九 鈴の音
紬は、今朝見た夢を思い出していた。
私がまだ幼稚園に上る前、とても怖い夢を見た夜があった。どんな夢だったかは憶えていない。幼い私はそれが夢なのか、現実なのかさえ分からず、ただ泣いて起きた。常夜灯だけの暗い部屋は、私の恐怖を更に増長させ、混乱させた。冷たい暗闇が私を見つめている。とてもとても、深い所へ私を連れて行こうとしている。私の不安は膨れ上がり、自分の泣き声さえ耳に届かない。
程なくして、母が静かにやって来て、私を抱きかかえ、頬と頬を合わせてあやしてくれた。それでも私の中で膨れ上がった不安は拭えず、わんわん泣いていると、
「つむぎ、大丈夫。大丈夫よ、ほら」
と、言ってどこからか取り出した鈴を、リン、と鳴らした。
「ほら、鈴の音が、悪い物を追い払ってくれるわよ。それにね、魔法の言葉があるの、紬には内緒で教えてあげる」
リン、と優しく鳴る鈴の音と、母の暖かい声が重なり、あんなにも膨れ上がった恐怖も不安も、次第に消えてなくなった。
随分大きくなってから、昔話をするように父にその事を話すと、母は私がお腹の中に居る時に、よく鈴の音を聞かせていた事を話してくれた。
それは、あやすと言うよりはまるで、なにかを祓いなにから守るようだったと。
紬は、両手にしっかり鈴を握りしめ、目を閉じたまま、祈りを捧げるように微動だにしない。
その間にも、黒い手は紬に覆い被さり巻き付いていく。
「紬!」
自分に絡み付く黒い手と格闘しながら、青い瞳の青年は叫ぶ。
最早、黒い塊となった紬からは、なんの反応も返ってこない。
「くそ、離せ。紬!つむぎ!」
自分自身も同じ状況になりつつあるが、それでもなお、呼び続ける。
リン
鈴の音が小さく響く。
すると、紬を覆っていた黒い塊が、怯むように動きを止める、と、次の瞬間弾け飛んだ。
なぜだかは分からない。根拠も理由も無い。
ただ、出来ると信じて。私にも。
不快な気配を出す柱を黒い手の隙間から見つめる、その眼差しにはもう、迷いも恐れも無かった。
柱に集まる黒い塊、それを吸うように柱に染み込んでいく。徐々に浮かび上がる、人の顔らしき影。その苦悶の表情は泣き叫んでいるようにも見える。
紬はその悲しみに、その苦しみに、そっと手を差し伸べるように右手を伸ばす。
家ごと響かせ、ひときわ大きな唸り声が上がり、巨大な二本の黒い腕が柱から出ると、紬目掛けて襲いかかる。
紬は静かに瞬きすると、人差し指と中指に挟んだ鈴で、ゆっくりと
「彼の物を祓い給え」
そして、すべてがとまる。
刹那、柱から大量の黒が吹き出し、部屋一面に広がり、視界が奪われる。右も左も、前も後も、上も下も、視界だけでなく感覚までもを奪い去る。
つむぎ?紬はどこだ?
視界を一瞬にして奪われ、青い瞳の青年は焦りに支配されかけた、その時、黒と黒の間に紬の顔が浮かぶ。
その眼差しはただ前を見て、力強く、けして諦めていなかった。
きっと、聞こえる。
すべての感覚が消えゆく中で、意識を一点に集中する。紬へ、紬が持つ鈴へと。
微かに音が聞こえた。小さな光となって。
「そこだ!」
青い瞳の青年は、渾身の願いを込めて、大きく広げた右手を、真一文字に振り払う。
大気を震わせ、無数の叫び声が響き渡った。
押し付けるような大きな音がしたかと思ったら、部屋を埋め尽くしていた全ての黒が、押し付けられたその反動のまま、勢い良く天へと登っていく。
全てが登り、次第に感覚が戻り視界も晴れる。部屋には紬と青い瞳の青年だけが残った。
そこはまるで悪夢から覚めた後のようだった。
薄汚れた天井、毛羽立った畳、襖は破れ、全てに薄っすら埃が被っている。目の前の柱は朽ち果てる寸前で、今にも倒れそうだ。その柱には、真一文字に大きな爪痕があった。
地響きがする。その音は徐々に大きくなって、家自体を震わせる。上から埃が落ち始め、振動が大きくなるに連れ、木片も落ち始める、終いには隣の部屋で梁が落ちた。このままでは、二人共家に潰されてしまう。
「危ない」
急激な変化で状況が飲み込めず、おたおたしていた二人の頭上に、梁が落ちてくる。咄嗟に青い瞳の青年を突き飛ばす紬。
「つむぎ!」
駆け戻ろうするが、木片が次々と落ちてきて二人を引き裂く。
逃げなくては。
慌てて振り返るが、後ろでも家の崩落が進んでいて、逃げ場を奪われる。
不味い、そう思ったその時、紬の頭上から今まで以上の太い梁が襲い来る。
「キャー」
頭を抱え両膝を付き目を瞑ったが、梁は一向に紬を押しつぶそうとはしない。
恐る恐る目を開けるとそこには、白銀の長い髪。小白だ。小白が落ちてきた梁を右腕で支えている。
「もう、大丈夫です。よく、頑張りました」
そう優しく微笑むと、左腕に軽々と紬を抱きかかえる。
「しっかりと掴まっていて下さい」
そう言い、右腕で梁を軽々といなし、崩落する天井の間を、階段を駆け上がるように登って屋根の上に躍り出る。
小白は両腕に紬を抱きかかえ、夜空を飛ぶ。
紬は言われるままに、両手でしっかりと抱きついている、視線の先には、琥珀色に輝く満月と瞳。
綿毛のように門の前に降りる、その間にも目の前の家は崩れていく。着いた時は、あんにも禍々しい存在感だったのに、今は何も感じない。
そうだ、楓は?
問いただそうと、後ろに立つ小白に振り返ると、その先の電柱に、体を預け横たわる楓の姿が見て取れた。
「楓!」
駆け寄り口元に耳を近づけると、静かに寝息を立てている。
無事で良かった。
そのまま楓の肩に抱きつき、顔を寄せる。
終わったのだ。
崩落する家の音の中、楓を抱きしめたまま、紬は安堵の涙を流した。
あれ?待って、あおは?
「つむぎー」
楓を抱いたまま、声のする方に向き直る、最早原形を留めていない家から、白い影がこちらに飛んでくる。
「良かった。無事だったんだな」
そう言い、青い瞳の青年が生まれたままの姿で、紬の前に降り立つ。一瞬の静寂。紬の顔は真っ赤に染まる。
「どうした?大丈夫か?」
青年は一歩前に出て。紬の目線にしゃがみ込む。
「キャー!」
先程とは違う種類の悲鳴と、良い音を奏でた平手打ちが、夜の街へ響き渡った。
後日、楓を除く私達3人は、春明堂に集まっていた。
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