第26話
私は自分が指定した駅で
着飾ったいまの私を見たら、
白のブラウスは普段から愛用しているが、今日は袖にフリルが付いている。
フレアスカートはおとなしめだが、普段から繊維を脚に密着させている身としては、下半身の風通しがよすぎて
パンプスや小さなハンドバッグも普段は身に着けていない。
理の前では気恥ずかしさもあり、地味な格好しかしないため、いまの私は普段の自分に比べれば格段にお洒落だ。
理に申し訳ない気持ちにすらなる。
私は
さすがに七月ともなれば暑い。
仕事だから仕方ないことだが、この暑さの中、好きでもない男を二十分も待たなければならないと思うと、我ながら愚かしい作戦を立てたと思う。
しかし理が無謀で無茶な作戦を取りたがるから仕方ない。
結局、自分がこの状況にいるのは理のせいだと思い至り、さっきの申し訳ない気持ちを取り消すことにした。
この暑さにあっては、スカートも存外捨てたものではない。
不思議なことに、何かを理のせいにすると、私の感情の歯車は円滑に回りだすのだった。
今日という約束の日までの一週間、私は日暮匡についてひたすら情報を集めていた。
理のほうは日暮匡どころか、カノンについての調査すら
情報共有規定のせいで、結果として、私が一方的に日暮匡に関する情報を理へ渡す羽目になっているが、作戦自体は絶対に理の思うとおりにさせるつもりはない。
日暮匡の車が現れたのは、約束の時間の十分前だった。私はロータリーの縁沿いに歩み出て、日暮匡が私の前に車を停めるのを待った。
私の前に車が停まり、ドアを開けようとしたとき、私はふとあることに気がついた。
車体の下に発信器が取りつけられていた。きっと理が付けたものだろう。
しかし取りつけ位置が
きっととっさに付けたのだろう。いや、わざと見える位置に付けていたのかもしれない。
私は車のドアを開け、乗り込む際に発信器を蹴り落とし、その音を誤魔化すために、うっかりを
「大丈夫かね?」
「ええ、ごめんなさい。私は大丈夫です」
発信器が取りつけられていたことを、日暮匡には知られたくなかった。
これが理の仕業であることは明らかだ。理は日暮匡をあの手この手で精神的に追い詰め、彼がカノンに理自身を殺すよう仕向けようとしている。
私はそれを阻止したくて、ハニートラップという代替作戦を実行しているのだ。
「こんにちは。今日はよろしくお願いします」
日暮匡はいまのところ、私に対して好意を寄せてはいるが、まだ完全には私に気を許していないように思える。
私はできるだけ笑顔を意識して挨拶を送った。
「うむ」
そっけない返事だが、日暮匡という男においてはおそらく、これが通常の反応なのだ。
車が発進し、根気強く笑顔を維持していると、日暮匡が話題を振ってきた。
「
話題を振るくらいの気は利かせてくれるようだ。よかった。
もちろん、彼から話しかけてこなければ私から話しかけていたところだが、こちらから先に質問をするとなると、本命でない
私が日暮匡に対して探りを入れているのではないか、と。
「職業ですか? 経営コンサルタントです。最近、独立したばかりですけれどね」
他職業の知識を持っていても不思議ではない便利な肩書きである。
私は自分を
もちろん、とっさについた嘘ではなく、あらかじめ人物像を細かく設定して覚えておくのだ。
「ほう、バリバリのキャリアウーマンというわけだ」
「いえいえ、私なんか未熟者です」
「いやいや、なかなか様になっていると思うがね。若いながらに
「ええ、かまいませんよ。私は27です」
「それは意外だ。少なくともあと5歳は若く見える」
日暮匡にしては気の利いた
私の実年齢は25歳なので、3歳分は若く見てくれたということになる。
「そうですか? ありがとうございます。日暮さんはおいくつなんですか?」
「34だ」
「そうなんですか。日暮さんももっと若く見えますよ。誕生日はいつなんです?」
これは世間話のように見えて、実は私の本命の質問の一つである。
私はこの男の頭の中にある数字をできるだけ抑えておきたいのだ。
