第72話 どんだけ好きなんだよ

 俺はすぐに飛び起きて、ミライから離れる。


 親指は真っ赤に染まっていた。


 血じゃなくてインクで。


 ミライが俺の指を押しつけていたのは、おっぱいじゃなくて朱肉だった。


「なにって」


 ミライは俺の態度の急変の意味がわかっていないのか、呆然としている。


「借金借用書に本人印を」


「だからなにやってんだよ!」


 ミライの横を見ると、すでに何十枚と紙が積まれていた。


 失明中の十分間、ずっとやられてたんだからそりゃそうだよね。


 他人に借金を背負わせるなんて、『人がゴミのよう』じゃなくて『ゴミのような人』じゃん。


「勝手に借金させるとか正気の沙汰じゃねぇぞ! 葬式にだけきて遺産をむさぼる親族よりたち悪いからな!」


「それは違います!」


 ミライにきっぱりと否定される。


 いや……違う要素がなにかあった?


「借金借用書だけじゃなく、スイン水の契約書もあります!」


「ミライはどんだけスイン水好きなんだよ!」


「でも誠道さんは言いました! 好きなようにしてくださいと! 非常に情けない言葉で!」


「それについては思い出さないで!」


 もはや黒歴史だから!


 あの情けなさは、俺の勘違いが生んだ化け物だから。


「どうしてですか? ひとつになりたいって、一緒になりたいって、誠道さんだって言ってたじゃないですか! ひどいです。私を弄ぶだけ弄んで」


「勘違いしてたからだよ! いや勘違いさせるようなことをお前がしてたからだよ!」


「もしかして、こんなことしなくても、そもそも借金は二人のものって、そういうことですか?」


「都合のいい解釈しすぎだろ」


「でも、まだこんなにあるんですよ?」


 ミライが持ってきていた鞄の中身を見せつけてくる。


 そこにはまだまだびっしりと紙が詰まっていた。


「俺にどんだけ借金させるつもりだったんだよ!」


 そんじょそこらの闇金会社よりヤバいことしてるよこのメイド。


「お願いします。私は、誠道さんと同じになりたいのです」


 ミライが目に涙を浮かべて、俺に縋りつくようにして懇願してくる。


「私はすべてを共有したいのです。一緒がいいのです。ですから、誠道さんが借金すれば、私たちは借金を背負うもの同士、ずっと一緒です!」


「そんなんで一緒になりたくねぇわ!」


 借金という言葉がなければ、ものすごくいいセリフ、恋愛映画のクライマックスばりのシーンなんだけどなぁ。


「誠道さん。お願いします」


「どれだけ頼まれたって無駄だ」


 俺は女の涙に負けず、きっぱりと断る。


「そもそも、『私は誠道さんと同じになりたい』から俺に借金させるのっておかしいからな。ミライが借金をすべて返済することが『私は誠道さんと同じになりたい』なんだよ」


 俺は借金なんてしてないんだから。


「じゃあ、誠道さんは私と同じになりたがっているんです!」


「俺が借金したがってるみたいに言うんじゃねぇ!」


「え? 違うんですか?」


「ここまでのやり取りをどう解釈したらその結論に至るんだよ!」


「誠道さんもやったじゃないですか。イツモフさん直伝のポジティブシンキングですよ」


「あれはただの希望的観測。実用性皆無なんだよ!」


「もう、ああ言えばこう言う。とにかく! そんなつまらない理論はどうでもいいので、私と同じ額の借金をして、私と同じ気持ちを味わうことで、私とひとつになりましょうよ」


「そのトンデモ理論を理解できる頭を俺は持ってないから、俺とお前が一緒の気持ちになることはないの」


「どうしてわかってくれないんですか。一緒に借金して一緒に気持ちよくなりましょうよ」


「俺も同じ気持ちだよ」 


 ……って、待てよおい!


「一緒に気持ちよくなりたいって、お前ついに借金することに気持ちよさ感じはじめたのかよ! やっぱり今すぐ依存症治しにいかなきゃ!」


「まったくもう、誠道さんのいくじなし」


 ミライは胸の前で人差し指同士をツンツンさせている。


「さっきまであんなにやる気に満ちあふれていたのに。いざとなったら躊躇して。私は覚悟していたんですよ」


 あのねミライさん。


 そうやって恥じらったって、やる気とかいう言葉使われたって、もう全然エロくもなんともないからね。


 だって全部借金の話だから。


「借金することを躊躇わなくなったら終わりだから!」


「ちっ!」


 この人、今舌打ちしたよ!


 ってことは確信犯だよ!


「しょうがないですねぇ。わかりました。じゃあこれまでに押してもらった分で我慢します!」


「全部、破棄だよ!」


「そんな、せめてスイン水だけはぁ」


「だからどんだけスイン水好きなんだよ!」

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