第18話 目覚め
『かいくん。かいくん。かいくん。』
誰かがぼくを呼んでいる。
ふわふわとした優しい声で。
『かいくん。かいくん』
「かい、かい」
目を覚ますと、そこは見慣れた自分の部屋だった。
横から母が声をかける。
いまだに状況が理解できない。
「なんで…お母さん…」
母はものすごく悲しげな顔をして涙まで流している。
「かい…なんで…」
「なんで…?」
「なんで海になんて入っていったの…」
ここでだんだんと昨日のことを思い出してきた。
ぼくは昨日、神栖の海に行った。
そこでそらちゃんに会って。
そらちゃんは水平線へと歩いていき、消えた。
「昨日…海で…」
そう言いかけたとき、母が強い力でぼくを抱きしめた。
「ほんとに…心配したんだからね…」
母の声は震えており、涙をぽろぽろ流している。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
それから、しばらくは母は涙を流し続けていた。
ぼくは、神栖の海でそらちゃんと再会した。
ぼくにしか姿が見えてないとしても、間違いなくあの場にそらちゃんはいた。
七年前と変わらない優しさで、ぼくを待ってくれていた。
ある日を境に図書館に来なくなったのも、ずっとあそこで待っていたからかもしれない。
そらちゃんと再会した日から、いままですっかり忘れていたはずのそらちゃんとの思い出をはっきりと思い出すことができる。
それが七年前のことだとしても、しっかりと。
目が覚めると、まぶしい光がさしていた。
ぼくは昨日、海に入っていき溺れていたところを、タイミングよく通りがかった管理者の男性に助けられたらしい。
母のところに警察から連絡が入り、母がぼくを家まで帰してくれた。
ぼくは探していた海にたどり着き、そらちゃんと再会できた。
だが、まだやり残していることがあった。
"思い出の海"にあるはずの神栖の海の写真を見つけることだ。そして、陽太のお姉ちゃんで、そらとの友人だった月菜さんに会うこと。
ベッドからでて、リビングへと降りて行った。
「あら、おはよう」
母はいつものように声をかける。
「うん、おはよう」
準備を済ませて、家をでる。
今日は、なんとなく青井さんの家に行くべきだと思った。
日差しも強く、少し暑いが、秋が少しづつ近づいているのがわかる。
肩にかかっているバックには"思い出の海"が入っている。
しばらくして青井さんの家に到着した。
玄関に取り付けられているインターホンを押す。
すぐに声が聞こえてくる。
『はーい』
「突然すみません、大野です」
『あらっ、かいくん!今開けますねっ』
インターホンがきれ、少し間を開けてからドアが開いた。
「かいくん、いらっしゃい、どうぞ」
ぼくは軽く頭を下げて、入っていった。
廊下を抜けてから、リビングに入ると、そらちゃんの遺影に軽く目を通してから椅子に座った。
青井さんはぼくの前にお茶を置いてから、席についた。
「青井さん、突然お邪魔してすみません」
青井さんは笑顔で手を横に振った。
「いいのよいいのよ、いつでも大歓迎だからね」
「ありがとうございます。今日はそらちゃんのことで少しだけお話がしたくて」
ぼくは、昨日そらちゃんにあったこと、そらちゃんの青井さんへの想いをすべて伝えたかった。
「昨日、そらちゃんにあったんです」
もう七年も前に亡くなった人に会ったなんて、だれも信じないだろうと思うが、青井さんは優しい笑顔のまま頷いていた。
「ちゃんと、お話できたかな」
「はい、長い時間は話せなかったけど、そらちゃんにいろいろなことが聞けました」
そらちゃんは、本当に家族を大事にしていた。
そらちゃんが亡くなったことを、青井さんに自分のせいだと思ってほしくなかった。
「その、青井さんに、思い詰めてほしくないんです」
青井さんは静かにぼくの話を聞いている。
