弐
「神泉苑で、毎夜、鬼が遊んでいるそうだ」
「最初に遭遇したのは、夜警をしていた近衛府の武官。物音を聞いてすわ侵入者かと馳せ参じたら遭遇した、という話だ」
あの勢いからして今回こそ馬に乗せられるかと覚悟していた敦時は、ゆっくりと動き出した牛車の振動に思わずほっと息をついた。馬に乗れないわけではないのだが、せっかちな性格が行動に出がちな時臣の駆け方に着いていける自信はない。恐らく時臣もそれを承知しているから、こうして敦時を連れ出す時は毎回牛車を用意してくれるのだろう。
──車が門の前で待機していた所から察するに、自分が宮中を
毎度の心遣いには感謝している敦時だが、そこに配慮してくれるならばついでに事前の使いも立ててほしいとも思う。そうすれば門を自力で開けさせたりなんか死んでもしないのに。
「次に鬼に遭遇したのは野盗の類。追手を逃れて神泉苑に飛び込んだはいいものの、結局鬼に喰われたってわけだな」
「喰われた?」
「ああ。武官は命からがら逃げおおせたんだが、野盗は
対面に座った時臣が苛立たしげに膝を指先でトントントントンと叩くのを眺めながら敦時は疑問の声を上げる。指先の動きは牛車の遅さに苛立っているからだと分かりきっているから、疑問は時臣が語る話に関するものだ。
──ほんっとせっかちだよね、時臣って。
「体の一部が残っていた。具体的に言うと足と腕が一本ずつだな。武官が逃げ延びていなかったら、野犬か何かの仕業と思われただろう」
『普段の参内も許されるなら馬がいい』と公言してはばからない時臣が牛車に乗るのは、参内の時と敦時と行動する時だけだろう。後は何かの式典の時か。
「逃げ延びた武官が『鬼』って証言できたってことは、その鬼、ただのヒトの目にも鬼として見えたってこと?」
そんな他愛もないことを頭の片隅で思いながらも、敦時は必要な問いかけを投げていく。
車の中にいるのは時臣と敦時だけだから、余計な敬語も省いた。とにかくせっかちな時臣に言わせると、『必要ない場面で必要以上に畏まられるのは時間の無駄』らしいので。
「子供だった、という話だ。そこそこに身なりのいい、下げみづらに髪を結った童子が数人。武官が初めて遭遇した時は、池のほとりで蹴鞠をしていたそうだ」
「夜更けにそんな所で童子が蹴鞠なんてしてたら、確かに『鬼』って判定になるだろうね」
「何でも、その鞠が誰ぞかの生首だったそうで」
「間違いなく鬼だね、うん」
「気付いた武官が悲鳴を上げると童子達が皆振り返ったそうなんだが、その額には小さな角が生えていて、クワッと開かれた口には牙もあったそうだ」
「うん、間違いない。鬼だね、それは」
時臣の話を聞いた敦時はうんうん、と頷く。相槌というのは、会話を成立させる上で重要不可欠な代物だからだ。
だからとりあえず頷いて、それから丁重に抗議を述べる。
「そこまで分かってるなら、僕の出番も時臣の出番もないじゃない。これは陰陽寮の管轄であって、間違いなく時臣が出る幕じゃない。断じて! 今上帝の御嫡男である
だが残念なことに、時臣の心に敦時の気遣いはまったく届いていないようだった。苛立たしげに膝を叩く指先もそのままに時臣は実に淡々と言葉を並べる。
「話が変わったのと、陰陽寮が延々動かんのと、さらに諸々話があるんだが、とりあえずこれは言っとく。敦時、俺は親王は親王だが、どうして臣籍降下させてもらえないのか逆に疑問なぐらいに問題山積みな廃太子だ。そこを一々気にされたら話が進まん」
「いや、お願いだから気にしてっ!? そういうトコだよっ!? 君が廃太子されちゃったのってっ!!」
「実にどうでもいい。俺はさっさと臣籍降下して面倒事は全て投げ出したいんだ。都合よく与えられた名も時『臣』なんだし」
