解決
私達がタクシーで真理子さんのマンションに到着すると、既に正延さんが三十前ぐらいの男性と一緒にマンションの前で待っていた。
真理子さんのマンションは、単身世帯用の小綺麗な三階建てのセキュリティーのしっかりしたマンションだった。住所は聞いているが実際に訪問したのは初めてである。
エントランスホールに入るには、部屋番号を押してロックを解除して貰う必要がある。正延さん達も私が到着するのを待つしかなかった。
「一応、私達だけじゃどうにもならなかった場合のために、覆面パトカーで三人待機してます」
正延さんがそう言うと、マスターを見る。
「坂東君は下に待機していた方がいいんじゃ──」
「いえ、一緒に行きます。だって私も坂本さんと交流はあるもの。小春ちゃんが行くって言うから私も退院祝いで一緒に来たって言えば、別に不自然じゃありませんよね? 小春ちゃんが一人で行くなんて危険過ぎるわ」
絶対譲らない、という頑なな表情をしているマスターに苦笑して、正延さんは私に小さなボイスレコーダーを渡した。
「私達は円谷さんがロック解除してエントランス入る時に、そのまま一緒に坂本さんの部屋まで……部屋は何階ですか?」
「三階です、三〇三号室」
「じゃあ私が三階フロアまでご一緒します。部下は他の奴らを招き入れてから上がりますので。ああ、ボイスレコーダーはもうスイッチ入れてますので、そのままで。バッグに入れて、チャックは開けたままにしておいて下さい。出来れば鍵はかけられないようにして頂きたいですが、無理はしないで下さい。それと、中に被疑者がいた場合、刺激をしないようなるべく落ち着いた話し方を心掛けて下さい。誰かの発言でカッとなって、本来するつもりもなかったことをする人って言うのはかなりいますのでね」
「……はい、分かりました」
「坂東君もだよ」
「何だか以前も同じこと言われましたわ私。大丈夫です」
こまごまとした諸注意を受けてから、私がマンションの部屋番号を押した。
「──はい」
「あ、円谷です」
「……来てくれてありがとう。今ロック解除するわね」
少し経つと音がしてガラスの扉が開いたので、正延さん達と一緒に私とマスターはエントランスに入った。
エレベーターの上部がガラス扉になっているため、部屋から見える位置だといけない、と正延さんは階段から上がることになった。マスターとエレベーターで三階に向かいながら、中では緊張で一切話さなかった。
真理子さんの部屋の前で再度インターフォンを鳴らすと、すぐに扉が開いて真理子さんが姿を見せた。私は「こんばんはー」と挨拶をして、さりげなくバッグの中身を見せる。一瞬安堵の顔になった真理子さんには状況が伝わったようだ。
「ありがとう小春ちゃ……まあ、坂東さんまで?」
「どうもー。退院したって言うから私も一緒にと思ってついて来ちゃった。ワイン買ってきたのー」
とぱんどらの倉庫に眠っていたワインを見せた。勿論偽装用だ。
「あら、わざわざすみませんお気遣い頂いて。さあどうぞ」
大きく扉を開いて私達を部屋に案内する。ワンルームと聞いていたが、八畳位はありそうな広さで狭苦しさは感じない。
そして、一人の女性が入って来た私達を見て、一瞬驚いたような顔を見せた。三十歳前後だろうか。艶のある長い黒髪を後ろでまとめた、落ち着いた雰囲気の女性だが、顔を見ても葬儀場で会ったか記憶にない。まあ私は話もしていないので、受付にこんな人がいたような気もする、程度だ。ごくごく普通の、良くも悪くも印象に残らないタイプである。真理子さんの飼い猫であるパーシーを抱えて、果物ナイフをあてがってなければの話だが。
「……なんでハロルド様まで……」
と小声で呟くのが聞こえたが、とりあえず「真理子さん、これは一体……こちらの方はどなたなんですか?」などと驚きつつも怯える演技をした。間違っても既に刑事さんが待機しているなどと知られてはならない。ただ、怯えた振りをしても、私の表情筋が仕事をしてくれてたかは不明だ。
「この人が、私を轢き逃げした人みたい。巻き込んで本当にごめんなさい小春ちゃん。私が言う通りにしないと、パーシーの目を抉って足を一本ずつ切り落とすって言われて、もうどうしようもなくて……」
どうやらまともに見えるのは外見だけだったようだ。
「気にしないで下さい。真理子さんのご家族ですものね。──私を歩道橋の階段から突き落としたのも貴女ですか?」
「……そうよ」
「ひとまず話を聞きたいので、パーシーを離して頂けませんか? 私は約束通り来ましたし、両手が塞がっているのはご自身も不利でしょう?」
女性は黙ったまま私とパーシーを見て、パーシーをそのまま床に下ろした。ナイフは勿論持ったままだ。下ろされた彼は、何事もなかったかのように真理子さんのベッドに飛び乗って丸くなった。彼もタフだ。
「ありがとうございます。……では質問したいのですが、私をこちらに呼んだのは、私をまた害するためでしょうか?」
「……違うわ。別に私は人殺しじゃないのよ」
女性は顔を上げるが、近くに立っているマスターの方へは視線を全く向けないようにしているのが不自然に思える。