それは後々、とある事に役に立つ可能性があるからだ。
「11月29日だ」
「あ、私も11月生まれなんですよ。11月2日。奇遇ですね」
「うむ、たしかに。12分の1の確率だ」
もちろん、私の口にした誕生日はいま設定した偽物だ。あらかじめ岬美咲という人物像に細かい設定は用意しておくが、臨機応変に変更するようにもしている。
日暮匡が運命論者とはとうてい思えないが、そんな相手でも、こういう共通点の存在が多少なりとも好感を生むのだ。
「日暮さんは何のお仕事をされているんですか?」
「食品会社に
私は答えを知っている質問を投げ、そして知っている答えを受け取った。
「ははぁ、食品会社ですか? 食品会社はどこも大変だと聞きます。所属はどちらですか?」
「所属? この私の会社が分かるのかね?」
彼はいま、私のことを
もちろん、私の質問はうっかりではない。経営コンサルタントとしてはむしろ
「いえ、開発、製造、営業といった大まかな分類のことです」
「この私は品質保証部に所属している。日々、分析などをおこなっているよ」
「そっか、品質保証がありましたね。とても重要な分野です。私は日暮さんは開発の方だと予想していましたけれど、外れてしまいました」
再三言うが、私はすでにすべてを知っている。
それを知らなかったような口ぶりと表情で会話を弾ませ、私は日暮匡に実際には存在しない
「それは惜しかった。まあ、どちらも理系の就く部門で、やることも似たようなものだ。この私はとりわけ数学が得意でね。生み出す開発部門よりも、導き出す品質管理部門のほうが性に合っているのだよ」
「そうなんですか。数学では何がいちばん得意なんですか?」
私は
え? 数字を何に使うのかですって? 話の腰を折るのはご遠慮ください。この数字をどこで何に使うのかは後ほどお教えしますから。
「うむ、この私は円周率が好きでね。人が覚えていない桁まで覚えているぞ」
「へぇ、すごーい! 私、数字に強い人ってすごく尊敬します。円周率、言ってみてもらってもいいですか?」
円周率など聞いても無駄に思える。しかし、日暮匡がどこまでそれを覚えているかを確認することも、日暮匡から数字を引き出すことにつながるのだ。
「うむ、よい。では述べよう。3.141592653589385……と、この私が言えるのはここまでだ」
「あー、すごい! 私の同僚にも円周率を多く言えるっていう人がいるんですけど、その人は日暮さんの半分も言えませんでしたよ」
そうやって、とりあえずの
感嘆の台詞は演技でどうにか
ちなみに私の同僚は私自身を含めて全員、日暮匡の倍近くの桁数の円周率を暗記している。
そうは言っても、日暮匡が小数点下十二桁まで暗唱できることも十分に
ただ気になる点は、彼の言った最後の三桁、385の部分が事実とは異なることだ。そこは正しくは793である。
十中八九、日暮匡の記憶違いなのだろうが、これがもし、わざと嘘の数字を紛れ込ませたのだとしたら、日暮匡がどこまで円周率を覚えているかという事実はひときわ重要な項目になってくる。
「まあ、この私に肩を並べられる者など、そうはおるまいよ。語呂合わせで覚えて書き取りなら多くできるという者は多いが、この私のように口頭で数字を暗唱できる者は少ないのだ」
そのとおりだとは思うけれど、円周率が言えるくらいでここまで調子に乗れる人も珍しいと思う。
そう指摘したくなるのを私は我慢した。
相手が理だったら、この台詞の棘を三割増しにして突き刺すところだ。
理といえば、先ほどからずっと、二台後ろの車に隠れるように黒ずくめのバイクがついてきているのだが、その黒ずくめというスタイルは尾行時の理と同じコスチュームなのである。
そのバイクが理ではない一般人で、ただ行先が同じという可能性もなくはない。
しかし、バイクは必ず私たちと車二つ分を開けてついてきているのだ。私たちのすぐ後ろの車が交差点を曲がったとしても、バイクは車一台分を詰めたりせず、後続車を抜かせ、その後ろについている。
そのやり方は理の尾行時とも
これは間違いない。理が私たちを尾行しているのだ。
