第17話

 この私が車に戻ったとき、美咲みさきはまたしてもふくれていた。

 この私は運転席に乗り込んでから取りつくろった。


「すまない。待たせてしまったね」


「かまわないけれど、何かあったの? 混んでいたとか?」


 美咲はそれを口にはしなかったが、おそらくこの私に追っ手の魔手が届いているのではないかと心配してくれたのだろう。また心配をかけてしまった。

 しかし、今度はそれを杞憂きゆうとするわけにはいかぬ。


「美咲、重要な話をしなくてはならぬ。実はだな、さっきからずっと何者かの視線を感じているのだ」


「それって……」


「ああ、おそらく、奴だ。さすがに人前では事に及べぬだろうが、人気が失せたとたん、奴はこの私を襲うだろう。もちろん、この私はそうやすやすとやられるつもりはない。返り討ちにして警察に突き出してやるつもりだ。それができる自信もある。しかし最大にして唯一の危惧きぐ材料がある。それは君に危険が及ぶことだ」


 そこまで聞いても、美咲は顔色一つ変えずに真剣な眼差まなざしをこの私に向けていた。

 凡夫ならば不安をあらわにし、恐れおののき、巻き込んだこの私を責め立てるだろう。

 しかし美咲は違う。この私のことを第一に考えてくれるし、この私のためならば勇猛果敢ゆうもうかかんにもなる。

 彼女の言葉がそれを裏づける。


「私を遠ざけるつもりね? そんなの嫌よ。あなたの無事をただ祈っているなんて真似は私にはできない。私はずっとあなたについていくわ。それに一対一よりも一対二のほうが有利だわ。私は足手まといになんかならない」


 素晴らしい。

 たしかにこの私がこれまで見てきた彼女は、非常に頼り甲斐のあるしたたかな女性だった。健気けなげでありながら、頼もしく、そして心強い。


 ただし、彼女の同行には問題が二つある。


 一つはカノンにどう説明するかだ。彼は彼自身が信用した者しか認めない。美咲という異物があれば、彼が手を引くなどと言いだしかねない。

 しかしこれはどうしようもない。根気強く彼に美咲を売り込むしかなかろう。

 この私の素養を見抜いたカノンであれば、当然ながら美咲の素質も見抜くことができるはずだ。そう信じよう。


 もう一つの問題だが、こちらはさらに厄介で、彼女の前で船橋を抹殺まっさつするにあたり、これをいかに正当化できるか、ということだ。

 殺害実行はカノンがやってくれるのだから、美咲にカノンのことをどう説明するか、それを慎重に選択しなければならぬ。

 そしてその説明でカノンが何者として認識されるのか、それをカノンにも認知してもらう必要があるし、話を合わせてもらわねばならぬ。

 もちろん、美咲にすべての真実を話すという選択肢も存在するが、彼女がどこまで社会のり固まった価値観を打破できるか未知数であり、彼女をもっと知らねば選べる代物ではない。

