第14話

 船橋は咳払いを一つ挟んでから話しはじめた。長くなるのだろうか。


「まず一つ。遺書が見つかっているので、馬氷まこおりさんは自殺したか、殺されたかであり、事故ではありません。しかしログハウスの二階から飛び降り自殺をするというのは極めて不自然です。普通はもっと高くて確実に死ねる所から飛び降ります。よって、馬氷さんの死は他殺によるものです」


「馬氷という女に二階から飛び降りて地面に頭を叩きつけるほどの根性があったのかもしれぬではないか」


「そんな人は自殺したりしないでしょう。二つ。これも他殺の断定根拠です。ログハウス内は所々で指紋が拭き取ってありました。自殺する人間が指紋を拭き取るのはおかしなことです」


「身辺整理の一貫ではないのかね?」


「そんな無意味な身辺整理をする人なんていませんよ。三つ。馬氷さんは化粧が途中でした。自殺するにあたり、きっちり化粧をしたり、まったく化粧をしないというのなら分かります。ですが、中途半端に化粧するというのはおかしいと思いませんか?」


「化粧途中で自殺の決心がついたのではないか?」


「私は化粧途中の自殺体なんて見たことがありません。四つ。遺書です。日暮ひぐらしさん、遺書の筆跡は誰のものだったと思いますか?」


「そんなの、自殺した馬氷という女のものに決まっておるだろう」


「いいえ、それが違うんです。馬氷さんの恋人である帆立ほたて治弥はるやさんのものだったんですよ」


「なんだと⁉」


 この私が豚女のものだと信じて写した文字が、実は男の字だったとは。これは迂闊うかつだった。

 この場合どうなるのだ? 少々複雑になりそうだ。

 しかしあまり考え込んで絶句していては、余計に怪しまれかねない。何か話さねば。


「ならば、その男が馬氷を殺したのだろう」


「そんなわけないです。人の死を自殺に見せるために、その人の遺書を自分で書くなんて、そんな馬鹿な真似をする人はいません。筆跡を調べられたら一発で犯人であることがバレてしまうのですから。日暮さん、もう一ついてみますが、その遺書はどこで見つかったと思います?」


「そりゃあ……ログハウスの室内だろう?」


 ふん。この私がテーブルの上だと言うとでも思ったか? 馬鹿め。そんな初歩的な罠になどひっかかるものか。

 この私は現場を知らず、ニュースで豚女の死を知ったにすぎないことになっているのだ。遺書の置き場所はこの私が知っていてはならぬ情報。

 この私が口を滑らせると思ったら大間違いだぞ、船橋。


「いいえ。帆立治弥さんのポケットの中です。帆立さんは第一発見者なんですよ。その帆立さんが遺書を最初に見つけ、そして彼は遺書が自分の字で書かれていることに気づきました。帆立さんは当然ながら、誰かにはめられた、と思ったでしょう。そして、真犯人の思惑に甘んじてなるものか、と思ったことでしょう。帆立さんはその遺書をポケットの中でにぎりつぶしてから警察に通報しました。結局、警察に調べられて見つかってしまいましたけどね」


「だったら、なおさらその帆立という男が犯人だろう。遺書を偽装して、自分の字で書いていては駄目だと途中で気がついた。だから回収したのだ」


「文字を見れば、筆跡の偽造は判別できます。たとえば、ゆっくりなぞれないハネやハライが不自然になったりしますから。つまり帆立さんの字が帆立さん以外の誰かに書かれたことは明白なのです。五つ。別荘には車がありませんでした。つまり、馬氷さんは一人で別荘に来たのではないということです。誰かが馬氷さんを別荘まで積んできて、その運転者が馬氷さんを殺して車で帰ったということなのです」


「タクシーではないのかね? 自殺する人間が金に糸目をつけるとは思えぬからな」


「調査しましたが、馬氷さんを乗せたタクシーは見つかりませんでした」


「不要な疑いをかけられるのが嫌で名乗らなかったのではないかね?」


「個人タクシーならそれも可能でしょうが、違うと思います。現場に残されたタイヤ痕が日暮さんの車と一致しているので、車の特定は済んでいるのです」


 いま、こやつ、さらりと重要な根拠を述べなかったか? 

