第28話 広野星行

 突然、バンと大きな音を立てながら扉を開けて現れたのは、僕より少し年上くらいの男だった。


 頭のサイドを刈り上げて頭頂部は金髪という、いかにもな髪型。

 細い眉、ピアスに口髭と、ガラの悪そうな要素を取り揃えている。

 上下揃いのスウェットを着ているその姿は、昔のヤンキー漫画からそのまま出てきたかのようだった。


 恐らく、というか間違いなく、こいつが百合香ちゃんの新しい父親である、喜則という男なんだろう。

 外出中だという話だったのに……まさか、外で聞き耳を立てていたのか?


「テメー、捜索願出したって言ってたよなぁ!?」

「あなた……痛っ!」

「舐めやがってクソが!」


 喜則は駆け寄る羽田乃さんを思い切り突き飛ばした。

 羽田乃さんは壁に背を打ち付けて、ずるずると座り込んでしまう。


「ちょっと、暴力は……」

「お前かぁ! 百合香をさらったのはよお!」


 慌てて立ち上がった僕に、彼は大股で詰め寄ってきた。

 右手はポケットに突っ込まれていたが、それが引き抜かれた時には、折りたたみのナイフが握られていた。

 パチリとそれが開かれると、果物ナイフなどとは比べ物にならないほどゴツくて大ぶりな刃がギラリと姿を見せる。刃渡りは……十センチ以上はありそうに見えた。


 僕がナイフに気を取られている間に、彼は一気に距離を詰めて来ていた。

 いかつい顔が間近に迫り、アルコール臭がぷんと鼻をつく。

 見た目には出ていないけど、かなり酒を飲んでいるらしい。


「この人さらいがぁ! さっさと百合香を返せやコラ!」


 大声で恫喝すると同時に、ナイフをぐいっと僕の顔に近づけてきた。

 刺すつもりはないのだろうけど、酔って手元が狂う可能性は十分にある。

 恐怖を感じた僕はほとんど反射的に、ナイフを持つ彼の手を両手で掴んでいた。


「ちょっと! やめてください!」

「テメ、離せ!」


 ナイフを遠ざけたい僕と、腕を掴まれたことに激昂する喜則の間で、滑稽な押し引きが始まった。

 僕の頭は命の危機が迫っているという事実にようやく気づいたのか、一気に脳を興奮させて普段以上の力を出させてくる。

 一方、相手の喜則はアルコールで麻痺しているのか、相手を刺すかもしれないなどという気遣いの一切ない激しい動きで僕を振り回す。


 だから、のは時間の問題だったのかもしれない。


 ソファに足を引っ掛けてもつれ合った僕たちは、勢いよく床に倒れて転がった。


「いてて……」


 目を開けると、仰向けに寝転がった僕の上に、マウントポジションのように喜則が馬乗りになっている。

 最悪だ、と思ったのも束の間、彼の様子がおかしいことに気づいた。

 いつの間にか、その手の中からはナイフが消え失せている。

 それがどこに行ったのか、下から見上げている僕にはすぐに分かった。


 ナイフは、彼の首の横に刺さっていた。

 かなり深く刺さっているように見えるものの、奇跡的に太い血管や神経をすり抜けているのか出血もなく、喜則が痛みに苦しむような様子もない。


「あ……?」


 しかし、ナイフを探していた彼は、視界の端に写ったそれにようやく気づいた。

 それに手を触れて、それが自分自身に突き刺さっているということを確認して。


「……ふざ、けんなあああ!」


 僕に刺された、とでも思ったのだろう。

 いかにも喧嘩慣れしていなさそうな、下に見ていた相手から手傷を負わされて、プライドが傷ついたといったところだろうか。


 彼はさっきまでとは比べ物にならないほどに怒り狂い。


 自分の首に刺さったままのナイフを掴んで、無理やり引き抜いた。


「あっ」


 止める暇もなかった。


 奇跡的なバランスで刺さっていたナイフを、怒りに任せて強引に引っこ抜いたりすればどうなるか。

 周囲の筋肉や神経、太い血管などがザクザクと切り裂かれることになる。

 傷口から尋常ではない量の血が吹き出したのは、当然の結果だろう。