「……お願いだから、もう少しだけ自分に流れる血を気にしてあげて……?」
「うるさい。で、鬼の話なんだが」
敦時の渾身の抗議を実にあっさりと流した時臣はさっさと話を元に戻した。柳に風どころか『風? 吹いたか? そんなもん』くらいな扱いをされた敦時はわずかにむくれるが、ここでむくれても効果がないことは分かっているから、大人しく時臣の言葉に耳を傾ける。
「ここ数日、昼間にも出るらしいんだ、その『鬼』」
気軽にポンッと投げられた言葉に、敦時は思いっきり顔をしかめた。
昼間に鬼が出る。しかも禁苑である神泉苑にだ。これは穏やかな話ではない。
「しかも夜に出る鬼とは違う鬼なんだとか」
「違う?」
「昼に出るのは、大人のなりをしているらしい。で、言葉を向けてくるんだと」
こちらも初めて遭遇したのは近衛府の武官だった。夜に鬼が遊ぶという噂を聞きつけた近衛府の中でも剛の者が、見回りのために昼の神泉苑の中に足を踏み込んだ所、出会ったらしい。
水干を身に着けた、青年だったという。髪を下げみづらに結った青年は、
『交換しよう』
何をだ、と武官が問うと、青年は己の手の中を示した。そこには一本の藁が握られていて、どうやらこれと何かを交換してくれ、と言ってきているようである。
馬鹿馬鹿しくて、武官は相手にもしなかった。そんな武官になおも青年は笑みを浮かべて言ったらしい。『交換しよう』と。
「そのただならぬ様子に青年を
武官は矢を射掛けることができなかった。瞬きをひとつした間に武官の手の中から弓矢は消えていて、代わりに藁が一筋だけ握られていたのだ。
では弓矢はどこに、と周囲を見回せば、武官が手にしていたはずである弓矢は青年の手の中にあった。キリキリと引き絞られた矢じりの先が己の心の臓に向けられていることを覚った武官は、当初の心意気はどこへ放り投げたのか、悲鳴を上げなら
「その後、噂が近衛府内で回ったらしくてな。何人もがその『交換しよう』という鬼に挑みに行ったんだが、誰が行っても結果は同じらしいんだ」
剣の名手が行った。薙刀の名手も、名のある鎧の持ち主も。だが全員が全員、鬼の『交換しよう』という言葉を聞い時には自慢の武具を失っていた。
「と、いうわけで、俺が出向くことになった」
「待って。意味が分からない」
サラリと、実にサラリと告げられた言葉に、敦時は牛車に乗せられてから二回目となる『待った』を口にした。正直言って、ちょっとめまいがしてきた気がする。
「何回でも言うけど、これ陰陽寮と近衛府が解決に当たるべき事件だよねっ!? 何で近衛府の手に余るからって君の所に回ってきてるのっ!? 最近の近衛府の人間馬鹿なのっ!? 何で自分達が守るべき帝の血筋におわします久木宮親王にこの事件回しちゃったわけっ!?」
「俺から手を挙げたんだ。用事があって宮中を出歩いている時に、偶々噂話をしていた近衛府の人間に行きあったから」
「だから……っ!! 何でそういうこと……っ!!」
「八日後、帝が
突然変わった話題に敦時は目を
この話題を口に出した瞬間、時臣の目が据わった。何か余程腹立たしいことか、苦労したことか、……とにかく何かがあったらしい。
「陰陽寮から話は聞いてる。日が良い日を選べって言われて、
「行き先は知っているか?」
「確か神泉苑……あ」
「そう、神泉苑だ」
時臣が何に腹を立てているのか分かった敦時は思わず口をつぐむ。だがユラリと動いた時臣の怒気はそんなことでは収まらない。
「『外で花見をしたい』なんて
「そ、そもそも、人死が出てるならその時点でもう御幸は取りやめた方がいいと思うんだけども……」
