第三幕:real
第三幕:real
やがて季節は夏から秋、そして冬へと移り変わり、素肌に突き刺さるかのような鋭く冷たい北風が吹き荒れる師走も大詰めを迎えていた。
「それでは社員の皆さーん、そろそろ納会を始めますので、コミュニケーションゾーンに集合してくださーい!」
秋葉原UDXの地上24階の㈱コム・アインデジタルエンターテイメントのオフィス内を巡回しながら、アシスタントを務める上別府がそう言って集合を促せば、俺ら開発スタッフ達は各自のデスクから腰を上げる。
「何だか色々あったけど、今年もなんとか無事に納会の日を迎える事が出来たな、ケンケン」
「ああ、そうだな。まあしかし、会社の倒産が決定しているから、無事とは言い難いのかもしれないけどさ」
俺と俺のすぐ後ろのデスクに腰を下ろす寛治の二人はそう言いながら、上別府の誘導に従い、オフィスの一角のコミュニケーションゾーンの方角へと足を向けた。そして隣のブロックに腰を下ろす柴と小菅の二人とそれとなく合流すると、この春入社したばかりの新人デザイナーである小菅が俺に尋ねる。
「……犬塚さん、納会って何ですか?」
「ああ、小菅さんはうちの会社の納会に参加するのはこれが初めてか。まあ、納会って言うのはその年の最後を締め括って社員同士で一年間の疲れを労う、簡単な宴会みたいなもんだよ」
「……ふうん、そうですか」
やはりぼそりと呟くようにそう言った小菅らと共にコミュニケーションゾーンに足を踏み入れると、そこにはビールや酎ハイと言った各種の酒類と共に、宅配のピザや寿司などの簡単な料理の数々が所狭しと並べられていた。
「それでは社員を代表して、鍛治屋敷さんに音頭を取っていただきまーす! 社員の皆さんは、お飲み物を手に取ってお待ちくださーい!」
アニメ声の上別府が無駄に豊満な肢体を揺らしながらそう言えば、一堂に会した俺ら開発スタッフ達は思い思いの酒類の缶を手に取り、音頭を取るように促された鍛治屋敷が一歩前に進み出てマイクを握る。
「只今ご紹介に預かりました通り、不肖このあたし、鍛治屋敷静香が音頭を取らせていただきます」
マイクを握りながらそう言った鍛治屋敷は、年甲斐も無く、相変わらず一昔前に流行った渋谷のギャルの様な風貌であった。ド派手な金色に染められた長い髪と、日サロで焼いた小麦色の肌は、このチームのアートディレクターを務める彼女のトレードマークと言えなくもない。
「残念ながら来年の春には事実上の倒産とチームの解散が決定し、この会社のこの面子でもって納会を執り行う事はこれで最後の機会となってしまった訳だが、その事実は一旦脇に置いておいて今年もまた皆が業務に邁進してくれた事を素直に祝いたいと思う。皆も将来の身の振り方などを考えれば不安は尽きないが、今はそれらの由無し事を忘れて楽しんでくれ! 乾杯!」
「乾杯!」
鍛治屋敷の音頭でもって乾杯の掛け声を唱和した俺らは酒類の缶を傾け、用意された料理の数々に手を伸ばし始める。残念ながらピザも寿司も未だ未だ血気盛んな歳頃のスタッフ達全員の腹を満たすほどの量ではないが、この後忘年会へと繰り出すための前哨戦と考えれば、これで充分に違いない。
「ケンケン、今年もお疲れさん」
「ああ、寛治、お前もな」
俺と寛治の二人はそう言いながら互いのビールと酎ハイの缶をかちんと打ち鳴らし、その中身をごくごくと飲み下した。
「ケ、ケンケンさん、小林さん、こここ今年もお疲れ様でした」
「……お疲れ様でした」
プログラマーである柴と新人デザイナーである小菅もまたそう言って先輩社員の俺や寛治を労えば、
「それでは社員の皆さーん、そろそろ納会を切り上げて、忘年会の会場へと移動してくださーい! 会場は上野の鳥番長でーす! 場所が分からない人は、分かる人の後について行ってくださーい!」
