暗雲
「小春ちゃん、お願いがあるんだけど」
マスターからそう頼み事をされたのは、土曜日の仕事の休憩の時だった。
「はあ、何でしょう?」
「申し訳ないけど、明日の休み、買い物に付き合ってくれないかしら?」
「え? 買い物? ネット通販でなく、外にですか?」
大抵の買い物はネットで済ませられるじゃな~い、と自慢気に言っていた引きこもりさんが、一体どんな気の変わりようだろうか?
「長年使っていたストレーナー……ああ、粉ふるいね、あとステンレスボウルとかケーキのデコレーション型とか、クリーム絞りの口金とか泡だて器なんかね、色々とガタが来てたり持ち手に錆が浮いて来たりしてるのよ。十年選手もいるからいい加減買い替えなきゃと思ってたんだけど、やっぱり自分で普段使うものだから、ネットで見るより直接持ったりして納得して馴染むものを選びたいじゃない? 大きな製菓材料の店って、電車で人の多い都心まで行かないといけないから気が進まなかったんだけど、どうしても騙し騙し使うのってストレスなのよ地味に。だから小春ちゃんもいる間に一緒に買いに行って全部交換したいと思って」
代わりに頼める両親はルーマニアだし、自分も表に出られるようリハビリはしたいものの、一人ではやはり怖いらしい。
まあマスターの破壊力のある美貌はマスクでも隠し切れないことは先日露呈したし、年を取って劣化したと思いたかった希望も潰えたことが分かり尚更なのだろう。美しい女性は自身の容色の衰えを恐れるものなのだろうが、マスターのように破壊力MAXに振りきれた美形の場合は、早く劣化して欲しいと望まなくてはいけないというのも、何というか世知辛いものがある。
どちらにせよ、こちらに親しい友人もいない、休みは家で本を読むかネットやテレビを見るぐらいの予定しかない私である。それにマスターの美味しいスイーツがストレスで美味しくなくなってしまったら、ちょいちょい頂いている私には大打撃である。
「別に予定はないので構いませんよ」
と若い女子としては些か残念な回答を返すしかないではないか。
「ありがとう! 買い物だけしてさくっと帰るから、戻ったら地元で何かご馳走するわね!」
「いえ、こちらこそいつもお世話になってますし、気にしないで下さい」
実は買い物の付き合いなどは大したことではないのだ。本当に心配していることは別にある。
「よし、と。これでメモして来たのは全部買えたわ。──あら小春ちゃん、大丈夫? 何だか少し顔色が悪いようだけど……」
「……いえ、大丈夫です」
翌日、落ち着いたベージュ系のカーディガンにジーンズ、防御のつもりのマスクに帽子を被り、更に伊達メガネまでして現れたマスターは、結果的に電車でも女子高校生たちの頬を赤らめさせ、街を歩けば多くの女性が振り返り、店員には必要以上に丁寧に時間をかけ梱包され、大概は私のような平凡ちんちくりんがそばにいることで恨みがましい目を向けられた。まあそれは想定内であったため特に問題ではなかったが、私が人が多いところに来るのが嫌な理由、それは地縛霊や浮遊霊、生霊がそれだけ沢山いるからに他ならない。人に酔うのではなく、幽霊に酔うのである。
ぱんどらにいるような陽気な地縛霊だけなら楽なのだが、多くの霊が集まれば、それだけ明暗があるということなのだ。悪霊になりかけの負の念が強い人もいれば、意思疎通が出来ないタイプの霊もいる。それらと視線を合わせないようにするだけでかなりの労力を強いられるのである。結果的に、地面に視線を向けていることが増える。
地縛霊ならこの辺から動けないからまだいいが、浮遊霊などに捕まり、うっかり家やぱんどらに連れ帰ってしまえば、また勘の鋭いマスターのゾワゾワが増えてしまう。ただでさえ苦労の多い人なのに、それは流石に可哀想である。私も表に出せない苦労があるのである。
「疲れたわよね。本当にごめんなさいね。早く帰りましょう。タクシーの方が歩かなくて済むから楽よね」
マスターが心配そうに私の顔を見つめ、大通りでタクシーを捕まえようと歩き出した。そこへ、
「……あら、坂東さん!」
と女性の声が聞こえ、私も顔を上げた。
見ると、早足で近づいて来るのは、先日病院で出会った坂本さんと呼ばれていた、ひろみさんの元恋人とほにゃららな関係にあった女性である。まあもうひろみさんは別れているし、現在は元恋人と彼女も上手くいってないとか聞いていたので関係ないのだろうが。ブランドショップの袋を持っているのを見て、彼女もショッピングで来たのだろうと推測する。
「こんなところで会えるとは思ってませんでしたわ! こちらには何かお買い物で?」
顔を上気させ、嬉しそうに話しかけて来る姿は、やはり華やかさをたたえた美人である。通りすがりの男性もチラチラと見ていく人が多いので、きっと普段からモテる人なのだろう。
「──ええまあ。ひろみさん、回復して良かったですわね。それじゃ」
私から見れば不快さを隠し切れていない声音で頭を下げると、マスターは私と大通りへ向かおうとした。
「そんなこと仰らないで。せっかくですし、そこのカフェでお茶でもいかが? ──そちらのお嬢さんも」
ああ、ガン無視ではなかったのね、と少しは感心した。まあ邪魔者なんだろうなとは思うけれど。
「いえ、こちらも用事がありますので」
「じゃあ、また改めてはいかがですか? ひろみの快気祝いということで。私、人とのご縁は大切にしたい人間ですの。あ、連絡先は伺えないようなので、私の連絡先を……」
名刺を取り出そうとする彼女に、「結構です」と冷ややかなマスターの声がした。
「快気祝いならひろみさんとしますし、別にアナタとする必要はないでしょう? それに、私の友人が具合悪そうなの見て分かりません? よくカフェ云々とか言えるわね。こっちは長々と引き留められて迷惑なのよ。私は人への思いやりがある人とのご縁は大切にしたいですけど、アナタにそれを求めるのは無理そうですものね」
口をあんぐりと開けている彼女にマスターはにっこり笑う。
「もう声はかけないで下さいね。それでは失礼致します」
ほら行くわよ、歩けないぐらい具合悪くなったらすぐ言うのよ、と私に話しかけながら呆然とした様子で立っている坂本さんを置き去りにするマスターに、「大丈夫ですかあんなきついこと言って」と小声で囁いた。
「何がよ?」
「一応、ひろみさんの会社の同僚さんですし……ひろみさんにとばっちりが行ったら申し訳ないじゃないですか」
「でも、ひろみさんもお世話になった会社だけど、これからもあの二人と顔を合わせるのかと思うと鬱陶しいから、これを機に転職を考えてるって言ってたでしょ。それに失礼極まりないじゃない。小春ちゃんが具合悪いのを無視して何がご縁よ。病院で一度会っただけじゃないの、冗談じゃないわ。あーやだやだ」
「いえそれはそうなんですけども」
やたらとご機嫌の悪いマスターをなだめながら帰路に着いた私だったが、後日ぱんどらへ現れたひろみさんからの報告で、何やら暗雲が立ち込めるのを予感し、頭を抱えるのだった。
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