転々として生々としたら魔法少女のマスコットだった

イツミキトテカ

第1話 逃亡者

 刑法 第百九十九条(殺人罪)

 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する



 昼のうだるような暑さがいまだ居残る夕暮れ時、河平子かわひらこヨウは自分でもどこに向かっているのか分からないまま、ただひたすら住宅街のアスファルトを走っていた。


 この時間、部活帰りの中高生や仕事帰りのサラリーマンがあたりを歩いているかと思ったが誰とも全く出くわさない。いつもそうなのか、今日だけたまたまそうなのか、彼には分からない。


 自宅の近所に数年前に新しくできた住宅街。同じ形の家々がクローンのように建ち並ぶ。夕暮れオレンジに染まりきったその景色から、どこからともなくカレーの匂いが漂ってきた。スパイスを自ら調合する本格的なcurryではなく、母親が市販のルーで作る具沢山ゴロゴロカレーの匂い。


(「誰かの帰りを待つ匂い、なんだろな」)


 自分の置かれた状況も忘れて、ヨウは懐かしい気分に浸っていた。家でヨウを待っている人はこの世にもういない。生きているうちに孝行しておけばと後悔しても後の祭り。


(「生きてたら、なんて言ったかな」)


 引きこもりに慣れない運動は堪える。りんごの芯抜きで抉られたような痛みを訴える横っ腹を片手であやしながら、ヨウはただただ走り続けた。


 十分かそこら走ったろうか。目の前のコンクリート塀の曲がり角にようやく人影を見つけた。


 それは犬を連れた老婦人だった。遠目にも品の良さを感じさせるその老婦人は、走ってくるヨウに気がつくと上品な愛想笑いを浮かべかけたが、すぐにその表情を一変させた。次の瞬間、暮れなずむ住宅街に絹を引き裂くような悲鳴が響き渡る。そして、老婦人はそのまま自分の声に押し返されるように道端にへたりこんでしまった。フリルまみれの服を難なく着こなすプードル(♂)が老飼い主を守るようにヨウに向かって勇猛果敢に吠えたててくる。


 そうなるのも無理はない。大柄な男が、手にサバイバルナイフを持って自分の方に走ってきたら、どんな人でもどんな犬でもきっとそうなる。世界がオレンジ色に染まりきり、おそらく一人と一匹は気付かなかっただろうが、そのナイフには赤黒い血の跡さえもあるのである。


 そりゃ、叫びもするし、吠えもする。


「そこの男、止まりなさいっ!!」


 背後から聞こえてきた緊迫した声に、ヨウは足を止め振り返った。警察官が一人、肩を揺らして立っていた。無線で何やら話しながら、鬼の形相でこちらに向かってくる。無線の内容はおそらく、犯人を見つけたという報告だろう。


 日々鍛錬を重ねる警察官(公務員) VS 引きこもり無職(無職)。


 追いつかれるのは時間の問題。ヨウは再び前を向いた。そこには牙を剥き、唸り続けるプードルとそれを抱きしめ小さな体をぶるぶる震わす老貴婦人がいる。そして、自分の後ろには警察官。


(「行くしかない」)


 ヨウは覚悟を決めた。刃物を握り直し、一人と一匹に向かって走り出した。その瞬間、老婦人の顔が恐怖に歪んだ。


「嫌っ、来ないで! お願い…ぃいやーっ!!」


 聞いた人の胸が切なくなるほどの悲痛な叫び。住宅街に二度目の悲鳴を響き渡らせながら、老婆はそのまま気絶した。プードルが悲しそうに鼻を鳴らし、主人の周りをウロウロしている。ヨウは白目を剥いた老婆に心の中で謝りながら、その横を颯爽と走り抜けた。


 少しして首だけ振り返ってみる。さきほどの警察官が老婦人を抱き起こしていた。介抱しながら恨めしそうにこちらに視線を寄越している。守るべきものがある公務員はこういうときに自由が効かない。その点、引きこもり無職独身天涯孤独は向かうところ敵無しと言っても過言でない。


 それにしても危機一髪。ヨウはごくりと生唾を飲み込むと、今にも弾けそうなふくらはぎに鞭打って腕をぶんぶん振り回し、無様に走って、走った。


 消えかかった「止まれ」の道路標示をボロボロのスニーカーで踏みつける。こうしてヨウはまんまと住宅街から抜け出した。



 ◇◇◇


 しかし、日本の警察は有能なのである。


「お〜い、諦めろよ〜。もう駄目だって〜。ほら、ナイフ置いて。手上げて。こっち来て」


 辺りはすっかり暗くなっている。懐中電灯の光が交差し、一人の男に狙いを定めた。羽虫がエネルギー補給とばかりに懐中電灯の突端に集っている。


 強烈な眩しさに、ヨウは目を細め思わず後退った。背中に何か硬く冷たい物がぶつかる。鉄の、鉄橋の欄干が、ヨウの出っ張った背骨を頑なに拒絶していた。これぞまさに背水の陣。


(「ここまでか…」)


 秋を告げる虫たちの声が、川の流れに乗って寂しげに聞こえてくる。ヨウは首だけ動かし、背後に広がるうす暗がりを、おそるおそる覗き込んだ。高さは20メートルくらいだろうか。ビルの高さにして7階くらい。うん、高い。しかし、ヨウは思い出した。水泳の飛込競技には20メートルという種目があったような気がする。


(「死ぬかな?」)

「死ぬよ?」


 ヨウの考えを見透かすように、熟年の警察官が懐中電灯を突きつけて言った。さっきから気怠い雰囲気を纏いつつ話しかけてくる警察官だ。ヨウを取り囲む他の警察官たちも、うんうんと一様にうなずいている。しかも、ヨウがほんの少しよそ見をしていた間に、彼らは着実に距離を詰めてきていた。


 気怠げな警察官は、隣の若い警察官に懐中電灯を渡すと、ヨウに向かってさらに一歩踏み出した。


「最近雨が降ってないだろ? そのせいで水量が少なくなってる。飛び降りたら死んじゃうよ〜? だからもう諦めろって」


 どこか気の抜けたその警察官の説得は、まるでヨウが家出した飼い猫で、ただそれを捕まえに来ただけだ、とでも言うような気安さがあった。少なくとも血のついたナイフを握りしめ、目を血走らせた大男に接する時の態度ではない。


 ヨウは思った。


(「このおっさん、きっと取調室でカツ丼食わせてくれるタイプの警察官だな」)


 だったらなんだ。だったらなんなんだ。ふと湧いた偏見に自分で自分に突っ込みをいれる。


 でも、妙に聞きたくなったのだ。引きこもり無職独身天涯孤独に加えて犯罪者となった今のヨウには怖いものなど何も無い。だから、無性に確認したい。そう思ったら、いつの間にか声が出ていた。


「捕まったらカツ丼食わせてくれますか」


 くたびれ熟年警察官は一瞬キョトンとしていた。そして、考えるように少し唸ると、うなじをぼりぼり掻きながら苦笑いした。


「ドラマの見過ぎだ」


 その瞬間、ヨウは不思議と満足した。良い最期だと思った。もうこの世に未練はない。それくらい満足していた。


 だから、勢いをつけて橋の欄干を飛び越えた。警察官たちが慌てふためくのが視界の端に入る。ヨウは心の中で謝りながら、腐りそうに茹だる残暑の風を身に纏い、真っ逆さまに落ちていった。

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