やがて酒類の空き缶やピザの空き箱、それに宅配寿司のプラ容器と言った納会で出たゴミを片付け終えた上別府がアニメ声でもってそう言って、荷物を纏め終えた開発スタッフ達に忘年会の会場へと移動するよう促した。そこで俺もまた荷物を纏めると宵闇に沈む秋葉原UDXから退出し、他の開発スタッフ達と共に東京メトロ日比谷線に乗って上野駅まで移動すると、昭和通り沿いに店を構える『鳥番長上野昭和通り店』へと辿り着く。
「おお、ワンコくんワンコくん、こっちこっち!」
俺に先んじて暖かい店内に足を踏み入れていた鍛治屋敷がそう言いながら手招きしたので、俺はそんな彼女に促されるがままに、同じテーブルの斜向かいの席にどっかと腰を下ろした。そして鍛治屋敷の隣、つまり俺の真正面の席に腰を下ろしたのは、身体が無駄にエロくてアニメ声のアシスタントの上別府である。
「ケ、ケンケンさん、と、ととと隣失礼します」
すると若干どもって挙動不審になりながらも、柴がそう言いながら俺の隣の席に腰を下ろした。この店のテーブル席は全て四人掛けなので、どうやら一緒に入店した筈の寛治と小菅の二人は別の席へと移動したらしい。
「忘年会に参加中の社員の皆さーん、注文した飲み物はそれぞれのテーブルに行き渡りましたね? それでは再び社員を代表して、鍛治屋敷さんに乾杯の音頭を取っていただきたいと思いまーす!」
さほど広くもない『鳥番長上野昭和通り店』の店内で上別府がそう言えば、乾杯の音頭を取るべく鍛治屋敷が立ち上がる。
「只今ご紹介に預かりました鍛治屋敷だが、既に社屋での納会で一席ばかり
「乾杯!」
鍛治屋敷によるはきはきとした
「それにしてもワンコくん、気付いてみれば今年もまた一年間、本当にあっと言う間だったな」
俺の斜向かいの席に腰を下ろした鍛治屋敷が、メガジョッキの角ハイボールを豪快にごくごくと飲み下しながらそう言った。
「ええ、そうですね。ようやく『クラースヌイ・ピスタリェート』の新作の開発が佳境に突入したかと思ったら、まさか会社が倒産する事になっちゃって、本当に禍福は糾える縄の如しとでも表現すべき一年でしたよ」
俺がそう言えば、やはり渋谷のギャルの様な風貌の鍛治屋敷は如何にも上機嫌そうな表情でもって、ジョッキを手にしたままげらげらと笑うばかりである。どうやら彼女は納会でもハイボールを鯨飲していたし、既に結構な勢いでもって酔っ払ってしまっているらしい。
「お? ワンコくんも禍福は糾える縄の如しだなんて、随分と難しい
鍛治屋敷がそう言って笑うと、彼女の隣の席に腰を下ろし、大きな鶏の丸焼きを食べ易いようにナイフでもってばらばらに切り刻んでいた上別府が口を開く。
「ええ、ええ、そうなんですよ? ケンケンさんってば、プライベートでも、とっても博識なんですからね?」
上別府はそう言うが、彼女が一体俺のプライベートの何を知っているのかが俺には理解出来ない。
「そうかそうか、ワンコくんはプライベートでも博識なのか。それはこのあたしも直属の上司として、鼻が高いぞ」
「す、凄いんですね、ケケケケンケンさんって」
俺と違って上別府の発言を訝しんではいない鍛治屋敷と柴の二人はそう言って、各自が手にした角ハイボールとレモンサワーを飲み下し続ける。
「と、とととところで皆さんは、ももももう転職の準備とかはしてるんですか?」
すると俺の隣の席に腰を下ろした柴が旨辛ホルモン炒めを摘まみながらそう言うと、俺は赤々と燃え上がる木炭が放り込まれた七輪の上でホルモンミックスを焼きつつ、数か月前の鷹央との焼肉屋での一件を思い出した。
「ああ、そう言えば鍛治屋敷さん、実は転職に関して是非ともお伝えしておきたい事があるんですが……」
そう言った俺が『クラースヌイ・ピスタリェート』の開発チーム丸ごとでの移籍の件に関して鍛治屋敷に相談しようとしたところで、そんな俺の言葉を横から遮るような格好でもって、不意に上別府が口を挟む。