 僕はボタボタと降り注ぐ血の雨を浴びながら、思わず両腕で顔を覆った。

 目に血が入らないようにするため……ではない。

 喜則が、自分が今どうなっているのか気づいてすらいない様子で、そのナイフを振り下ろしてきたのが見えたからだ。

 どん、と左腕に鈍い衝撃が走る。

 続いて、冷たいような熱いような、嫌な感覚が左腕に広がっていく。


 刺された。

 そう気づいた時には、既に彼は再びナイフを振り上げていた。

 二度目の攻撃も、どうにか両腕で防ぐ。


 しかし……三度目はなかった。

 喜則はナイフを振り上げた格好のまま、糸が切れた人形のように、ぐにゃりと後ろに倒れていく。

 首からの急激な出血で意識を失ったのか、あるいは切れてはいけない何かが切れてしまったのか。

 がらん、と床に重いナイフが転がる音が響いた。


 嫌な静寂が広がった。

 ひどく乱れた呼吸の音だけが、やけにうるさく感じられる。

 どうにか上体を起こした僕の目に写ったのは、白目をむいて血の海に倒れる喜則と、その奥で立ち尽くす羽田乃さんの姿だった。


「きゅ、救急車、を」


 枯れたような僕の声が引き金になったのか。


「いやあああああぁぁぁ!!」


 羽田乃さんは凄まじい叫び声を上げると、転がるように部屋を飛び出していった。


 何か。


 何かを考えなければいけない、ということだけが頭の中をぐるぐると回っていた。

 あまりにも突然過ぎて、あまりにもあっけなさ過ぎた。


 とにかく、まずは。

 そうだ、まずは、立ち上がろう。


 いいぞ。そうして、一つずつ、思考を元に戻していくんだ。


 じんじんと痺れていた両腕が、徐々に熱を持ち始めている。

 右腕は比較的傷が浅いけど、左腕がひどい。

 幸い、出血はそれほどでもなく、動脈は傷つけられていないようだ。


 そうして、回らない頭でなんとか自分の状態を確認していると。

 慌ただしい足音とともに、部屋の入口に再び羽田乃さんが姿を現した。

 救急セットでも持ってきたのだろうか、などと考えていた僕は、自分の平和ボケした思考を呪うことになった。


 彼女はその両手に、白いセラミックの包丁を握りしめていた。


「殺してやる……!」


 ああ、人ってこういう時、本当にドラマみたいなことを言うんだな。

 ……などと、現実逃避気味に考えていた僕は、羽田乃さんの血走った目を見て一瞬で我に返る。


 たぶんその時僕は、本物の殺意というものを生まれて初めて向けられていた。

 美しい顔が見る影もないほどに歪み、瞳孔の開いた目がギラギラと輝いている。

 ゾワッと、背中に冷たいものが走る。


 冗談じゃないぞ。

 僕は明日、百合香ちゃんを迎えにいかなきゃならないんだ。

 こんなところで、殺されてたまるか。


 気圧されないようにと、生存本能がそうさせたのか。

 僕の心の中では逆に闘志が燃え上がり、生き延びるための行動を最適化させる。


 僕が床に落ちていたナイフに飛びつくのと、羽田乃さんが飛びかかってくるのは、ほとんど同時だった。

 僕は中腰の姿勢でナイフを掴み取ると、間近に迫る羽田乃さんに向けて無我夢中で突き出す。

 手か腕を切りつけてやれば、包丁を取り落としてくれるかもしれないと、本能的に考えたのだろうか。

 しかし、羽田乃さんが突進してくる勢いは僕の予想を越えていた。


 彼女の両手に握られた包丁はあっさりと僕の胸に突き刺さり――


 べきん、と折れた。


 「――――ッッ!!!?」


 鮮烈な痛みが胸の中心に走った。


 痛い。痛い。痛い。

 腕を刺された時はあまり痛みを感じなかったのに、どうしてこんなに。

 あまりの痛みに一瞬意識が飛びそうになった僕は、体ごと覆いかぶさってくる羽田乃さんの重みを支えきれずに、押し倒される形で再び床に転がった。


 慌てて彼女の体を押しのけて、距離を取ろうとするが――

 羽田乃さんは、さっきまでの動きが嘘のように、ピクリとも動かなくなっていた。


 何が起きたんだ?