「そらちゃんのことは、青井さんのせいじゃないって、だから自分を責めないで
欲しいって。ぼくとそらちゃんから伝えたいことです」
青井さんは目が少しうるんでいるが、どうにかこらえているようだった。
「かいくん…そらはほかに…なにか言ってた?…」
そらの言葉が頭をよぎる。
『かいくんにお願いがあるの。私の家族に、私のことを自分のせいだと思ってほしくないの。だから、そのことを伝えてほしい。ずっと大好きだよって』
「ずっと、ずっと大好きだよって」
ぼくの言葉に、青井さんは少し涙をこぼした。
だけど、それは悲しい涙じゃなくて、幸せの涙のようにぼくには見えた。
「ありがとう…ありがとう…。最近は私泣いてばっかだね…」
涙を流しながらも、笑顔をみせた。
ぼくは青井さんが落ちつくまで、静かに待っていた。
「その、青井さん、ひとつお願いがあるんです。」
ぼくはここに来てから、ひとつ見ておくべきものを思い出した。
「お願いって?」
「前に見せてくれた、ぼくとそらちゃんの写真を少し見せて欲しいんです」
くうがそらちゃんと気づくきっかけになった写真を見れば、"思い出の海"のなくなった写真のことがなにか分かるような気がした。
「ええ、大丈夫よ」
そういって青井さんは奥の部屋に入っていき、前と同じ写真たてに入った写真をもっきてくれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
写真の中では、海を背に幼いぼくと笑顔のそらちゃんが並んで写っている。
「それ、ずっとそらが自分の部屋に飾っていたの。いまでは私の寝室に置いてあるんだけどね」
ぼくが、そらちゃんとの思い出を考えながら写真を見つめているときだった。
頭の中に、そらちゃんの言葉がひとこと浮かんだ。
『大事なものは写真たてに入れておくの』
「大事なものは…写真たてに…」
「かいくん?」
青井さんは不思議そうにぼくを見ている。
ひとつ、あることがぼくの頭に浮かんだ。
「青井さん、この写真…中から取り出しても大丈夫ですか…?」
「え…ええ、大丈夫だけど…」
「ありがとうございます…!」
ぼくは慎重に、写真たてを取り外し、写真を中から取り出した。
「やっぱり…」
「かいくん?どうしたの?」
ぼくの考えは当たっていた。
中に入っていた写真は一枚ではなかった。
ぼくとそらちゃんが写る写真と、もう一枚重なっていた。
ゆっくりと、後ろの写真をずらす。
「あった…ここにあったんだ…」
「それって…」
出てきたのは、海の写真。
真っ白な砂浜、太陽を反射して輝く水面、横に美しく伸びる水平線。
写真越しでも、目を奪うほどの海だった。
「神栖の海だ…"思い出の海"の最後の一枚…。ぼくとそらちゃんはこの写真で…」
この時、青井さんがぼくにいった。
「かいくん…これ…裏面はなんて…?」
「え…?」
青井さんは写真の裏面を指さしている。
「裏面…?」
ゆっくりと、写真を裏返してみると文字が書いてあった。
「これ…そらの字…」
青井さんの言うように、そらちゃんが書いたもののようだった。
ゆっくりと一文字ずつ読んでいく。
『私が、どれだけ遠くにいる存在でも。
私が、どれだけ離れている存在でも。
みんなからは見えなくても。
もし、私のことを忘れてしまったら。
そのときは。
そのときだけは。
きみと水平線を歩けたら』
視界は少しの涙でかすんでいた。
そらちゃんが残してくれたもの。
すごく、悲しかった。
けれども、それ以上に心は温かく、自然と笑みがこぼれていた。
「青井さん…そらちゃんは…ほんとうに優しくて…強かった…」
そらちゃんは多くのことをぼくに伝えようとした。
友人ではなく、まだ幼い自分に。
「そらちゃんは…ぼくにいろんなことを授けてくれました…」
青井さんは、ずっと優しい表情のままぼくを見守っている。