「ねえねえ、ケンケンさん? そろそろちょうど良い頃合いなんですから、あたしとケンケンさんとのプライベートでの関係も、社内の人達にお伝えしておいた方が宜しいんじゃないかしら?」
「ん? 俺とキミとの関係?」
まるでこちらを催促するかのような上別府の言葉を耳にした俺はそう言って、生ビールが注がれたジョッキを手にしたまま、頭の上に見えない疑問符を浮かばせつつきょとんと呆けた。先程のプライベートがどうこうとか言う意味不明な発言に引き続き、やはり彼女が一体何を言いたいのか俺にはさっぱり理解出来ない。するとそんな俺の胸の内を知ってか知らずか、身体ばかりが無駄にエロくてアニメ声の上別府はとんでもない事を言い始める。
「実のところを言うとですね、あたしとケンケンさんは、大人の男女の関係として交際しているんですよ?」
「ぶっ!」
全く身に覚えの無い上別府の発言に、俺は思わず飲んでいた生ビールを豪快に噴き出してしまった。
「あら、ケンケンさんったら、いきなり噴き出すだなんてお行儀が悪くってよ?」
俺の向かいの席に腰を下ろした上別府は事も無げにそう言うものの、俺はそれどころではない。
「は? 何だって? 俺とキミが、交際している?」
飲んでいた生ビールが気管に入ってしまった俺はげほげほと激しく
「ええ、ええ、そうですよ? あたしとケンケンさんとは両想いの、仲睦まじい恋人同士じゃないですか? だからそろそろ結婚も視野に入れながら、こうして周囲の人達に改めてあたし達の関係を説明すべきなんじゃないかと思ったんですけど、もしかして迷惑でした?」
「迷惑も何も……」
唐突な、そして全くもって訳の分からない上別府の爆弾発言に、俺はそう言って絶句する事しか出来なかった。しかしながらそんな俺の行為が彼女の発言を肯定していると判断されてしまったのか、同じテーブル席に腰を下ろす鍛治屋敷と柴の二人は上別府の言い分を信じてしまう。
「そうかそうか、ワンコくんは上別府くんと、結婚も見据えて交際していたのか。そんな重要な事実に気付いてやれないだなんて、あたしも部下を預かる管理職として未だ未だ未熟だな」
「そ、そそそそうだったんですね。あ、あたしも気付きませんでした」
鍛治屋敷と柴の二人がそう言えば、このままでは俺と上別府の交際が既成事実化されかねない。
「いや、違いますから! 俺と上別府さんとは、交際してなんかいませんから!」
「あらあら、ケンケンさんったら、一体何を仰ってるのかしら? あたしとケンケンさんとは、つい先週も一緒にお泊りデートしたばかりの仲でしょう? まさか、忘れた訳じゃないでしょうね? それとも、照れてるのかしら?」
その十人並みの顔ににたにたとした湿った薄ら笑いを張り付けつつもそう言った上別府の眼には、笑えない冗談を言っているようなふざけた色はまるで浮かんでいなかった。つまり彼女は心から本気で、自分と俺とが結婚を視野に入れながら交際していると固く信じ込んでしまっている、もしくは信じ込ませようとしているのである。
「いやいやいや、重ねて釈明させてもらいますけど、俺らは決して交際してなんかいませんから!」
「あらあらあら、ケンケンさんったら、あたし達が交際している事実がそんなに照れ臭いのかしら?」
俺が幾ら否定したところで上別府はそう言ってのらりくらりと言い逃れ、一向に埒が明かないとはまさにこの事と言う他無い。
「なんだなんだ、さっきからどうも話が噛み合わないと思ったら、ワンコくんは照れているのかな? 駄目だぞワンコくん、男女交際は悪い事じゃないんだからもっと堂々と胸を張って、自分の恋人は大事にしてやらないとな!」
「そ、そうですよケンケンさん、こここ交際を否定したりなんかしたら、う、上別府さんが可哀想じゃないですか!」
