メリーゴーランド

春雷

メリーゴーランド

 僕はメリーゴーランドは寂しい乗り物だと思う。確かに一見煌びやかだ。でもそれに乗っていてもどこへも行けないし、馬と馬との距離は縮まらない。まるで僕らみたいだ、とか、そんなことを思う。

 2人の距離は縮まらない。彼女と僕は一度だけ触れ合った。2人でメリーゴーランドに乗った。でも彼女は降りて、どこかへ行ってしまった。

 青春の一瞬の煌めきだと言われると、確かにそうかもしれないと思う。当時の僕には嬉しく、今の僕には辛い、そんな思い出だ。

 あれは夏の日のことだった。


 僕は高校生になり、それなりに楽しい学校生活を送っていた。部活では結果を全然出せなかったし、勉強もあまりできなかったが、友達はまあまあいたし、日々新たな発見があった。

 そんな高校生活も2年目になり、学校生活にも慣れてきて、新鮮さは失われていった。

 僕はかなりの頻度で学校を休んでいた。僕は学校が好きだったが、どうやらあまり得意ではないようだった。ちょっとしたことで体調を崩した。体育祭を休んだこともあるし、中間テストを休んだこともあった。修学旅行も体調を崩した日があって、ホテルで一日過ごしたこともある。僕が彼女と話したのは、その修学旅行中だった。

 僕がホテルの部屋で1人、ベッドで寝ながらラジオを聞いていると、ノックの音がした。先生だろうかと思い、僕はドアを開けた。

 隣のクラスの、葵という女の子だった。

 僕は彼女の存在を知っていた。とても可愛かったからだ。可愛い子というのは男子の間でよく話題に上がるものだ。僕はそうしたゴシップ的な話題は好きではなく、あまりそういった話には参加しなかったが、それでも彼女のことは知っていた。僕も何度か彼女の姿を目にしたことがあり、確かに可愛いと思った。でも僕はとても地味な人間だし、きっと彼女と関わることは一度もないのだろうなと思っていた。

 そんな娘が僕の部屋に訪ねてきた。

 どうして?

 皆は今頃自由行動をしているはずだ。彼女は何故ここにいる?彼女も体調が悪いのだろうか。

 いや、そうだとしても何故僕の部屋に来る?

 様々な疑問が頭の中を去来した。

「中、入っていい?」彼女はそう言った。彼女の声を聞くのは初めてだった。とても美しい声だと思った。僕は彼女の声を聞いて、空気の澄んだ森を連想した。

「ど、どうして」僕はとても渇いた声でそう言った。緊張で口の中がカラカラだった。水が欲しいと思った。

「1人で部屋にいるのも退屈で」

「君も体調悪いの?」

「そんなとこ」

 僕には彼女が体調を悪そうにしているようには見えなかったが、何にか事情があるのかもしれない。僕は彼女を無碍にすることができず、もちろん断る勇気などなく、彼女を部屋に入れることにした。

「顔真っ赤だけど大丈夫?」

 彼女を部屋に入れた後でそう言われた。おそらく顔が赤かったのは体調の悪さだけではないだろう。

「大丈夫だよ」

 僕はそう言ったが、彼女は訝しげな顔をしていた。

「寝てなよ」と言ってきた。

「いや、でも」

「話を聞いてもらうだけでいいから」

 そこまで言われると、僕には反論ができない。僕はきっと押しに弱いというか、気が弱いのだ。ベッドで寝て彼女と話をすることにした。もちろん彼女はベッドの横に椅子を持ってきて、そこに座っていた。

 色んな話を聞いた。彼女の今までしてきた習い事、楽しかった家族旅行の話、面白い先生の話、愉快な友達の話、苦手なクラスメイトの話・・・

 僕は彼女の話にただ相槌を打っていた。緊張と体調の悪さで、頭がぼうっとしていた。彼女の話も聞こえるような聞こえないような、そんな感じで聞いていた。

 ふと沈黙が流れた。僕は少し気まずい感じがして、何か話題を探したが、特にいい話題は見つからなかった。女の子にどういった話題を提供すれば良いのだろう?僕は中学が男子校だったということもあり、それまで女の子と話したことがあまりなかった。