 だが何より、美咲には社会的にもけがれなき存在であってほしいと、この私が願っている。


ただしさん、ねえ、答えは出た?」


「あ、ああ。分かったとも。ともにこの困難を乗りきろう」


 少し考えすぎていたようだ。続きは船内で考えればよい。

 カノンとの合流はまだ先のことなのだ。


 我々が港に到着したときにはまだフェリーの出航まで小一時間ほどあったのだが、時間はあっという間に過ぎて、気づけば乗船時刻になっていた。

 前方ではフェリーが大口を開けて待ち構えている。白い船体に青いラインが走るその姿は、どことなくペリカンを連想させる。

 この私は流れに従い車を進め、しおの香りに歓迎されながら、ペリカンの大口へ車ごと飲み込まれていった。

 天井の向こう側からガチャンガチャンと金属の衝突音が聞こえてくるが、美咲は気にする様子もなく階段を見つけて足早にそちらへ向かう。


 この私と美咲は展望室の座席に腰を下ろした。この展望室はオーシャンホールという名がついているらしい。

 小さな円形テーブルを囲む四つの暖色チェアーの一つに腰掛ける。床も暖色で統一してある。

 広々とした空間は、豪奢ごうしゃというより優雅という表現が似つかわしい。


 ここは展望室であるが、周囲には老夫婦が一組いるだけだった。他は凡夫ぼんぷらしく雑魚寝ざこね場にでも行っているのだろう。

 いわゆる二等客室といわれる雑魚寝場には、テレビが備えられている所もあって、いよいよ下賤げせんなる凡夫どもには似つかわしい。

 対するこの私は、気品のある空間で、隣に絶世の美女を抱えて――。


「あ、ごめんなさい。ちょっと電話……」


 腰を下ろして三秒もしないうちに美咲が腰を上げた。

 かばんから携帯電話を取り出しつつ、展望室を出ていった。


 この私は一人で優雅に外の景色を眺めた。

 ここは展望室であり、この私がここにいることで、展望室が様になっているといえる。

 展望室の風格を上げるために、この私が読書にふけってやってもいいが、あいにくながらいまは本の持ち合わせがない。


 チラと後ろに振り向くと、老夫婦が肩を寄せ合っている。

 仲のむつままじいことだ。


 もちろん、この私がそれを見て寂寥感せきりょうかんを抱くわけがない。ただ、美咲は隣で電話してくれてかまわないのに、と思ったのは寂寥感には当てはまるまい。


 まあ、先ほどの考え事の続きをするにはちょうどよい。


 この私は船橋理の抹殺と、カノンの正体について、美咲にどう誤魔化ごまかすかを考えた。

 考えはじめて数秒にして、さすがはこの私、妙案みょうあんを思いついた。

 シナリオはこうだ。


 この私は自身と美咲の身の安全を守るために、護衛として探偵を雇う。

 その探偵というのがカノンで、カノン探偵が護衛の任を逸脱いつだつして追っ手を殺害してしまうという、この私すら予期せぬ事態を引き起こす。

 殺人者となってしまったそのカノン探偵は逃走して我々の前から姿を消すが、善人が本質である彼は、別れぎわにこの私と美咲を口封じで殺したりはしないと約束する。

 つまりこの私と美咲の安全は保証されることになる。

 うむ、完璧だ。

 いや、それは言いすぎかもしれぬが、最善だ。


 隣でポスッという音がして、椅子の座面が沈み込んだ。


「早かったな……」


 そう言って顔を横に向けたこの私は、開いた目と口がふさがらなくなった。

 美咲がいるべき場所に、黒いライダースーツの男が深々と腰を下ろしている。


「まさか、私がこの船に乗っていないとでも思いました?」


 とにかく最初に罵倒してやろうと思ったが、さすがのこの私でも動揺してしまったか、すぐには言葉が出てこなかった。

 なぜ船橋ふなはしがここにいる? 

 船橋はパーキングエリアでこの私より先に高速道路へ戻ったはずだ。尾行できるはずがない。バイクを抜いた覚えもないのに、こやつがこの私を尾けられるはずがない。

 それに、たしかにカノンは船橋が近くにいるかもしれぬことをこの私に忠告したが、それにしたって、こうも堂々とこの私の前に姿を見せるとは……。


「貴様がこの船に乗っているのは分かった。だがすぐにどこかへ行け! 美咲が戻ってくる前にだ!」


「べつにいいじゃないですか。戻ってきて何の問題があります? 以前一度、私とみさきさんは顔を合わせているわけですし、『奇遇ですね』でいいじゃないですか」


「この私が貴様と一期一会いちごいちえ以上の間柄であると知られるのはまずいのだ」


 船橋のことは、この私の命をつけ狙う敵として認識してもらう予定なのだ。だから美咲にこの私と船橋が普通に会話しているところを見られるのはまずい。


「岬さんのことは心配無用です。さっき電話で席を立ったでしょう? あれは私の仲間が保険屋に成りすまして、契約内容に関する重要な確認事項があるというむねの電話をしているのです。当分戻ってきません」


「……そうか。だがこの私は貴様に用はない。さっさと去れ」


 この私のその言葉に対し、船橋は無言で首を横に振った。

 そして奴の本題を勝手に語りはじめる。


日暮ひぐらしさん。あなたのしたことは、いずれは彼女にも知れることですよ」


「まさか、言うつもりか? 言うつもりなのか、貴様?」


「何をおっしゃいますやら。あなたが言うんじゃないんですか?」


 微笑をたたえた顔を、こちらに向けて少し傾ける。

 船橋のその顔は、無垢むくで無邪気な子供のように潜在的な残酷性を備えている。

 黒いライダースーツが相まって、彼が死神か悪魔のような存在に見えてしまう。


「この私がそれをつまびらかにすることについては、考えておくと言ったではないか。まだ考えている途中だ。貴様は暇なのかもしれぬが、わざわざこの私を追ってくる必要はないぞ」


「ええ、承知していますとも。ただ、あなたのことだから、きっと考えるだけで終わるのだろうと思いまして」


「なんだと! このたわけが!」


 この私は上格者であり、貴様のような凡夫が愚弄ぐろうしていいような存在ではないぞ! 

 この私のハラワタからメラメラと殺意の炎が沸きあがってくる。この私はその炎に内側から全身を焼かれそうになっている。

 この震える拳はどうやって止めればいい? 

 いまここでこやつを殺してくれようか。

 否、さすがにこの私はそんな愚かな真似はせぬ。人の目もあり、いずれは美咲も帰ってくる。


「日暮さん。一つ言っておきますが、どんなに考えたところで、あなたが馬氷まこおりさんを殺害した事実は消えないんですよ。本来、考える必要はないんです。真実を明らかにする以外に選択肢はないし、そうしなければならないんです」


「この私に説教をしているつもりかね?」


「説教ではなく説得です」


「うるさい!」


「あなたはすでに自首をする決断を下していて、あとはその覚悟がととのうまで心の準備をしている。私はそういう体裁ていさいで待つことにしますが、それでよろしいですね?」


 この私の頭には全身の血が昇りつめていて、その一つひとつの成分が窮屈きゅうくつそうにせめぎあい、沸騰ふっとうしている。

 この私の拳が勝手にわなわなと震え、いまにも船橋の頭に鉄槌てっついを下ろさんとしているが、この私はそれを思いとどまるようにと、脳から拳へ命令信号を下した。


 冷静さを失えば負けだ。冷静に状況を見て、完全な環境を作り、確実にこやつを消さねばならぬ。

 カノンが、な。


「……ああ、かまわん。それでいい」


 もう少しの辛抱だ。もう少し辛抱すれば、カノンがこやつを殺してくれる。

 それまで奴の意向に沿うフリをしなければならぬ。

 そうしなければ、奴が捨て身になってマスコミに真実を暴露してしまう。


「さあ、もう行け。この私の隣に貴様はふさわしくない。美咲をさっさと返せ」


「まあまあ、そう言わずに。仲間が岬さんを引きとめる時間は二十分と決めてありますが、まだ五分も経っていません。せっかくだからお話しましょう」

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