第二部
17
「──母さん」
「サイ、どうして邪魔をするの?」
「クインが怯えている。やめるんだ」
「サイ、……私の可愛いサイ。あなたは私の言う事を聞いていればいいの。何も気にしなくていいの」
「それじゃあ駄目だ。駄目なんだよ、母さん……」
「サイ……あなたは──。あぁ、サイ、私のサイ……」
* * *
いつもと変わらぬように季節は巡る。秋を迎え、少し肌寒い時期になると、サイは決まって思い出す事がある。それはいつまでも魂にこびりついて離れない、忘れ得ぬ思い出。
黄金の実りを見せる田畑を横目に、列をなして数台の荷馬車が進んでゆく。ガタゴトと車輪は大地を踏みしめて、遥かなる道を行く。馬車の中には多くの人間がいたが、その中に、瞑想をするように胡坐をかいて目を瞑っているひとりの男がいた。
男の名をサイ・ヒューレという。ゆったりとした白の道衣に身を包み、黒く艷やかな長髪を背中の位置で結んでいる。たまに、車輪が小石を踏んで振動が起こるが、サイは座して姿勢を崩さない。自然と同化しているかのように静かな男の存在に、周囲の人間は関心を持たなかった。
馬車が走り出してからどれほどの距離を走ったのかはいまいち理解し難いものであったが、御者の話では二日ほどで次の街に到着するとの事であった。過ごした夜を数えれば、今日中には第一の目的地へと着くのだろう。
長旅になる事は覚悟していたが、旅に入ってからの時の流れはとても緩やかで、サイは退屈に身を任せるように瞑想を続ける。周囲の人間達が欠伸の数を数える事に飽きた頃、ささやかな変化が訪れる。
サイは己の隣にある何かがもぞもぞと動くのを感じて、ゆっくりと目を開いた。視界の端に映るのは、見るからに怪しい茶色の物体。
中身を知っているサイとしては、それを物体と形容するのはどうかとも思ったが、傍目に見ても、毛布に
激しく布を揺らして、
サイは、なんのけなしに出てきた幼子の頭を撫でた。掌からサラサラと流れ落ちる薄茶色の髪は、細かく煌めく砂の束のようであった。ちゃんとした手入れがされている髪質は、大事にされていたという証でもある。
「調子はどうだ?」
「ううん……まだ熱い」
サイの言葉に反応して閉じられていた瞼が開かれると、宝石のように美しい黄金の瞳が零れ出る。幼子特有の舌っ足らずな喋り方と、寝起きという事もあいまってか、呟かれた言葉は激しく回る車輪の音に簡単に掻き消された。離れた位置にある他の同乗者には聞こえぬであろうか細い声であったが、近くにいたサイの耳にはちゃんと届いた。
「まだ少し掛かるようだ。向こうに着いたらしばらくは休めるだろうから、もう少し寝てるといい。無理に起きて具合が悪くなってもいけない」
瞼を瞬かせながらサイの言葉を理解した幼子は、ゆっくりと頷くと、安心したようにまた目を閉じた。
サイは幼子の顔が赤いので少し心配になり、額に手を当てる。サイのひんやりとした手は、幼子の熱くなった身体にとっても心地が良かったのか、幼子はサイの手を無造作に掴むと、枕代わりに抱きしめる。
「ふむ……」
寝息を立て始めた幼子を見ながら、サイはなぜこのような事になったのかを考えていた。幼子の名をアルマという。アルマは、縁あってサイがリーウという街で保護をした子供であった。
子供と言っても、アルマの年齢を正確に推し量ることは出来ない。サイの胸の位置よりも少しだけ低いアルマの身長は、十に満たない程度であろう。幼い時の体格は環境にも左右されやすいため、サイの見立ても正しいかどうかは定かではなかったが、そもそもアルマ自体が自分の正確な年齢を知らない為、それ以上のことは分からなかった。
(間に合った事は良かった。それ自体はこの子が天運に恵まれていたということだろう。だが、これより先はどう事が運ぶか……)