私が発信器を破壊したから、理は強引な尾行をせざるを得なかったようだ。発信機を壊していなければ、私でも気づかないようなもっと
「もうすぐ着くぞ。
「待ってください。私たち、尾けられています」
私は迷ったが、打ち明けることにした。
日暮匡に指示を出して理をまかなければならない。
理は日暮匡につきまとってプレッシャーを与え、カノンに自分を殺す依頼を出させたいのだ。
私はそれを阻止しなければならない。
自分の旦那が自殺行為にも匹敵する無謀な行動を取っているのに、それを止めない嫁はいない。
つくづく馬鹿な旦那を持ったと思う。あいつを選んだのが私自身だと思うと、
理のやろうとしていることは、なんとなく想像がつく。
日暮匡の行く先々で偶然を装って接触するのだ。
その頻度が多ければ、日暮匡はあるときふと気がつくことになる。船橋理との邂逅は偶然などではなく、自分は船橋理に意図的につきまとわれているのだと。それも四六時中。
その事実に気づいたときの恐怖は、殺人依頼のトリガーとして十分に役割を果たすことだろう。
それに比べれば、いまここで尾行されていることを明かすくらいのことは
「……ああ、もちろん、この私も気づいていたとも」
なんですって⁉
日暮匡、あなたは理の尾行に気づいていたというの?
いいえ、違うわね。
いま、一瞬だけれど、彼の視線は下に落ちた。運転しているから分かりにくかったが、視線が若干なりとも下の方に向けられたのだ。
これは彼が嘘をつくときの
ともあれ、なぜそんな嘘をついたのだろう。ただの
こんなときですらしょうもない嘘をつくなんて、この日暮匡という男だけは絶対に信頼できない。
いまのこの気持ちが「生理的に受けつけない」ということだろうか。嘘の関係でもこんな男の隣にいることが情けなくなってくる。
とにかく、日暮匡の言動に関しては、しっかりと真偽を見極めていかなければ、思わぬところで足をすくわれかねない。
「イタリアンをご馳走する予定だったが、延期にせねばならぬようだ。申し訳ない。しかし君の安全のためにも、この私は必ず奴をまこうではないか」
「仕方ありません。気にしないでください。尾行を振り切ることには私も協力します」
私はスマートフォンで地図アプリを呼び出し、周囲のマップを確認した。
さて、どんなルートに理を誘い込もうか。まくのが目的なので、候補はそんなに多くない。
私は作戦を即決した。
「よい経路は見つかったかな?」
「はい。三つ先の信号を左に曲がってください」
「うむ、承知した」
信号を二つ過ぎ、そして三つ目の信号に差しかかる。
日暮匡はウィンカーを出さずに交差点の半ばまで進んでからギリギリのところで左折した。
後続車から警笛を鳴らされた。
ウィンカーを出さなかったのは、わざとだろうか? バイクは車を二つも挟んだ後ろにいて、余裕を持って曲がれるから無意味なのに。
そうでなければバイクを巻き込んで事故になってしまう。
日暮匡の危険運転にはなんのメリットもなくてうんざりする思いだ。
「これを左? 大丈夫かね? どう見ても山に入っていく道だが」
「だからこそです」
理はきちんと左折のウィンカーを出して自然な形で左折をした。
当然だ。尾行者ならなおさら周囲の環境に溶け込まなければならないのだから。
「あのバイク、最初から左折するつもりのようだったが、本当に我々を尾行しているのか?」
「私たちがスピードを落としていたから、左折することは確信していたと思います。いまの交差点には右折専用レーンがあるから、左車線にいるのに右折することは考えられませんし」
「なるほど。もし我々が直進したとしても、バイクも左折をやめればいいだけの話ということか。それで、これからどうするのだ? しばらくは一本道のようだが。というか、この道はちゃんと大きな道に出られるのか?」
「問題ありません。しばらくS字カーブが続きますが、安全運転でいきましょう」
「う、うむ……」
不安になるのも無理はない。
緩やかな登り
だからこそ、私たちの車と理のバイクとの間に常に存在していた車を除去することができるのだ。
