※※※
「
「縁起でもっ、ないことっ、質問っ、すんなっ‼」
一言ごとに叫ぶように答えた黄季は独特の足運びで複雑に地面を踏むと飛び退って印を組む。
「『起動
短縮した呪歌によって形作られたのは伏せられた椀のような形で展開される結界だった。大人数人がしゃがみ込んでやっと入れる程度の小規模な結界だが、それでも中に入れさえすれば瘴気と砂塵の嵐から身を守ることができる。
「……っはー、ぶっつけ本番だったけど、起動してくれて良かった……」
「来てくれて助かったわ、黄季」
「こっちも、転送された現場の近くに二人がいてくれて助かったよ……」
ほっと一息ついた
意識を失ってグッタリとしている明顕は、多少かすり傷を負っているが大きな怪我をしているようには見えない。黄季が
「何が起きた?」
「分からない。
細かく体を震わせながらも、民銘はなるべく冷静に言葉を紡ごうとしてくれていた。恐怖に耐えるためなのか、キュッと明顕を抱きしめる腕に力がこもる。
「一瞬で視界を奪われて、他のやつらも、試験官の上役達も、どこにいるのか分からなくなった。……俺は、明顕が初撃から庇ってくれたから……。でも、明顕だけじゃ砂嵐の向こうから来る攻撃を捌ききれなくて、……俺も、援護しきれなくて、それで……」
民銘の体がガタガタと大きく震える。地面を見つめていた瞳からボロボロと涙がこぼれて、
そんな民銘の様子を見ながらも、黄季は問いを口にする。
「妖怪の全容を民銘は把握できてないんだよな? 何体いるとか、どんなやつだったとか」
恐怖と後悔は、くすぶらせているだけでは消えない。
この状況を、自分達の手で切り抜けなければ、決して消えないのだ。
「……悪い、まったく分からん。ただ、俺の勘で言っていいなら、メッチャ強いやつが一体だけだ」
そんな黄季の意図が分かったのか、黄季の問いで後悔から一時的に意識がそれたのかは分からない。だが手の甲で目をこすって無理やり涙を止めた民銘は、予想以上に強い声で黄季の問いに答えてくれた。
「書物で、この忌地の四隅には忌地の管理と結界展開補助を兼ねた呪石が埋められているって読んだけど、それ本当か?」
直接妖怪を討伐するには明らかに黄季達の実力が足りない。だがただ現状を耐え忍んでいればいつか誰かが事態を好転させてくれるのかと問われれば、それも否と言わざるを得ないのが今の状況だろう。
今の黄季達にできること。
それは何とか自分達より格上の退魔師達に繋ぎを取り、彼らの連携を支えて討伐の助力をすることだ。
「え……あ、あぁ。四隅と言わず、もっとあった。土地の境界を示す四つ角と、各辺の間にひとつずつ。何か試験の役に立つかと思って、試験前に存在を探った時に俺が見つけた呪石は全部で八つ。それぞれの呪石の所に試験官達が立っていたから、多分あれが試験前に張られてた結界の基点だ。もしかしたらもっとあるのかも」
黄季の質問の意図は読めなかったものの、何か必ず意味はあると考えてくれたのだろう。戸惑いを浮かべながらも民銘は詳しい状況を黄季に教えてくれた。
「結界展開してた上役達、無事だと思うか?」
「……初手の土煙が上がる前、何人か吹っ飛ばされたのが、感覚で分かった」
「……そうか」
「でも、結界と呪石は生きてる」
一瞬、仲間の死を語った民銘の瞳が揺れる。だが民銘は一度きつく瞼を閉じて感傷を振り払うと力強く黄季を見据えた。
「この乱流の中でも、呪石の感覚と結界の術式、把握したまま手放してない?」
「手放したら本気で終わると思って、死に物狂いでしがみついてる」
「そこに力を通して、みんなに合図を送ることってできそうか?」
「っ……むっずかしいこと言うねぇ、お前」
ここまできてようやく民銘は黄季が何を狙っているのか気付いたらしい。民銘の口元に無理やり浮かべられた笑みが引き
「土地の広さに加えて、忌地でこの嵐だ。いくら基盤がもうあるっつっても」
「それでも」
「……俺には無理。力が足りない」
その表情が、今度は掻き消えた。頼りなく伏せられた瞳にあるのはきっと悔しさだろう。
「今無茶をしたら、多分、必死に掴んでる感覚がすり抜けてくと思う」
「分かった。じゃあお前が今掴んでる感覚を貸してくれ」