すると鍛治屋敷と柴の二人はそう言って、虚偽の説明を繰り返す上別府に同情し、完全に俺と彼女とが交際していると言う上別府の言い分を信じ込んでしまっているように見受けられた。このままでは遠からず、俺の望まぬ風説が開発スタッフ間に流布されてしまう事は、火を見るよりも明らかである。
「ですから二人とも、何度も言うようですけど、本当に俺と上別府さんとは交際してなんか……」
これで何度目の釈明になるのか、俺が上別府との交際疑惑を繰り返し否定しようとしたところで、不意にそんな俺の言葉を横から遮るような格好でもって小柄で痩せぎすな人影がぬっと姿を現した。そしてその人影は酒類が注がれたジョッキや料理の皿が並べられたテーブルの上に身を乗り出しながら、俺の斜向かいの席に腰を下ろす鍛治屋敷に語り掛ける。
「……鍛治屋敷さん」
果たしてそう言って鍛治屋敷の名を口にした小柄で瘦せぎすな人影とは、別のテーブル席で酒宴に興じていた筈の小菅であった。
「なんだなんだ、誰かと思えば小菅くんじゃないか。……それで、どうした? あたしに何か用か?」
渋谷のギャルの様な風貌の鍛治屋敷がそう言って問い掛ければ、新人デザイナーである小菅はぶるぶると肩を震わせ、その両の瞳からぼろぼろと大粒の涙を零れ落としながら咽び泣き始める。
「……鍛治屋敷さん、あたし、もうこんな仕事辞めたいです」
小菅が唐突に、咽び泣きながらそう言えば、その場に居合わせた俺ら全員は至極驚かざるを得ない。
「……あたし、本当は『トゥムトゥム』や『どうぶつの村』なんかの、もっと可愛いらしいキャラクター達が夢の世界で幸せに暮らすようなゲームが開発したかったんです。だから『クラースヌイ・ピスタリェート』みたいな、人がゴミの様に死んだり殺し合ったりするような殺伐としたゲームは開発したくありません。来る日も来る日も人を殺すための武器や兵器をデザインするような毎日には、もううんざりです。どうかお願いですから、今すぐにでも他の部署に異動させてください」
いつになく饒舌な小菅が涙ながらにそう言って窮状を訴え掛ければ、今度は彼女に直接訴え掛けられた鍛治屋敷が腕を組んで小首を傾げつつ、天を仰ぎながら思い悩む番であった。
「そうか、小菅くんはこのチームの仕事に不満があったのか。そんな重要な事実に今の今まで気付いてやれなくて、本当に申し訳無い。しかしながら異動となると、会社が倒産する寸前のこのタイミングでは、正直なところ難しいと言わざるを得ないだろう。だからどうか『クラースヌイ・ピスタリェート』の最新作が完成するその日までは、今の部署に留まっていてくれないか?」
アートディレクターを務める鍛治屋敷はそう言うが、彼女から開発チームへの残留を示唆された小菅は納得行かないらしく、益々大粒の涙を零れ落としながら咽び泣くばかりである。
「……鍛治屋敷さん、鍛治屋敷さんからそんな事言われたって、あたし、あたしこのままじゃ……」
するとそう言って咽び泣く小菅の背後から、彼女とは対照的にぶくぶくに太った肥満体の男が姿を現した。
「これはこれは、鍛治屋敷さんもケンケンも柴さんも、どうもすいませんね。何と言ったらいいのか、とにかく小菅さんってばテキーラベースのハイボールの飲み過ぎですっかり酔っ払っちゃって、自分で自分が何を言っているのかも理解出来ていないみたいなんですよ」
果たしてそう言って釈明した肥満体の男は俺の同期の小林寛治その人であり、彼の言葉が事実であれば、新人デザイナーである小菅は既にべろべろになるまで酔っ払ってしまっているらしい。
「……あたし、酔ってません」
「え?」
ぼそりと呟くような小菅の言葉に、彼女の背後に立つ寛治がそう言って問い返した。すると小菅は寛治に向き直り、普段の彼女からは想像も出来ないような剣幕でもって声を荒らげる。
「……あたし、酔っ払ってなんかいません!
