警察にも連絡をせず、真っ先にアイデスのところへ行った。私はずっとこの町に住んでいたからね。町に伝わる人魚姫と魔女の話を知っていたから、赤ん坊のあんたが黒い影に掻っ攫われた時、すぐに彼女を頼った。あの子を見つけてください。無事に返してください。そう願ったら、彼女はこれをくれた。”これは見たいと心の底から望むものを見せる。眠る時に枕元に起きなさい”と言って」

母は自力では眠れそうになかったので、睡眠薬を飲み、眠りました。すると本当に夢に僕の姿が現れたそうです。一歳の僕はどこか暗い場所の冷たい床に転がされ、弱弱しくしゃくりあげていました。大泣きできる体力は費え、すでに疲弊しきっていたのでしょう。

そこはどこなの。どこにいるの。

母が強くそう問いかけた瞬間、夢の視点が切り替わりました。天井が見えました。オレンジ色の鉄筋が組まれています。

ダンッダンと荒々しい足音がしました。恐怖と驚きに痙攣する僕の震えを、母は自分のものとして感じました。恐る恐る、そちらを見やりました。巨大な手。生臭い息が頬を舐めます。

相手の双眼と目が合った、その瞬間。

母は悲鳴をあげて飛び起きました。

そしてアイデスのもとへ駆けつけ、見たものをすべて話し、彼女と、”オレンジ色の鉄筋の天井”がある場所を探し出し、一緒に僕を助け出したのです。

僕はすでに何度か、この話を聞いていました。己の身に起こった恐怖体験の実感はなかったので、純粋に冒険譚として羨ましく、母に幾度となく語りをねだったのです。

いつか自分も同じような経験をしたいと願いながら。

母は優しい手つきで、僕の首に星真珠の首飾りをかけてくれました。

僕はなんだか、大事なものを受け継いだような、誇らしい気持ちになっていました。明日の本格的な怪物退治に向けて、装備が整ってきた気分です。 実際にそれが何のために託され、どういう役目を果たすのか、よくわかっていないにも関わらず。

「あ、明日は、夕方から人魚姫と会っていろいろするから、もしかしたら遅くなるかも」

僕は機嫌よく星真珠を指で弄りながら言い、何となしに母の顔を見ました。

そうして、母が曖昧な表情をしているのに気づきました。 どうしたの、と尋ねると、これまた何とも微妙な声音で、言いました。

「……あんまり無理しちゃだめだよ。辛かったら、やめてもいいんだからね」


12

その夜、僕は母の話を元に、星真珠を枕元に置いて眠りました。

強く望むものが夢に移されるというおまじないを実行するのは、背伸びしたがりな年頃としては少々照れくさい部分もありましたが、非常に楽しみだったのも事実です。母の不穏な言葉は、美味しい夕食を平らげるうちにすっかり忘れておりました。

目を閉じても、しばらくは興奮で寝付けませんでした。

しかし気づいたときには、僕は眠りの世界におりました。

風景は学校の廊下です。勝手に足が動いています。それで夢だとうっすら気づいたのですが、確信できたのは、隣を歩いている人物が夏乃だったためです。

夏乃とバケツを一緒に持って歩いた、あの時を夢見ておりました。

「銀波公園によく秋次郎くんと一緒にいるでしょう」

小首を傾げる仕草に従って、艶やかな黒髪がさらりと落ちます。僕はどぎまぎしながら、どうにか返事をします。「えっ。あっ。な、なんで知ってんの?」現実のあの瞬間より、もっときちんと話したい。せめて、もう少し格好よく……。そう願いましたが、どうも星真珠にそういう融通はないようで、ただあの時と同じ会話が繰り返されました。