 混乱する僕を無視するみたいに、彼女の体からじわりと生ぬるい血が滲み出て、床と僕の体の上に広がっていく。


 大量の血。

 右手で握りしめたままのナイフ。

 僕に覆いかぶさったまま動かない体。


 彼女を引き剥がして仰向けにすると、胸の中心から、血が止めどなく溢れていた。

 僕がデタラメに突き出したナイフが、運悪く心臓を貫いたのだろう。


 そして僕は――

 自分の胸に指を這わせて、激痛に顔をしかめる。

 僕は運良く、胸の太い骨に刃が突き刺さって……衝撃に弱いセラミックの包丁の方が折れてしまったのか。


 少なくとも、僕はまだ生きていて。

 他の二人は、今はピクリとも動かない。

 それだけが事実らしい。


 違う。

 違うんだ。

 そんなつもりはなかった。


 頭の中でいくら弁解しても、眼の前の現実は何も変わらない。


 二度目の静寂だった。

 今度はもう、それを破る者は僕以外には誰もいない。


 怪我をした所が無視できないほどの痛みを訴え始め、極限の興奮状態が続いたせいか頭痛が酷く、辺りに立ち込める生臭い鉄のような臭いが吐き気を誘う。

 僕の体は上から下まで血のプールに浸かったようにぐっしょりと濡れており、腰を上げると早くも凝固し始めたらしい誰のものとも区別のつかない血液が、床とズボンの間で粘つくように糸を引いた。


 僕は返り血でレンズに模様がついた伊達メガネをむしり取るようにして投げ捨て、ぼんやりと辺りを見回してから、机の上に置きっぱなしだったスマホを手に取った。


 画面のパターンをなぞり、ロックを解除する。

 するとそこには、百合香ちゃんの写真が表示されていた。

 真剣に本を読む彼女の写真の上に、たった今自分がつけたばかりの、這った蛇のような血の跡がのたくっていて。

 大事なものを冒涜してしまったかのような罪悪感に、叫び出したいような気分になるのをぐっと堪える。


 僕は写真のアプリをタスクから消して、通話アプリを立ち上げ、一、一、九と番号を入れた。


「……救急です。人が二人、血を流して倒れていて……三、四十代くらいの男女です。首と胸から血が出てます。あと、僕も腕と胸を怪我してて……住所は……」


 それが終わると次に、警察に電話を入れる。


「ええと……たぶん事件です。なんて言えばいいのか……ちょっと刃物で刺し合うみたいな感じになっちゃって……救急車は呼んだんですけど。住所言うんで来てもらえますか? ちょっと……電話だとどう説明すればいいか分からないんで……」


 正直、疲れていた。

 たった今起きたことを、客観的に説明できる自信がなかった。

 まだ何か喋っている相手を無視して通話を切り、スマホをその辺に放り投げて、僕は外に出ることにした。

 血の臭いがひどくて、その場に留まっていたくなかったのだ。


 家の外に出ると、ようやく呼吸ができたような気がした。

 それでも吐き気は止まらず、体のあちこちが痛くて気分は最悪だったけど。


 辺りはすっかり夜になっていた。

 羽田乃さんの悲鳴を聞きつけて外に出てきたのか、近所のおばさんが遠くからこちらを窺っていたので、軽く会釈をすると、ヒッと小さな声を上げて小走りで逃げ帰っていった。


 僕はブロック塀に背中を預けて、空を仰ぎ見た。

 そこには、眩しいほどに輝く月があった。

 凄惨な景色を見た後だからだろうか。

 僕はそれが、ひどく現実離れした美しい宝石のように思えた。


 そういえば、百合香ちゃんと夜一緒に歩いたのは、旅行に行った時だけだった。

 あの時は、月は出ていなかったような気がする。


 こんな綺麗な月を見たら、あの子はどんな顔をするだろう。


 写真を取って、友花に送ろうとするかもしれない。

 でも、スマホで撮った月の写真は肉眼で見たものよりずっと小さく映るから、おかしいなって首を傾げるかもしれない。

 僕はそんな彼女を見て笑って、彼女もきっと笑顔を返してくれて……


 本当に、こんな綺麗な月を一人で見るのはもったいない。

 百合香ちゃんと一緒に見れたら、どんなに良かったか……


 ――ああ、そうか。月が綺麗っていうのは、こういうことなのか。


 僕は遠くに響くサイレンの音を聞きながら、そんなことを考えていた。


 いよいよ順番が来たらしい。

 まったく、どうして、こんなことになってしまったんだろう。


 いや、そんなことよりも。


 今はただ、無性に百合香ちゃんの声が聞きたかった。

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