「いや、そんな、俺は別に小菅さんの邪魔をしている訳じゃなくて、むしろ助け舟を出しているつもりだったんだが……」
「……同じ事です! あたしにはあたしの言い分があるんですから、小林さんは黙っててください!」
声を荒らげながらそう言って寛治に食って掛かる小菅の様子から察するに、どうやら意外にも、普段は何を考えているのか分からないほど大人しい彼女は人並み外れて酒癖が悪い事が推測された。
「何だか、面倒臭い事になっちゃったなあ」
酔っ払った小菅と寛治との遣り取りをまるで他人事の様に横目で眺めつつ、俺がジョッキに注がれた生ビールをごくごくと飲み下しながらそう言えば、斜向かいの席に腰を下ろす鍛治屋敷もまた深い溜息交じりに同意する。
「ああ、そうだな。まったくもって、ワンコくんの言う通りだ。とてもじゃないが今から人事部に問い合わせて異動させるなんて事は出来ないし、かと言って、うちの開発チーム内で小菅くんが望むようなゲームの仕事が見つけられるとも思えん。ああ、本当に面倒臭い」
酔っ払った小菅に泣きつかれる格好になった鍛治屋敷はそう言って、薄く切り揃えられた眉毛と眉毛に挟まれた眉間に深い深い縦皺を寄せながら天を仰ぎ、まるで苦虫を嚙み潰したかのような難しい顔のまま頭を抱え込んでしまった。そしてそんな彼女はちらりと俺を一瞥しつつ、職場の上司として、そして人生の先輩として深い深い溜息交じりに助言する。
「ご覧の通りあたしは部下と人事部の板挟みだが、ワンコくん、キミはあたしに構わず恋人を大事にしてやってくれたまえ。人生に於いて最も大事なものとは、地位でも名誉でもなく、家族の存在だからな」
「いえいえいえ、ですから、俺と上別府さんとは決して交際してなんかいないんですってば!」
俺はそう言って何度でも否定するものの、そんな俺の言葉を当の上別府は一向に意に介さない。
「まったくもう、ケンケンさんったらいつまで照れ臭がっちゃっているのかしら? こうなったらあたしとの交際を大々的に宣言して楽になっちゃえばいいのに、本当に意地っ張りで不器用な人なんだから、いずれ結婚する身の恋人としてあたしも困っちゃうじゃないの?」
「だから上別府さん、何度でも言いますけど、俺とキミとは交際してなんかいないでしょう? まして結婚だなんてとんでもない事だし、どうしてキミはそんな嘘をべらべらと吹聴するんですか?」
すっかり呆れ果て、また同時に疲れ果てながらそう言って向かいの席の上別府を問い質そうとするものの、彼女は俺の言葉に耳を貸さないまま十人並みのその顔ににやにやとした薄ら笑いを張り付かせるばかりであった。
「おいおいおい、恋人同士の痴話喧嘩だったら他所でやってくれよ? まったく、二人とも
すると鍛治屋敷はそう言って俺と上別府を冷やかすが、身に覚えの無い交際疑惑を掛けられた俺にとってはいい迷惑である。
「……」
もうこれ以上、幾ら交際疑惑を否定したところで上別府を黙らせる事は出来ないと判断した俺は、遂に口を噤んで黙り込んだまま頭を抱え込んでしまった。そして同じテーブル席に腰を下ろす俺と鍛治屋敷の二人が頭を抱え込んでいると、不意に隣の席の柴がおもむろに腰を上げる。
「ちょ、ちょっとあたし、おおおおトイレに行ってきます」
おもむろに腰を上げた柴はちょっとだけ恥ずかしそうにそう言いながら、お世辞にも広いとは言えない『鳥番長上野昭和通り店』の男女共用のトイレの方角へと足を向けた。そして彼女が通路の向こうへと姿を消すと、テーブル席に残された鍛治屋敷はメガサイズのジョッキの底に溜まった角ハイボールをぐっと一息に飲み干して気を取り直し、改めて俺に尋ねる。
「ところでワンコくん、さっきキミは、あたしに何か伝えたい事があるとか言ってなかったか?」