 一つ、二つと順番に述べている項目よりよっぽど重要な証拠を……。


「同じ型のタイヤくらいたくさんあるだろう。この私の車とタイヤの模様が一致したのは偶然だ」


「タイヤ痕を特徴づける要因の一つとして、タイヤの磨耗具合もあるので、あなたの車はほぼ間違いなく黒なのです。六つ。灰皿が見つからないんですよ。馬氷さんはヘビースモーカーなんです。それで灰皿がないというのはおかしいと思いませんか? 庭には多量の吸殻が入ったイット缶が置いてあったので、いつも庭で吸っていたという可能性もあるのですが、帆立さんの証言によると、以前、あのログハウス内にはガラスの灰皿があったのだそうです。きっとその灰皿が凶器となり、犯人がそれを持ち去ったのでしょうね」


「ふーん……そうか。で、他は?」


「七つ。ゲソ痕です。馬氷さんの別荘の敷地内から見つかったゲソ痕と、あなたの靴のゲソ痕が一致しました」


 ゲソ痕。それはつまり、足跡のことだ。


「一致しましただぁ? この私は貴様に靴を差し出した覚えはないぞ。テキトーなことを言うな。カマをかけているつもりか?」


「いいえ、日暮さん。あなたは以前、私の背中を蹴りましたよね? その靴跡で照合したところ、一致したんです」


「そうだとしても、この私の靴は大量生産品なのだ。証拠にはならぬ」


「これもタイヤ痕と同じです。尖った石を踏んで切れたと思われる靴底の跡があるんです。同じ型の靴の同じ部位で、同じ大きさで同じ形をした石を踏んだ、なんてことはまず考えられません」


「そうか……」


「とりあえず、これくらいでいいですか? もっと挙げましょうか?」


「いや……」


 それ以上は言葉が出なかった。

 これだけの根拠がそろっていれば、どんな能天気野郎でも、この私が真犯人であると結論づけざるを得ない。


「どうです? 自首する気になりました?」


「しかし、警察は動かないのだろう? それだけの根拠が挙げられるというのに、警察は動かない。仮にこの私が真犯人であるとして、この私が自首する理由はないのではないかね?」


「罪悪感……は理由になりませんか? 自分のあやまちを人に知られてしまっているわけですから。あなたはこの背徳感に耐えられるのですか?」


 何を言っている、この男。

 罪悪感? 

 背徳感? 

 馬鹿にしているのか? 


 この私が凡夫ぼんぷの一匹を手にかけたくらいで、そんな後ろ暗い気持ちになど、なるわけがないではないか。むしろ感謝されたいくらいだというのに。

 なあ、おまえさんたち。おまえさんたちもそう思うだろう? おまえさんたちなら、この私をたたええてくれるだろう?


「ありえない。仮にこの私が凡夫を殺したとして、それは悪ではなく善だ。貴様ら凡夫は根本から勘違いしている!」


 この私のげんに対する船橋は、一度、ポカンと口を開けて固まった。

 団子虫でも放り込んでやりたい阿呆面だったが、存外早く気を持ち直したようで、船橋は目を細めてこの私を見据みすえた。


「……日暮さん。あなた、まともじゃないです。私にはあなたが正気とは思えませんよ。まともな人間なら、人を殺して平気なはずがないです。もうあなたは精神異常をきたしているとしか思えません」


 こやつ、いま、この私に対して暴言を吐いたぞ。

 許されぬことだ。これは許されぬことだぞ! 

 諸君、分かるな? 

 こやつ、大罪人である! 

 これこそが名誉毀損めいよきそんである! 


