第14話 広野星行
きちんと話し合いをしたおかげか、あの日から百合香ちゃんの態度が少し柔らかくなったような気がする。
僕に対して遠慮がなくなってきたというか、距離が少し縮んだというか。
何にせよ、良いことだと思う。
最初の頃に怯えられていたことを考えれば、大きな進展だ。
顔が良かったから連れて来たなんて最低なことを、思い切って話した甲斐があったというものだ。
……いや本当に、嫌われなくてよかった。
ご機嫌を取るという訳でもないけど、百人一首の本を二冊ほど、お土産に買って帰ることにした。
競技かるたの本と、百人一首の詳しい解説の本だ。
百合香ちゃんは今、歌を暗記するために頑張っているらしいので、その助けになればと思って買ってみた。
ただの文字列を暗記するよりも、歌の意味を知った方が覚えが早いだろうし。
無駄遣いをしないという約束をしたばかりだけど……これは無駄ではない、はず。
帰宅して本を渡すと、百合香ちゃんは思っていた以上に喜んでくれた。
特に、歌の解説の方をじっくり読んでいるようだった。
思いの外読むペースが早くて、夕食までの時間で読み終えてしまったほどだ。
「百合香ちゃんは百人一首でどの歌が好き?」
夕食のハンバーグを食べながら、何気なく聞いてみる。
初めて手作りのハンバーグに挑戦してみたけど、なかなか中心まで火が通らなくて、少し焦げてしまった。
「んー」
百合香ちゃんは箸を置いて、床に置いてあった本を見始めた。
食事中に本を読んではいけません……なんて、古臭いお説教をするべきかどうか、少し悩む。
僕だって百合香ちゃんが家に来るまでは、スマホで動画とかを見ながら食べるのが普通だったしな……
でもまあ、一応衛生面での意味はあるから、注意はしておこうかな。
「ごめん、僕から聞いといてアレだけど、食事中は本を読むのはやめようか。床に置いてあったものを触った手でご飯を食べると、菌とかウィルスとか、口の中に入っちゃうかもしれないから」
「はーい」
素直に聞いてくれてほっとした。
甘やかすのは簡単だけど、しつけるのは難しい。僕の心情的に。
子育ての経験なんてないから、もし言うことを聞いてくれなかったらどうすればいいのか分からない。
そういう意味では、百合香ちゃんをここまで素直な子に育ててくれた両親はすごいんだなと思うけど……
そんな母親が、どうして自分の娘を虐待するようになってしまったのか。
人の心は難しい。
百パーセントの悪人なんてそうそういないし、逆もまたしかりだ。
そもそも僕は百合香ちゃんの話の中でしか、彼女の母親がどういう人物なのかを知らない。
一方的な意見を聞いただけで動いている現状は、もしかしたらまずいのではないかという気持ちが湧いてくる。
実は百合香ちゃんが言うほど彼女の家庭環境はひどいものじゃなくて、僕は間違った方向に全力で突っ走ってしまっている……なんて可能性だってある訳だ。
もちろん、百合香ちゃんが身の危険を感じて二度も逃げ出したという事実は深刻に受け止めるべきだと思うし、僕も最悪の状況を想定したからこそ、彼女を自分の家に置き続けるという選択をしたつもりだ。
でも、全てを
そんな風に考え事をしていたら、食事が終わっていた。
ハンバーグはまあまあ美味しかったと思う。焦げもそれほど気にならなかった。
焼くのは意外と難しいということが分かったから、次回は煮込みにしようかな……などと考えていると。
「これ。さっきの」
「ああ、どの歌が一番好きかっていうやつね」
食後のリラックスタイムに、百合香ちゃんが本を開いて見せに来た。
どの歌がいいか、しばらく吟味していたらしい。
見てみると、それは六十一番目の歌だった。
『いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな』
春の歌だ、ということは真っ先に分かった。
ごちゃごちゃしていない、すっきりとした分かりやすい歌に見える。
「これねえ、偉い人に急に詠めって言われて、その場で詠んだんだって。それでね、昔と今と、八重桜と九重で対比させてるんだって。すごくない?」
「へー、そういう歌だったんだ。これを即興で詠むのはすごいね」
まあ、昔の逸話というのは脚色されるものだから、本当に即興だったかどうかは確かめようがないけど。
それでもこの歌の構成の美しさは見事だし、解説を読んでみると、新参者の作者が晴れ舞台で見事に一発かましてやったという爽快さも感じられる。
「においぬるかなってすごい言い方じゃない? 綺麗に咲いているっていう意味なのに、匂いなんだよ。遠回しっていうか。すごい格好いい」
「すごいねえ」
百合香ちゃんのテンションが、普段よりマシマシになっている。
この解説本を気に入ってくれたみたいでよかった。買ってきた甲斐がある。
「じゃあ、ほしゆきさんはどの歌が好き?」
「僕かあ」
百合香ちゃんに言われて、僕は解説本をペラペラと捲ってみた。
なんだか恋の歌が多いな。
昔の人も現代人とあんまり変わらないのかなという気持ちになる。
正直な話、恋というのは僕にはよく分からないんだけど。
「僕はこれかな」
ページの最初の方で目に止まったから、というのもあるけど、僕が開いて見せたのは、十二番目の歌だった。
『天津風 雲の通ひ路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ』
簡単に言えばこれは、踊り子の美しさを賛美する歌だ。
眼の前で踊っている美しい踊り子を
美しさを称える歌なのに、いきなり風に呼びかけるのが予想外で格好いいし、
僕がそんなことを百合香ちゃんに説明すると、彼女は「ふーん……」と生返事をしながら、解説をじっと読み耽っていた。
なんだかリアクションが薄いな……あんまり共感されなかったかな。
そう思いながら、僕も百合香ちゃんの後ろから、もう一度解説を読んでみる。
……いや、ちょっとこれ……待てよ。
歌の中の「をとめ」というのは、未婚の少女たちのことだ。
収穫を祝う儀式の翌日、宴の後に舞楽を披露するのが、五人の少女たち。
その少女たちの姿があまりに美しいから、天に帰るまでの時間を少しだけ引き伸ばしたい、もう少しだけ見ていたい……と、そんな意味がある。
深読みし過ぎかもしれないけど、この歌、今の僕の状況に似ていないか?
僕は百合香ちゃんが家に連れ戻されないように、もう少しだけ見守りたいという気持ちで、この家に住まわせている。
彼女の美しさをもっと見ていたいという気持ちも、確かにある。
なんというか、この歌が好きだって百合香ちゃんに言うのは、自分の気持ちを歌に代弁させているみたいで、めちゃくちゃ恥ずかしいことなのでは?
本から顔を上げた百合香ちゃんが、ちらっと僕の方を見てきた。
いや……大丈夫。そこまで深読みはしないだろう。たぶん。
「……ほしゆきさん」
「はい」
何故か敬語になってしまった。
心なしか背筋も伸びている。
「今日のハンバーグ、美味しかったよ」
「あ、どうも」
「ご飯食べてる時も言ったけど、聞こえてなかったみたいだから」
「えっ、それは……ごめん」
「いいよー」
百合香ちゃんはにっこりと笑って、他のページを読み始めた。
話をそらされた……という訳でもないのかな?
よく分からないけど、足をパタパタさせている百合香ちゃんは機嫌が良さそうに見えたので、とりあえず良かったということにしよう。
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