鍛治屋敷はそう言って問い質すが、問い質された俺は彼女の隣に座る上別府が次に何を言い出すかが気掛かりで、こちらに耳を傾ける鍛治屋敷に肝心の用件を伝えるどころではない。
「まあ、その、何と言いますか……確かに鍛治屋敷さんにお伝えしておきたい事があったんですが、なんだか気勢を殺がれてしまったんで、今日のところはもういいです。また今度、日を改めてお話しますから」
「ああ、そうか。キミがそれで納得するのであれば、別にあたしは構わないが……本当に重要な案件ならば一人でうじうじと思い悩まずに、いつでも上司であるあたしに相談しに来いよ?」
「ええ、分かってます」
感情の伴わない愛想笑いと共にそう言い終えるのとほぼ同時に、不意に強烈な尿意を覚え、俺は生ビールのジョッキを傾ける手を止めた。どうやら忘年会の開幕からこっち結構なペースでもって冷たい生ビールを飲み続けたせいか、膀胱がぱんぱんになるまで尿が溜まり、おまけに腹が冷えてしまっているのでその尿意の強烈さは尚更であると言わざるを得ない。そこで俺は飲み掛けのジョッキをテーブルの天板の上に置くと、取るものも取り敢えず急いで席を立つ。
「ん? どうした、ワンコくん?」
「ちょっと、トイレに」
言葉少なにそう言って席を立つと、俺は急ぎ足でもってテーブル席とカウンターに挟まれた狭い通路を渡り、やがて男女共用のトイレの前へと辿り着いた。そしてそのトイレの扉をこんこんと二回ノックしてみれば、程無くしてやはり内側からこんこんと二回のノックが返って来る。
「マジかよ」
そう言った俺は内股になったままもじもじと身を捩り、ぱんぱんに膨らんだ膀胱が今にも破裂しそうになりながらも、固く閉じられたトイレの扉の前で未だかつて体験した事が無いほどの強烈な尿意に抗い続けざるを得ない。そしていよいよ俺の意に反し、小便が漏れ出そうになったところで、ようやく水洗タンクの中の水が流れる音と共にトイレの扉が開かれる。
「あら? だ、だだだ誰かと思ったら、ケケケケンケンさんだったんですか?」
果たしてちょっとばかり驚いた様子でもって息を呑みつつも、男女共用のトイレから出て来て俺の顔を見るなりそう言ったのは、俺に先んじてトイレで用を足すべく席を立った筈の柴であった。
「あ、ああ、うん、俺もトイレに行きたくってね」
俺はもじもじと身を捩りながらそう言って、眼の前のトイレに今すぐ駆け込みたくて仕方が無かったが、肝心のトイレの扉の前に柴が立っているので駆け込もうにも駆け込めない。絶体絶命のピンチ、万事休すの崖っぷちとは、まさに今の俺の状態を表現するに相応しい言葉である。勿論彼女を押し退けてトイレに駆け込むと言う選択肢もまた存在するものの、今時は女性スタッフの肩に触れただけでセクハラ認定されかねないご時勢なのだから、迂闊に手を出す訳にも行かない。
「あ、あああ、あた、あたし、びびびびっくりしちゃいました」
強烈かつ猛烈な尿意に耐えかねている俺の胸の内を知ってか知らずか、少しばかりカールしたショートボブの髪の柴はそう言って、ややもすれば照れ臭そうな表情と口調でもって俺に語り掛ける。
「ケ、ケンケンさんと上別府さんって、お、おおおお付き合いされてたんですね。あ、あたしったら全然気付かないでケンケンさんとお喋りしてたから、ううう上別府さんには迷惑だったかな?」
どうやら上別府の虚言を完全に信じ切ってしまっているらしい柴はそう言うと、彼女の肩に触れるべきか否か迷っている俺の心配を他所に、唐突に俺の両手をぎゅっと固く握り締めた。
「だ、だだだからケンケンさん、ど、どうか、ううう上別府さんを幸せにしてあげてください! あ、ああああたし、おおおお二人の事を応援しています!」