実際、理はさっきまでよりも距離を開けてゆっくりとついてくる。
理にとっては、尾行していることをアピールしても日暮匡にプレッシャーをかけられるはずだが、行く先々で偶然を装って直接接触するというインパクトの大きい手段を取りたいのだろう。
もちろん、理もその作戦にこだわるのは、もはや無理があると気づいているだろう。
「私たちが尾行に気づいていることには、あの人ももう気づいているでしょう。だから私たちが何をしても、あの人はベッタリとくっついてくるはずです。停まれば停まるし、飛ばせば飛ばしてきます」
山道に入って二、三分。私はスマートフォンの画面と前方を見比べ、タイミングを見計らって声をあげた。
「日暮さん、次のカーブを曲がったら下りの直進があるので、そこを飛ばしてください。その後のカーブの先にある十字路を右折してください」
「うむ、分かった」
カーブを曲がった先の緩やかな下り勾配で、日暮匡は私の指示どおりに車を飛ばす。
カーブに差しかかったところでは、理はまだ坂の上にいた。きっと焦っていることだろう。
日暮匡はスピードを落としてカーブを曲がり、十字路を右折した。そのまま曲がりくねったカーブを静かに進みつづける。
「まいたようだな」
「ええ。でも、実はこの先、行き止まりになっているんです」
「なに⁉」
「地図によると、あの十字路を直進した場合と、左折した場合に大きい道に出ることができます。直進すれば
「しかしなぜ、バイクが左折すると分かるのだ? 直進はしないとしても、右と左のどちらに曲がるかは分からないのではないか? だとすると、もしバイクが行き止まりのこちら側に来てしまったら、追い詰められることになる」
「あのバイクは十字路で停まり、携帯端末で地図を見て道を確認するはずです。右と左、それぞれの道がどこにつながっているかを。そして私たちがこの山道に誘い込んだということは、私たちがこの道を知っているはずとも考えます」
「なるほど。先ほどの話を聞いて、この私は十字路を左に曲がったほうがよかったのではないかと考えたが、その裏を突いたというわけだな? しかし、我々を見失ったとしても、あやつはしばらく近辺を探しまわっているだろうな。
「ええ。だから、今晩はこの山を下りることはできません」
「なんだと⁉ つまり、今晩はこの山の中で車中泊ということか?」
「心配はいりません。泊まる場所ならちゃんとあります」
私たちはペースを乱すことなく、ひたすら山道を進んだ。
そして開けた場所に出る。
周りは山に囲まれているが、敷地内はしっかりと整備されている。
一見するとそれは住宅地である。しかし、そこにある建物に民家は一つたりともない。
すべてが商業施設なのである。
「ここは……。こんなところに町? いや、これはラブホテルか!」
日暮匡はようやく気づいたらしい。戸建てタイプである。
縁がなさそうな彼が気づくとは正直なところ思っていなかった。恥を捨てて説明する手間が省けるので幸いなことだ。
「ミサキさん、君は、その……いいのかね?」
「え? ええ、かまいませんよ」
「本当に?」
「はい。私は明日も休日です。さすがに一晩も待てば、あのバイクも
私はあくまで「尾行をやり過ごすためにラブホテルで一泊することは構わない」と言っている。
日暮匡の確認はおそらく、私たち二人の関係への期待が実現するのかを問うものだ。
しかし私は念押ししない。
実際、明日になれば彼の期待は実現されていることになるのだから。
「いや、そうではないが、君はこんな場所でかまわないのだろうか、と思って」
「夜を明かすのに、ビジネスホテルもラブホテルも変わりはありません。お気遣い、ありがとうございます」
おっと、日暮匡は私が思うよりは紳士だったようだ。これは私の日暮匡への見くびりかもしれない。
命の危険がゼロではない以上、彼への警戒を緩めることは愚かしいことだ。気をつけなければならない。
私は彼の
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