目の前の夏乃はまだ笑っています。ああ、この笑顔をもっと見ていたい。僕は確かに願いました。

しかし、記憶の光景は淡々と進んでいきます。 水場に辿り着き、バケツの水を流し……。夏乃の顔が、くしゃくしゃになりました。

ああ、どうか、そんな顔をしないで。そう思った瞬間、世界がぐにゃりと歪みました。

「話せないくらいに傷ついている子どもがいるのに……」

その言葉が聞こえると同時に、世界が再び、像を結びました。

顔を覆って泣いている小冬の父が目の前におります。彼の背後には白い扉がありました。

僕は何かを言おうとしましたが、言葉にはなりませんでした。何かは、言いたかったのです。けれど、何を言えばいいのかが、まるでわかりませんでした。

戸惑う僕をあざ笑うように、また世界が歪みました。

真っ暗です。ふと、耳に静かなざわめきが届きました。波の音だ、と気づいた時、さあっと視界が晴れました。

夜の闇に、大きな満月が浮いています。光の源はこれだったのか。察すると同時に、一人の少女が海辺の道を走っているのに気づきました。

小冬でした。僕は彼女を、斜め少し上から見下ろしているのです。

彼女は後ろを時折振り向きながら、必死に駆けています。彼女の切迫した息づかいがあまりに生々しいので、次第に僕自身の息も苦しくなりました。

背後のモノは、奇妙な鳴き声をあげて彼女を追っています。、全身はよく見えません。顔の辺りから胴体まで、黒い霧のようなものに包まれています。異常に長い腕が伸び縮みしては、いびつな手で時折彼女の髪の端を叩きます。

彼女は擦れた息で叫びます。助けて、たすけて。

いつまで走るのでしょう。走れるのでしょう。彼女の息が止まるまでか、それとも『怪物』が追いつくまでか。

僕は幾度となく、彼女と『怪物』の間に割って入ろうとしました。しかし僕はまるで目だけの存在になってしまったように、ただ見守るしかできなかったのです。

何もできないのに、見ているしかできない。僕が無力感に絶望し出した、その時でした。

不意に、満月よりも明るく、強い光が、彼女の前方からほとばしりました。横に丸く並んだ二つの光は、何かの目玉のようにも見えました。

光を照射された『怪物』は、ひと際高く鳴きました。それは明らかに悲鳴でありました。

そして小冬は、光の中に飛び込み……。


13

翌日は特に暑い日で、僕がアイデスの船を訪ねた夕刻にも、ねっとりとした蒸し暑さが蔓延っておりました。アイデスは水の中でのんびり体をくねらせておりました。

「疲れているね」

僕の顔を見たアイデスは澄ました顔で言いました。僕が見るものを予測していたような気配が、声に滲んでおりました。

僕は首から下げていた星真珠を突きつけ、「詐欺だ」と唇をとがらせました。

「み、見たいモノが見られるって、言ったくせに。あ、あんな怖いもの、ぜんぜん見たくなかった」

「君の深層心理は、それが見たかったんだよ。『怪物』を退治するには、まずはどんな『怪物』かをちゃんと知らないとだから」

白いヒレがぱしゃぱしゃと水面を器用に叩きます。なんとなく、喜びに満ちた犬が尾を振る姿に似ています。

「さあさあ、何を見たか詳しく話しておくれ」

僕はいまだに不機嫌でしたが、昨日視た光景を自分の中にだけ止めておくのも嫌で、すべてを話しました。

アイデスは水にぷかぷか浮いたままそれを聞いておりました。聞き終えると、いくつか質問を始めました。

「彼女は光の中へ飛び込んだんだな?」

「そ、そうだけど」

「その光は何だった?」

「わ、わかんない」

「大きなものが二つ?」

「そう。め、目みたいに横に並んでた」

「小冬さんが逃げていた時も、光に飛び込んだ時も、まだ夜だった?」

「多分。く、暗かったから、あれだけ光が眩しく感じたと思う。満月もあったし」

「靴は履いてた?」

「そ、そういわれれば、履いてた。走ってたのは歩道だし」

アイデスは水の上で仰向けになって、 じっと空を見上げました。

「……ということは、裸足になったのは、逃げるためじゃなかったと……」

「どういうこと?」

僕の質問には答えず、アイデスは水に降ろされている船の梯子を掴むと、腕の力だけで登り始めました。水に濡れて艶やかなヒレが、左右にゆさゆさと揺れます。

「準備するからちょっと待ってて」

そう言って、船の中へと姿を消しました。

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