「この人には二度とぱんどらへ訪れないこと、あなたはぱんどらのバイトを辞めて、別の仕事場を探すという誓約をして欲しいの。要は坂東さんのそばからいなくなって欲しい、ということ。バイクで引っ掛けたのと階段の件は、嫌がらせのつもりで、本気で命をどうこうするつもりはなかったのよ。ただ、あなたはハムスターの死骸をポストに入れたり、直接手紙で辞めろと書いたのに全く動じてる様子もないし」
「それは何故でしょうか?」
「──あなた達がハロ……坂東さんの近くにいるのが相応しくないからよ」
「……は?」
真理子さんが変な声を上げた。パーシーが自由になったことで、ようやく本来の真理子さんに戻りつつあるようだ。
「相応しい相応しくないって、赤の他人が決めることじゃないでしょう? 坂東さんが決めることよ?」
「彼は優しいから、思ってても言わないだけでしょう? 坂東さんにはもっと彼に相応しい、美しくて完璧な女性がいるはずよ」
「それが自分だって言いたいの?」
女性はそんなバカな、と吐き捨てるように笑った。
「私なんか無理に決まってるでしょう? 坂東さんが薔薇なら私はそこらのぺんぺん草よ。でも、あなたも化粧が上手いだけのまあまあ美人程度だし、そっちは座敷童みたいなお子様じゃない。話にならないわ」
ほぼ初対面の人間にディスられるのもなかなか辛いものがあるが、別に自分を可愛いと思ったことはないので評価に対しての異論はない。
「……あのう、ご自身が付き合いたいとかでないのなら、何故たまたまマスターと接点がある私達を排除しようと?」
「うっかり身近な女で間に合わせようとしたら困るじゃない。坂東さんは誰にも文句が言えないぐらいの容姿端麗な女性をパートナーにする義務があるのよ。これだけ綺麗なんだから」
どうしよう。この人が何を考えているのかさっぱり分からない。単にマスターが綺麗だから、釣り合う女性がそばにいないと納得出来ないという話で合ってるだろうか? だとしても理解が追い付かないのだが。
「ただ、私も真理子さんも、マスターとはそういうお付き合いをしている訳じゃないですし、とばっちりもいいところですが」
「いつそうなるか分からないでしょうよ、近くにいるんだから。坂東さんは余り外に出る人ではないみたいだし、手近なので間に合わせようと思ったら危険でしょ?」
「……あのねえ、貴女が何を考えてるか私さっぱり分からないんだけど、当事者の気持ちが一切含まれてないってのが一番気持ちが悪いのよね」
ずっと黙って聞いていたマスターが口を開いた。静かに話しているが、目が怒りに満ちている。
「……っ」
「私が誰を好きになろうが自由だし、それを他人のあんたがとやかく言う権利がどこにあるの? 親兄弟でもないのにさ。それにそんなことしてくれなんて頼んだ覚えもないわよ」
「私はただ、完璧な人には完璧な人が対になるべきだと──」
「私は別に完璧ではないわよ? 引きこもりだし、女性と接するのも殆どの場合恐怖がまず先に立つわ。正直、社会不適合者なのよ。勝手な思い込みで幻想見ないで欲しいのよね」
「あの、その話し方……」
女性が口をあんぐりと開け、言葉を続けようとする。真理子さんが「あら、知らなかったの?」と驚く。
「坂東さんはゲイよ? ちゃんと年下の彼氏もいるんだから。私達の心配してるみたいだけど、性別からしてまず問題外なのよ」
「……え、やだキモい」
少し沈黙した後の女性のセリフがこれだった。
「無理無理無理! いくらハロルド様生き写しでもホモは絶対無理! リアル推しに尽くそうと思った私の努力は一体何だったのよ。マジ無理もうやだやだ気持ち悪い、ダメもう吐きそう……」
顔を真っ青にした彼女が、ナイフをテーブルに置きっ放しにしたままトイレに駆け込んだのを見て、私達は唖然として顔を見合わせた。
ゲーゲー吐いている音で我に返った私は、急いで玄関の扉を開けると、近くにいた正延さんが、静かに他の待機していた刑事さんと入って来た。
私達を見て尋ねる。
「……すみませんが、ハロルドってどなたですかね?」
「いや、私にはさっぱり。マスターは?」
「私は坂東虎雄で、ファーストネームなんてものはないわよ」
「二次元か何かかしら?」
私達が小声で話し合う中、吐いてもまだ顔色の悪い女性がトイレから出て来たところを、正延さん達が確保する。ナイフなどを証拠品として袋に入れた正延さんが、ボイスレコーダーを返した私に「部屋に入ってからの録音もありますし、後日何かあれば確認しますから、今は坂東君と円谷さんはお帰りになって結構ですよ。坂本さんには、被疑者が来た辺りのところから話を伺いたいので、もう暫くお付き合い頂きますが」
「分かりましたわ。──小春ちゃん、今夜は本当に迷惑かけてごめんなさいね。坂東さんも」
真理子さんが土下座せんばかりに頭を下げるのを止めて、ぎゅっと抱き締めた。
「真理子さんもパーシーも無事で良かったです。怖かったですよね」
「小春ちゃん……」
涙ぐむ真理子さんは、すっぴんでもやっぱり美人だと思った。
「何か……力抜けちゃったわ。ものすごく気負ってたのに」
マンションの外に出ると、マスターがぽつりと呟いた。
「私もです。でも流血騒ぎにならずに済んで良かったですね」
「……そうね。良かったわよね。──帰りましょうか」
「はい」
一連の騒動は、思った以上にあっさりと迅速に幕を閉じた。
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