「は?」
そんな感情が、黄季の一言で消し飛ばされた。
「民銘の感覚を借りて、俺が力を通す。だから結界展開代わってくれ。白蓮華の展開と今掴んでる感覚を維持するくらいなら並行してできるだろ? てかできるって言え」
「は? おま……」
一瞬ポカンと間抜けな表情をさらした民銘は次の瞬間血の気が引いた顔で身を乗り出した。
だが黄季はそんな民銘を片手で制する。
「やらなきゃ、全員まとめて死ぬだけだ」
基盤がすでにある結界の力を引き出して強め、まずこの妖怪が起こす瘴気と砂の嵐を止める。結界の効力が急に上がり、その引き金に黄季の霊力が使われたことに皆が気付いてくれれば、きっと彼らも黄季の意図に気付いて後押しをしてくれる。
討伐そのものは上役達に任せ、自分はそのきっかけになる部分を作り出す。それが黄季がこの場で負うべきと判断した己の役割だ。
だがそのきっかけを作るにしても、黄季の力が足りるかどうかは分からない。
「民銘」
だけどそれ以上に『力が足りないから』という理由だけで、できるかもしれないことから逃げてうずくまり続けるような存在ではありたくなかった。
強く同朋の名を呼ぶ。その声の強さに民銘がギリッと奥歯を噛み締めたのが分かった。
「……倒れたら、承知しねぇんだからな」
低い呟きは、パンッという鋭い柏手の音に掻き消された。力強い音は、ただ響いただけで周囲の空気を軽くする。
「テメェら二人ともまとめて面倒見ることになったら、俺、泣いちゃうんだからなっ!!」
そんな空気の中に情けない絶叫を響かせた民銘は、片手で懐から引き抜いた符を構え、もう片方の手を黄季へ差し伸べる。
「『地には蓮華 天には光明 ここは楽土の
その手に右手を預けた黄季は左手を地面に降ろした。そのまま瞳を閉じて左の
「『咲き誇れ その美しき花弁を以って楽土安寧を導かん 白蓮華』っ!! ……オラ、行ってこいっ!!」
背中を蹴り飛ばすような民銘の声と共に黄季の意識が地脈の中に飛び込む。民銘の霊力の軌跡をたどるように意識を伸ばせば呪石へはすぐにたどり着けた。民銘が言う通り呪石と呪石を繋げるように走る結界の術式と結界の起動を支える霊力はいまだに生きている。次いでその術式に意識を這わせれば、忌地を囲む呪石と結界の全容は思っていたよりも簡単に把握することができた。
──後は、この結界に通う力を上乗せできれば……
『以前にも指摘したが、お前は霊力の巡らせ方に難がある』
ふと、こんな時なのに、あの涼やかな声で紡がれた言葉を思い出した。
『退魔術を己の身の内にある霊力だけで行使しようとしていないか?』
『え? そ、それ以外にどうやって行使しろって言うんですか?』
『退魔術は、己が身の内にある霊力を呼び水として使い、大地に流れる地脈の力を引き出して行使するものだ』
あの屋敷に通うようになって、すぐに教えられたことだった。思えばこれが氷柳から初めて受けた指導だったかもしれない。
『つまり、消費される力はほぼ地脈から引き出された力。己の霊力は、引き出した地脈に色を付ける程度に混ぜればいい』
──ここは忌地だ。陰か陽か別として、力ある気だけは馬鹿みたいにある。
黄季は意識を集中させると己の霊力を振るう。自分の力を直接結界の術式に流し込むのではなく、ぬかるんだ沼地をジワリと踏んで水を出させるように、この地に流れる力を己の霊力を媒介にして引き出す。その力を、術式の中へ送り込む。
──大丈夫。今の俺ならやれる。だって、氷柳さんが教えてくれた。
ジワリ、ジワリと少しずつ満ちてくる力を、焦ることなくゆっくりと術式に流し込んでいく。トクトクトクと、目の前に置いた桶にゆっくりと水を満たしていく感覚で。
──大丈夫。規模が大きいだけで、そこまで複雑な結界じゃない。術式の基礎は、俺だって知ってるやつだ。
徐々に結界が力を取り戻していくのが分かる。新たに聞こえてきた低い耳鳴りは、決して黄季達を害するものではない。
「黄季……っ!!」
力が、満ちる。
それを感覚として掴んだ瞬間、ぽぅっと視界が明るくなった。瞼を開けて周囲を見遣れば、黄季を基点として力を取り戻した結界が大地に光の線を走らせているのが見える。
──やれるっ!!