 しかし冷静たれ、この私。衝動に駆られてはならぬ。

 だが、だが……、こんな下民凡夫を許せるはずがなかろう!


「凡夫、凡夫がァアアアッ! 貴様らのような下等な人間が死んで、いったい何が悪いというのだ! むしろ地球が清潔になるくらいではないか。もしこの私が凡夫を始末したと言い張るのなら、貴様はこの私をねぎらえ! 称賛しょうさんしろ! ひれ伏して泣きながら感謝の言葉をのたまいたまえ!」


「やっぱりおかしいですよ、あなたは。……そもそも、凡夫って何なんですか?」


 船橋は、ぬるい炭酸ように気の抜けた声をもらした。視線も声も乾いている。

 この私の前では、凡夫のそれすら粗相に値する。


「そうだとも! 貴様らは凡夫なのだ。何も考えずに生きて、地球資源をむさぼる。生きている意味も価値もない。それどころか、有害でさえある。産業廃棄物のように、負の価値を有する存在だ」


 船橋はしばし固まっていた。

 あごに手を添え、ひじをもう一方の手で支えて黙考しだした。

 まさか、この私を待たせる気か? この罪人が! 

 しかし寛容かんようなるこの私は、ぐうの音も出ない奴の言葉を親切に待ってやった。謝罪と敗北宣言を期待して。


「……ええ、そうでしょうとも。我々は凡夫ですよ。で、私が凡夫であることに対して、あなたはいったい何者なんですか? 我々とあなたにそう違いがあるようには思えませんが」


「非凡なる者、とでも言っておこう。君たちが我々のことをもっと畏敬いけいの念を込めて呼びたければ、上格者じょうかくしゃと呼ぶがよい。この私はな、貴様ら凡夫とはまったく異なる存在だ。しんに大事なことが何かを知っている。人間が勝手に作り出した法律など、糞の価値もないことを知っている。我々が守るべきは、人間のルールなどではなく、環境そのものだ。地球、そして宇宙そのものなのだ」


「宇宙……」


「そう。たとえば、完全にクリーンな宇宙空間に、人工衛星というゴミを持ち出してしまった人間の罪深さは計り知れぬ。理解できるかね? これだけ説明したならば凡夫でも理解できるだろう。ただし、それを理解することと、その思想を持つこと、そこに凡夫と上格者の決定的な差があるのだ。理解できた程度で上格者になれたなどと思い上がるなよ」


 船橋は一度ゆっくりと目を閉じて、そしてゆっくりと目蓋まぶたを持ち上げた。


「そうですか。たしかに私はそれが理解できるだけの凡夫でしょう。地球環境という壮大な問題に対する取り組みに、いまの私の人生をささげることはできません。こんな私に対するあなたが上格者であるというのなら、私はあなたを尊敬します。しかし確認させていただきたい。あなたは上格者として、いったい何をされたのですか? 具体的にどんな活動をされているのですか?」


「こうして考えていること自体が活動の一環なのだ。これは哲学という、あらゆる学問の中で最も崇高すうこうなる学問なのだ」


「それだけですか?」


「それだけ……だと?」


「哲学の先にある自然科学や環境学を学び、実際に地球環境のために何かをしないのですか? あなたが凡夫を認めないというのなら、あなたは凡夫を格上げするために何かしているのですか? 宣教活動せんきょうかつどうをするとか、教育者となり自らの思想をくとか、本を出して布教するとか、そういう何かしらの啓蒙活動けいもうかつどうをおこなっているのですか?」


「必要ない。凡夫は所詮しょせん凡夫であって、彼らが凡夫の域から脱するなど、できはしないのだ」


「つまり、何もしていない、と?」


「……まあ、そうだ。いや、だから、思想活動をだな……」


「……そうですか。じゃああなたは凡夫を認めるということですね? もしもあなたが何か啓蒙活動をおこなって、それが徒労とろうに終わってあきらめたというのなら、私はあなたを上格者として認めましょう。でも、あなたは何もしていない。何もしていないということは、世の凡夫に変化を求めないということであり、すなわち凡夫を認めるということになりますよね」