 ラジオが2人の沈黙を埋めた。流行りのポップスが流れていた。

「私この歌好き」彼女が言った。

 その瞬間僕もその歌が好きになった。彼女が好きなものは全部僕も好きだという気がした。

 僕は彼女の横顔を見た。

 今にして思えば、彼女は鏡の方を向いていたので、僕が彼女の顔をじっと見つめていたことは、バレバレだったろう。

 彼女は鏡の方を見たまま、言った。

「私、転校するの」

「転校?」

 あまりに唐突すぎて、僕は最初その言葉の意味するところが理解できなかった。

「うん、お父さんが仕事で転勤するから、海外に引っ越すことになったの」

「海外」

 今回の修学旅行で初めて県外に出たような田舎者の僕には、海外という言葉は、天国と言われているのと一緒だった。遠い。あまりに遠い。

 僕の想像力では及ばないほどに。

「もう君とはいられないの」

 僕は熱に浮かされて、柄にもないことを言った。普段なら別の言葉を使うだろう。でもその時はあまりに頭が混乱していて、心の奥深くで思っていたことを口に出してしまった。口に出した後で、しまったと思った。耳が熱くなった。

「うん」彼女は言った。少し俯いて。

 僕は泣きそうになったが、堪えた。恥ずかしさとか悲しさとか、何か色々な感情で、心がぐしゃぐしゃになった。

 彼女とは今日初めて話したというのに、そんな気がしなかった。

 密度の濃い時間が流れた。

 僕は時が凍ってしまったのかと思い、枕元の時計を見た。秒針はいつも通り仕事をこなしていた。

 また沈黙が降りた。ラジオでは聞いたことのないクラシックが流れていた。

 どのくらいの時間が経ったのか、もはや定かではない。1分のような気もするし、1時間のような気もした。1年や10年のような気さえした。やがて彼女が口を開いた。

「ねえ、キスってしたことある?」

 彼女はちらりと僕の方を見てそう言った。彼女の瞳に驚いた僕の顔が映っていた。澄んだ、綺麗な瞳だった。僕は彼女の瞳の中を泳ぎたいと思った。

「ないよ」慣れない話題に、僕はぶっきらぼうにそう言った。

「そう」彼女は言った。

 沈黙が流れた。クラシックはクライマックスに入ったようだった。

 突然だった。

 彼女は僕の名前を呼んだ。

 そして僕にキスをした。

 唇と唇で。

 甘いような酸っぱいような、そんなキスだった。もはや興奮で全ての感覚が麻痺し、僕は何も考えられなくなっていた。

 胸がいっぱいになった。

 心が、体が、一体になり、眼前に宇宙が広がった。世界は僕の中にあり、美しい銀河さえもが僕の所有物だった。花や木や小鳥たちが僕を祝福した。世界は僕のためにあった。

 彼女は唇を離した。瞳には顔を真っ赤にした僕の顔が映っていた。

「またね」

 彼女はそう言って、部屋を出ていった。

 音楽はとっくに止んでいた。


 あれから彼女は海外の学校に転校した。僕はついに彼女と話す機会を持たなかった。僕と彼女は修学旅行のあの日以来、結局会うことはなかった。成人式にも、同窓会にも彼女は現れなかった。聞くところによると、彼女は結婚したらしいと聞いた。今は子どもの世話で忙しいという。

 今でも時々あの日の出来事について思い出す。あれは本当にあった出来事なのだろうか。無意識の欲望が創り出した幻想なのではないか。熱に冒された頭が映写した夢なのではないか。

 でも僕はそう思いたくなかった。きっとあれは本当にあったのだという気がした。


 メリーゴーランドを見るたびあの日の出来事を思い出す。僕は結局彼女の背中を見ていただけなのだ。彼女の揺れる髪をただ見ていた。メリーゴーランドは煌びやかに、優雅に回るだろう。彼女はやがてメリーゴーランドを降り、違う乗り物に乗っていってしまった。僕は1人残された。僕は今でも同じところを廻り続けている。どこにも行かず、どこにも行けず。僕は彼女を追いかけるべきだったのだ。おそらくそうだろう。そんな考えに至る時、僕の胸は苦しくなる。あの日の思い出が辛いものになる。

 僕はずっと後悔するのだろう。そして愛おしく思うのだろう。

 僕のメリーゴーランドが止まるまで。


 

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