俺の両手を彼女の両手でもって固く握り締めながらそう言った柴は、まるで憑き物が落ちたかのような朗らかな笑顔をこちらに向けると、ちょっとばかり寂しそうに「そ、それじゃ」と言ってからその場を立ち去ってしまう。
「いや、だから、交際してなんかいないんだけどな……」
その場から立ち去る柴の背中に向けて深い深い溜息交じりにそう言った俺は、次の瞬間には脇目も振らずにトイレの扉の内側へと駆け込んだ。そして蓋と便座を上げた洋式便器に向けてじょぼじょぼと大量の尿を勢いよく排出してみれば、我慢に我慢を重ねた分だけ膀胱が空になって行く快感は筆舌に尽くし難く、言い知れぬ達成感がぞくぞくと背筋を駆け抜ける。
「はあ……」
ようやくトイレに駆け込めた俺がそう言って排尿の快感に打ち震えていると、迂闊にも鍵を掛け忘れた背後の扉が不意に開き、一人の背が高くて乳や尻が大きい人影が姿を現した。
「あ、ちょっと、入ってます! 使用中ですってば!」
俺はそう言って突然の闖入者に退室を促すが、背の高い人影は大人しく出て行ってくれるどころか俺が排尿している最中のトイレの中へと足を踏み入れ、そのまま後ろ手に扉を閉める。
「ケンケンさん、やっと二人っきりになれたんじゃないかしら?」
果たして後ろ手にトイレの扉を閉めながらそう言った背の高い闖入者は、身体が無駄にエロくてアニメ声の女性スタッフ、つまり俺と交際しているとの風説を流布して止まない上別府美香その人であった。
「ちょっと上別府さん! なんでトイレにまで入って来てるんですか!」
「だって、こうでもしてあげないと、愛しのケンケンさんと二人っきりになれないでしょう?」
事も無げにそう言った上別府はこちらへと歩み寄ると、デニムジーンズのジッパーの狭間から男性器がまろび出ている俺の身体を背後から抱き締め、その豊満な乳房をぴったりと密着させる。柔らかくも温かい二つの脂肪の塊、つまり有史以前から女性の象徴たるべき乳房が無防備な背中をぐいぐいと圧迫する感触は享楽的かつ背徳的で、何とも言えず心地良い。
「ちょ、ちょっと上別府さん! 何やってんですか!」
「あら? もしかしてケンケンさんったら、大きなおっぱいはお嫌いなタイプの男性なのかしら?」
「え? いや、別に嫌いじゃないって言うか、むしろ大好きですけど……って、そうじゃなくて上別府さん、なんでそのおっぱいを俺の背中に押し付けるんですか! それにさっきから何度も何度も鍛治屋敷さん達に真っ赤な嘘を吹聴してますけど、一体どう言うつもりなんですか!」
俺がそう言って問い質せば、上別府は背後から俺を抱き締めたまま不穏な事を言い始める。
「だって昔から兵法によると、本丸を攻め落とそうと思ったら、まずは外堀から埋めろって言うじゃないですか? だからケンケンさんを攻め落とすために、まずはあたし達が結婚も視野に入れながら交際していると言う既成事実を積み上げて、ケンケンさんが逃げられないように外堀を埋めようと思っただけですよ?」
その十人並みの顔ににたにたとした湿った薄ら笑いを浮かべながらそう言った上別府の言葉に、俺の背筋にぞっと冷たいものが走らざるを得ない。
「それじゃあケンケンさん、あたしは向こうのテーブルで待ってますから、早く戻って来てくださいね? そしていずれ近い内に、今度は嘘やはったりなんかではなく、あたしと結婚を前提にしながら交際してくださるかしら?」
そう言った上別府は俺を抱き締めていた手を
「……」
一人取り残された俺は言葉を失い、無言のまま、尿道に残った尿の最後の一滴を洋式便器に向かって排出しながら立ち尽くすばかりである。
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