第32話 広野星行

 瀧さんにメールを送ってから数日後、弁護士さんと会うことになった。

 こんなに早く僕の希望に沿った弁護士さんを見つけてくれるとは思わなかったけど、瀧さんは何年もの間僕に『恩返し』する機会を待っていただけあって、相当気合を入れて探してくれたらしい。


 まずは弁護士さんと電話で話してざっくりとした依頼内容などを確認し、その後、高瀬さんとも連絡を取って顔合わせの日程を調整する。

 百合香ちゃんを同席させるかどうかについては、弁護士さんも高瀬さんも僕に一任するということだったので、連れて行くことにした。

 というか、百合香ちゃん本人が行く気満々だったからだけど。


 百合香ちゃん、初めて会った時からずいぶんと精神的に強くなった気がする。

 心の傷が多少なりとも癒えて、本来の性格が出てきたのかもしれない。


 皆の予定をすり合わせたその日、僕たちは都内の弁護士事務所を訪れていた。

 ごく普通の雑居ビルのワンフロアが事務所になっており、中は意外と広い。

 通された応接室の椅子に、僕と広瀬さんは百合香ちゃんを挟むようにして座った。


「いやどうもどうも、お待たせしてすみませんね」


 出されたペットボトル入りの水を飲んでいると、初老の男性が入ってきた。

 顔も体も丸く、薄くなった髪をぺたりと七三分けにしている。

 見た目はどこにでもいる普通のおじさんという感じだった。


「えー初めまして、丸茂まるもと申します」


 僕たちは立ち上がり、順番に挨拶を交わしてから席に着く。


「それではね、改めて依頼内容を確認させて下さい。まずは親権者変更調停。それが成立した後は、広野さんと百合香さんの養子縁組でよろしいすね?」

「はい」

「では頂いた資料を見ながら経緯を確認していきますのでね、違う所や補足があればその都度教えてくださいね」


 弁護士の丸茂さんは、手元の紙を見ながらこれまでの経緯を辿っていく。

 どうやら、僕が文章にして瀧さんに送ったものをプリントアウトしてあるらしい。

 僕は所々で補足の説明をし、高瀬さんと百合香ちゃんは丸茂さんの質問に答える形で過去のことを詳しく話していった。

 丸茂さんは聞き上手というか、要所で的確に話を聞き出してはメモをしているようだった。


「うん、これなら問題ないかな」


 僕たちの話を聞いた後、丸茂さんはこともなげにそう呟く。

 仕事に対する自信を滲ませる訳でもなく、淡々と事実を確認するかのように。

 そこには百戦錬磨のプロが持つ、確信のようなものがあった。


「岸辺羽田乃さんは娘の百合香さんを虐待しており……百合香さんはそれに耐えかねて、元父親の高瀬さんの家に避難していた。高瀬さんは元妻の羽田乃さんに対して扶養の意思なしと判断し、親権者変更調停を申し立てた、と。こんなところですかね」


 スラスラと語られていくそれは、整えられた「シナリオ」だった。

 かなりの部分が事実と異なる。

 しかし、現状をありのままに説明するとややこしいことになるので、こういう形にしましょうね、ということなんだろう。


 そう、親権者変更調停に関しては、僕という存在は必要ない……というか、むしろいない方が都合がいいいいのだ。


「私は……何か準備しておくことはありますか?」


 高瀬さんもそれを理解したのだろう、丸茂さんに対してそう質問していた。


「そうですね、必要なモノはもう提出して頂きましたから……後は、ご自宅に百合香さんのお部屋があるといいですね。部屋が難しければ、レンタルの寝具だけでも構いません。調査官に話は通しておきますけどね、形だけでも調査は必要ですから。百合香さんを保護しているという体裁を整えておくことがね、肝心ですので」

「わ、わかりました」


 高瀬さんは慌ててメモを取っていたけど、僕は丸茂さんの発言に気を取られて、それどころではなかった。


 今この人、「調査官に話を通しておく」って言わなかった?

 しかも「形だけでも調査は必要」って……つまり、調査官に対して真っ当にこちらの意見を訴えるんじゃなくて、後ろから手を回すってことなのでは……?

 というか常識的に考えて、そんなことが可能なんだろうか?


 そこまで考えて僕は、眼の前の人物が瀧さんの紹介でここにいるという事実を思い出した。


 何年も僕に恩返しをするために待ち続けていた彼が、「絶対に勝てる弁護士を探して欲しい」という僕の要望に対してどういう形で応えてくれたのか……

 なんとなく背後で大きな何かがうごめいているような気がして、僕はそこで考えるのをやめることにした。

 この弁護士さんが振るう力が限りなく黒に近いグレーだったとしても、今はなりふり構ってなどいられないのだから。


「あの……百合香ちゃんは最初怪我をしていたんですが、今はもう治ってしまって、虐待の証拠みたいなものがなくなってしまったんですが……大丈夫なんでしょうか」


 なんとなく、この先生に任せておけば間違いないだろうという予感はしていたけど……それでも不安なものは不安なので、僕も質問してみる。


「ええ、それは全てこちらで調査します。学校や地域への聞き込みなどね、本来ならそれなりに時間がかかるんですけどね……瀧さんからの熱心なお願いですので、最優先でやりますから。早い方がいいですよね?」