「なんだと? そんなのは詭弁きべんだ! まったく、バカバカしい」


「まったくです。無駄な議論をしました」


 船橋は空を見上げ、右へ左へとゆっくり首を傾けた。首がったのだろうか。こやつ、私の脳みそは重たいんですよね、とでも暗に言っているつもりだろうか。

 そんな疲労を垣間見かいまみせた船橋理であるが、彼はなぜか微笑をたたえている。まるでつい先ほどまでの会話がなかったことになったかのように、ケロッとしていた。この私は煮えているというのに。


「日暮さん、あなたの容疑は固まっているので、これは余談になるのですが、容疑者のうち真犯人とそうでない人とでは、大きな相違点があるんです。日暮さんは真犯人の特徴にピッタリ当てはまっています。それがどんな特徴だか聞きたいですか?」


「聞きたくはないが、言ってみたまえよ。言いたくてしょうがないのだろう?」


 船橋は眉をひそめながら、口を片方だけ引き上げるように笑った。


「探偵が事件の話をする際、真犯人は事件の不審な点について細かく理由づけをしようとします。真犯人でない容疑者は『知らない』と突っぱねます。あなたは明らかに前者でした」


「そんなものは人の性格によるだろう。真犯人でなくとも、事件に首を突っ込みたがる野次馬根性の旺盛おうせいな者であったり、この私のように崇高な者が凡夫にアドバイスをほどこす高貴者であったりするのかもしれぬ。真犯人が『知らぬ』と突っぱねることもあろう」


「まあ、これは余談ですから。そう思うのであればそれでかまいません。とにかく、先に述べた根拠をすべてくつがえすことはできませんよね。日暮さん、どうか自首してはいただけませんか」


ことわる。だんじてことわる」


 船橋はこの私のその答えを予期してはいたのだろうが、一度大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出した。

 それはまるでこの私に身構える猶予ゆうよを与えるかのような間を生じていた。


「それならば、最後の手段に出るしかありませんね」


「何だ? 最後の手段とは何だね?」


 船橋の渋々しぶしぶを表現した顔は、意図したものか、自然体なのか、判別はつかなかった。いずれにしろ殴ってやりたい憎たらしい顔だ。

 そしてその顔で、彼はそれを告げた。


「週刊誌に売り込みます。警察が真実を隠蔽いんぺいしているという不祥事ふしょうじとして売り込めば、週刊誌は喜んで飛びつくでしょう。もちろん、真犯人の情報も提供するつもりです。これは最終手段です。これまで助け合ってきた警察と絶交することになるので、私としては使いたくない手段です。でも損をするのは私だけではありません。これはあなたにとってもデメリットのほうが大きいことです。自首と検挙とでは大違いですからね」


 絶句! 

 そんなことをさせてたまるか。

 早くなんとかしなければならぬ。こやつだけは、なんとか……。

 ここは少しくらいプライドを捨ててもかまわぬ。

 保身が最優先だ。


「船橋、分かった。少し考えさせてくれないか? たしかに貴様の言うとおり、この私が己の無実を証明できないのであれば、自首したほうがこの私にとってもよさそうだ。だが、決心がつくまでしばし時間をくれ」


「分かりました」


 船橋はニコリと微笑ほほえんで、あっさりと立ち去っていった。

 あまりにも簡単にこの私のげんを信じて行ってしまった。


 しかし――。


 自首などするものか! 決してしないぞ、自首なんぞ。

 船橋理……殺す。絶対に殺す! 手遅れになる前に、こやつを抹消まっしょうしてやる。

 船橋理、許すまじ! 断じて許すまじ! 

 どんな手段を使っても、どんな代償を払っても、こやつを抹殺まっさつする!

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