「そらちゃんがぼくに伝えたかったこと…あの頃はまだ分からなかったけど…今なら…今ならわかる気がするんです…」
ぼくは手に持った写真を離さず体を震わせている。
「青井さん…この写真…」
青井さんはぼくの言いたいことを理解していた。
「ええ、もちろんよ。かいくんが持っていたほうがあの子もきっと喜ぶわ」
「ほんとうに…ありがとうございます…」
母親である、青井さんが持っておくべき物なのはもちろん分かっていた。
だけど、そらちゃんの生きた証、そらちゃんが残してくれたもの。
それがぼくには必要だった。
ぼくは"思い出の海"を取り出し、写真を挟んで閉じる。
「貼ったら、裏面が見えないですからね」
ぼくと青井さんは顔見合わせて笑う。
青井さんは玄関までぼくを見送ってくれた。
「青井さん、突然お邪魔したのに、色々とありがとうございました」
頭を深く下げる。
「うんうん、いいのよ、娘が帰ってくる時以外はひとりだからさみしいの。だからいつでもまた来てね」
「はい、ありがとうございます。では、お邪魔しました」
改めて頭を下げてから、外にでた。
なんとなく空を見上げる。
いつもと変わらないはずの景色だが、今のぼくには不思議と新鮮なものに感じた。
太陽がいつもより優しく暖めてくれるし、鳥の鳴き声がよく聞こえる。
色々なことを感じながら、足は自然と図書館へと向かっている。
図書館にはすぐに到着して、中に入る。
ドアが開くと同時に、カウンターにいる未来さんと目が合った。
「こんにちは」
未来さんは、そらちゃんみたいににっこりと笑ってくれる。
ぼくは未来さんに近づいていき、軽く頭を下げながらいう。
「こんにちは。未来さん、"思い出の海"のこと、ありがとうございました」
未来さんがいなかったら、ぼくが"思い出の海"を見つけることはできていなかった。
「ふふ、いいのよ。ちゃんと見つけられてよかったわ」
未来さんは、ぼくのいつもの席の方へ目を向けた。
「あそこの席、そらのお気に入りの席だったの」
ぼくは、今までずっとそらちゃんのお気に入りの席で本を読んでいた。
この時は、驚きよりも、喜びが勝っていた。
そらちゃんが、ぼくのお気に入りの席に座っていたという事実が、なんとなく嬉しかった。
「そうだったんですね」
ふと、笑みをこぼしながら視線を落とした時に膨らんでいるお腹が目に入る。
ぼくの目線に気づいた未来さんがお腹をさする。
「たまに、ぽこってするのよ」
「中で、遊んでいるんですかね」
未来さんが、ぼくの手をとり、お腹に触れさせた。
「どうかなぁ?」
手を止め、じっと待っていると、ぼくの手を中からポコッと叩くのを感じた。
「あっ」
「ふふっ、してくれたねっ」
すごく不思議な感覚だが、どこか幸せな気持ちになった。
「私はもうすぐ産休に入っちゃうから、この子が生まれたら会いに来てねっ」
「もちろんですっ、楽しみにしてます」
未来さんはにっこりと微笑みカウンターへ戻っていった。
ぼくも、いつもの席に向かっていく。
椅子に腰かけ、一息つく。
「そらちゃんのお気に入りの席だったんだ」
そらちゃんも、かつてここに座っていた。
そのときは、どんなことを考えながら、どんな本を読んでいたんだろう。
そらちゃんも、ぼくと同じ景色を見ていたのかな。
窓の外に目を向けながら、ずっとそんなことばかり考えていた。
しばらくしてから、後ろの本棚から一冊の本を取り出しページをめくる。
ふとした瞬間に、もう一度窓の外を見る。
青空に大きな雲が浮いている。
「そらちゃん…お父さんと会えたのかな…」
そのとき、青空が一瞬きらりと光った。
それが何なのかは分からなかったが、ぼくにはそらが何かしたんだろうと、そんなふうに思えた。
ひとりで軽く微笑んでから、ぼくはもう一度本に目を落とした。
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