「やめるとなるとやめるで色々面倒くせぇんだよ御幸ってのは! 走り出した御幸は大抵のことじゃ止めらんねぇんだよっ!!」
御幸は決して走ることはないし、実際に走り出したらそれこそ一大事なのだが、そんな野暮な突っ込みを敦時は必死に呑み下した。時臣の言いたいことは、何となく敦時も分かるので。
「花の季節は短いんだ! 今回の御幸がご破産になったら花の季節の御幸はもうできない。そうなると『やれ、誰それがこんなことをしたから』だの『いやいや、誰それのこんな行動が悪かったんだ』だの、根拠もない噂が色々飛ぶんだ! 他の時期に延期ってなったらまたそれに合わせた衣装の用意だ物の用意だ人の調整だ何だかんだと面倒なことこの上ねぇんだよっ!! 御幸なんてサクッと決めてパッとやるに限るんだっ!! てかそもそもやらないのが一番なんだよっ!! 後宮の妃達も連れて行きたいとか何さらに面倒なことほざいてんだよあの色ボケ爺はっ!!」
「色ボケ爺って……」
今上帝に対して吐くには、あまりにもあれな罵倒ではないだろうか。いくら時臣が実子であっても下手をすれば物理的に首が飛んでしまいかねない。
──それだけ時臣が振り回されたってことなんだろうけども……
そんな時臣を、実父である今上帝も、東宮にある時臣の同母実弟も、懐刀として頼りにしている節がある。だから今上帝は話が難解であればあるほど時臣に持っていくし、東宮にも同じ傾向が見える。
よろしくない。本っ当によろしくない。
何よりよろしくないのは、本来ならば周囲に守られていて然るべき立場にある時臣自身が、そのことを一切気にすることなく、むしろ積極的に己から前に出ていることである。
「だから御幸がご破産になる前に、サクッと出掛けてサクッと片付けようと思ってな。グダグダ管しか巻いてない連中との無意味な会議をすっぽかしてお前を迎えに行ったってわけだ」
「サクッと……」
「俺とお前が出向けば、大抵のことはサクッと片付けられるだろ?」
そう語る時だけ、時臣の表情がわずかに晴れた。胡乱げに視線を向ければ、
「本当に鬼であればお前が」
同じ指は、次いで時臣自身にも向けられた。
「鬼以外のモノであれば、俺が祓えばいい」
そう語る時臣の顔は自信にあふれている。本当に心の底からそうできると信じて疑っていないという表情だ。
だから敦時はさらに溜め息を重ねる。
「あのね、毎回言ってるけど、僕はちょっと陰陽の術が使えるだけの引き籠りなんだってば」
「
「あのねぇ! 僕に与えられてる『蔵人所』っていう役職は、体よく僕の幽閉と陰陽寮所属を両立させるために冠してあるだけで、実際の所僕はそんな大層な人間なんかじゃないんだってばっ!! 僕より君の方が僕の事情には詳しいでしょっ!?」
「さぁて? どうだったかな?」
時臣が自分に都合のいい所だけ話をはぐらかした瞬間、一際強い揺れを残して牛車は動きを止めた。どうやら目的地である神泉苑の近くまで到着したらしい。
「着いたか」
はぐらかされたことに対する抗議を敦時が口にするよりも早く、時臣はさっさと立ち上がると
本来牛車は牛を外して前簾から降りるものなのだが、せっかちな時臣は『前から降りようが後ろから降りようが大して変わらん』と言って後簾から降りるのをやめない。
「……ほんっと君、そういうトコだから、ほんと」
なぜ、どこをどう切り取っても尊き生まれで、やんごとなき育てられ方をした親王殿下が、こう育ってしまったのか。
「何をしている敦時、さっさと行くぞ」
思わず一人頭を抱えた敦時を、再び後簾を跳ね上げて顔を見せた時臣の容赦ない声が叩いたのだった。
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