「はい、それはもちろん」

「調査に必要な人員やお金に関しては、全て瀧さんに持って頂くという取り決めになっていますのでね、ご心配なさらず」


 どうやらこの人と瀧さんはそれなりに親しい間柄らしい。

 もしかしたら、普通に依頼しようとすれば結構なお金を積まなければならないような人なのかもしれない。

 僕は頼もしさと同時に、知らず知らずのうちに大きな借金をしてしまったかのような感覚を覚えて軽く身震いした。

 いや、実際は貸しを返して貰っただけということは、分かってはいるんだけど。


「親権者変更調停に関してはこんなところですね。もう一つのご依頼は……その後の養子縁組についてですね」

「はい」


 丸茂さんにとっては既に、親権者変更調停がうまくいくことは確定事項らしい。

 他に質問がないことを確認すると、さっさと次の依頼へと話を移してしまった。


「こちらについては高瀬さんと広野さんの間で合意が成されているので、特に問題はありませんね」

「あ、そうなんですか?」

「はい。問題なく養子縁組できますよ」

「……ええと、すみません。一つ質問なんですが、独身男性は養子を迎えられないといった話を耳にしたことがあるんですが……」


 問題ないと言われて少し拍子抜けしてしまったけど……せっかくなので僕は、疑問に思っていたことを聞いてみることにした。

 百合香ちゃんを養子に迎えると決めたのは本当につい最近のことだから、あまりその辺りを詳しく調べる時間がなかったけれど、どうも独身男性は養子を取ることはできないといった話があるらしい。


「ああ……それは特別養子縁組のことですね。たまに普通養子縁組と混同されている方がいらっしゃるので、それを耳にされたんでしょう」

「特別……ですか?」

「ざっくりと簡単に説明しますと、特別養子縁組は実親と子供の親子関係を完全に断絶させるんです。あ、実親というのは血の繋がった肉親のことですね。子供の扶養義務を持つ者が養親……養子縁組をする相手だけになるので、その分、条件が厳しいんですね」

「……ということは、普通養子縁組の場合は実の親と子供の親子関係がそのまま?」

「その通りです。子供は実親と養親の二つの親子関係を持つことになりますからね。そのためこちらの条件はそれほど厳しくありません」

「なるほど……」


 そういうことだったのか、と納得はできた。

 しかし親子関係を断絶する特別養子縁組をするメリットなんてあるのか……?

 そう考えた時に頭に浮かんできたのは、百合香ちゃんの母親、羽田乃さんだった。

 虐待を受けている子供を親から切り離すためには、特別養子縁組のような制度も必要なのかと気づく。

 まあ幸い、今回は高瀬さんという協力者がいたのでハードルが下がった形になる。


「まあ、親権者を変更してすぐに養子に出すというのは少し珍しいですし、百合香さんは未成年ですから、家庭裁判所の許可が必要になります。その辺は私がうまくやっておきますが……」


 丸茂さんはそこで、意味ありげに僕の顔を見た。


「……失礼ですが、広野さんはご結婚のご予定は?」

「いえ……特には……」

「お仕事は何をされています?」

「書店でアルバイトですが……一応、近いうちに正社員になる……と思います」

「それは結構ですね。ただ、子供の扶養という点で考えると、個人的にはご結婚について考えることをお勧めしますね」


 丸茂さんから告げられたのは、意外な言葉だった。

 「個人的には」と言ってる以上、養子縁組の成否には関係ないことだろうけど……

 結婚かあ。


「ご存知かもしれませんが、親一人で子供を育てるのは大変です。子供を養うためには働かなければならない、しかし働き詰めで子供に十分な愛情を注いでやれない……そういった葛藤があります。更に、子供が病気や事故の時は仕事を休まなければなず、それが長期間になれば収入が減り、生活そのものが成り立たなくなります」


 それは確かにその通りだと思う。

 そして、そういった問題を緩和するためにはパートナーがいた方が有利だということもよく分かる。

 分かってはいるんだけど……いかんせん、相手がいないのが現状で。

 いや、真っ先に頭に浮かんできた最適な人物がいることはいるんだけど……それはさすがに……うーん。


「まあ、あくまでいた方がいいだろう、というレベルの話です。お一人で立派に子供を育ててている方も大勢います。あくまで個人的な助言に過ぎませんので、あまりお気になさらず」


 僕が真剣に悩んでいる様子を見て、丸茂さんはそう締めくくった。

 もしかしたらこの人にも、思わずそういった口出しをしたくなるような過去があったのかもしれない。


「いえ、アドバイスありがとうございます。前向きに……考えてみます」


 だから僕は、密かな決意を胸に抱きながらそう答えた。


 それから僕たちは、委任契約書にサインをして事務所を後にした。

 これでもう他にすることはなく、後は全て弁護士さんがやってくれるらしい。


 ただ、今回は間違いなく調停は不成立となり、審判へと移行するから、それなりに時間がかかるだろう、ということだった。

 半年から一年くらいは覚悟しておいた方がいいらしい。


 僕は、その間に自分にできることを考えようと思った。

 隣を歩く百合香ちゃんと手を繋ぎ、彼女の幸せを一番に願いながら。

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