とある村にいたところをリーウの奴隷商に売られることとなったアルマ。その後、隠されていたアルマの持つ特異体質が発覚するが、奴隷商であるイズール商会の会頭、イズール・オブライエンが伝手を使い、導師の住まうグアラドラにまで話が流れてくる。そこで話を拾い上げたのが、グアラドラの導師、サイ・ヒューレであった。
話を聞いた時点で危機感を募らせていたサイであったが、イズールは理知的な人物であった。アルマの特異な体質を前にして取扱いに困ってはいたが、それだけで不当な扱いをすることもなかった。
結果としてアルマの命は繋がれた。運悪く有象無象の奴隷商に当たっていれば、アルマは簡単に処分されていたのであろう。この時代の子供の命は、驚くほどに軽い。
農村や辺境の地に産まれて大人になれるものは一握りだ。厳しい現実は誰の目にも映ることなく消えてゆく。サイが関われた事すらも、広大な大陸においては巡り合わせが良かったとしか言いようがない。
運の良し悪しで全てを語る気はないし、簡単に割り切れるものでもない。それでもすべてを受け止める性分のせいか、サイの苦悩が尽きることはなかった。
「
物思いに
日々の生業で鍛えられたであろう身体付きは戦士といった類ではなさそうだが、男を見て喧嘩を売ろうと考える人間がいないくらいには、威圧感を与える見てくれをしていた。男が口に出したジュージドは、サイとアルマがこれから行こうとしている村の途中にある街の名前であった。
「正確にはジュージドの先だな。それがどうかしたのか?」
「そうかそうか。あぁ、警戒しないでくれ、他意はない。いやな、俺はつい先日までリーウの北にあるセレアンという新しい村の開拓に駆り出されていてなぁ。やっとジュージドにいる家族のもとに帰れることになったんだが、その子を見ていたらうちの
少し照れくさそうに、男はサイの膝を枕にして寝ているアルマを見る。
「ほう、それはご苦労なことだな。リーウのさらに北となると、年中雪の積もる大地と聞く。最近はあんな厳しいところにまで開拓者が出向いているのか?」
「そうさ、王国の人間がどんどん増えているから、住むところが足りなくなっているらしいぜ。かくいう俺もその一人なんだがな。言い忘れていた、俺はタイザだ、よろしくな」
「サイ・ヒューレだ。しかし大変な事だな、開拓者となると、一年や二年ではきかんのだろう?」
「その世界に踏み込んでしまえば慣れたものよ。それにやっと家族を呼べるくらいには塩梅が整ってな、丁度迎えに帰るところなのさ。……ん?」
流暢に話していたが、何か気になることがあったのか、話の途中で言葉に詰まり、タイザは思案するようにサイの姿を眺めた。
「どうかしたか?」
「あぁ、もしかして
タイザの口から見知った人物の特徴を言われて、サイはどきりとする。
「白の導師というと、クインの事か。たしかに俺も導師だが、クインは今そんな所を回っているのだな」
「やはりそうだったか、こりゃあ縁起が良い。白の導師様はセレアンで病気になった人間を介抱して回ってたが、地に降りた女神様のようでたいそう人気者だったぜ」
「……なるほど、らしいといえばらしい、か」
近しい人間の元気そうな話を聞いて、サイは胸をなでおろすような不思議な気持ちになる。
「少ししたらセレアンを出て大陸を巡ると言っていたから、もしかしたらもういないかもなぁ。お、そう言ってる間にジュージドが見えてきたぜ。懐かしいなぁ、この匂い。どれくらい滞在するのか分からんが、導師様も楽しんでってくれ」
そう言い残し前に移動していくタイザの後ろ姿を見ながら、サイは土地の空気が少しだけ変化した事を感じる。
風が幌を打つごとに、隙間からは土地特有の匂いが流れ込んでくる。そんな中でもサイは未だに悩んでいることがあった。
ジュージドの先にあるサイとアルマの目的地が、アルマが生まれ育ち、悲しい別れを告げることとなった、アルマの故郷であったから。
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