「『汝は
己の直感に従って口ずさんだ呪歌は、基本も基本の結界呪だった。それでも結界は黄季の声に応えるかのように輝きを増す。
「『界断絶
術式に満ちた力が天に向かって立ち上る。今まで砂嵐に掻き消されかけていた不可視の壁が、もう一度力を取り戻し、黒炎とともに吹き荒れていた砂嵐を壁の中に閉じ込める。
「やった……っ!?」
「まだだ」
立ち上がる結界を見上げた民銘が歓喜の声を上げる。
だが黄季はそこで手を緩めることはなかった。右手を民銘に、左手を大地に預けたまま続く呪歌を紡ぐ。
「『この穢れを祓え これは神の息吹 ここは
結界の術式に力を注いでいる時、各呪石を必死に守ろうとしている退魔師達の気配も掴んだ。欠けている所もあるが、半数近くは粘ってくれていた。
彼らなら、今の結界の反応で黄季の意図が分かったはずだ。そして分かってくれたなら、次に来る術式だって予想してくれているはず。
──どうか届いて……っ!!
「『ここを
そんな願いを乗せ、黄季は結界に新たな術式を送り込んだ。既存の結界に上乗せされた修祓呪が結界に流れる力に従って大地を巡る。呪石を経由するごとに勢いを増していく修祓呪には確かに黄季以外の霊力の色があった。勢いを増した修祓呪は結界面から噴き出るように広がり、黒炎を纏う砂嵐を優しく、だが容赦なく祓い清めていく。
そんな風に下から押し上げられるように、足元から視界が晴れた。
「やっ……」
黄季の口から思わず歓喜の声が漏れる。
だがその声はたった一瞬で喉の奥で
結界の中心。砂塵が祓われた先。この嵐を、そこに在るだけで引き起こした原因。
その原因と、黄季の視線がかち合う。
──ヤバイ
それが何であるのか理解するよりも前に警鐘が鳴り響いた。そして警鐘が鳴っていると理解した時には目の前に真っ黒な
──あ、これ、死……
「黄季……っ!!」
民銘の絶叫が響く。だが意識がまだ地脈と繋がっている黄季は迎撃することも逃げ出すこともできない。
ただ、迫りくる死を見つめていた。
その瞬間、だった。
「『
バツンッと空間そのものが捩じ切れるかのようなすさまじい衝撃が目の前を通過した。その衝撃に押されて妖怪が吹っ飛ばされていく。遅まきながら瞼を閉じた黄季の耳にザッと地面を踏み締める足音が響いた。
「お前ら無事かっ!?」
「おっ……恩長官っ!!」
民銘の涙声がその人の名を叫ぶ。その声を聞いてから、黄季は怖々瞼を開いた。
術の余韻に翻る見慣れた薄青色の衣。いつもはその腰に翡翠の佩玉が下げられているのに、今日は青と赤、二つの見慣れない佩玉が揺れている。さらにそこから顔を上げれば、この場で一番頼りになる人が安堵の息を
「……長官」
「よく持ちこたえてくれた」
珍しく焦りを顔に浮かべて登場した
「お前が展開してくれた結界と修祓呪のおかげで連携を取り戻せそうだ。
そんな黄季達に慈雲はテキパキと指示を出す。
だがその声が途中で凍り付いたように止まった。バッと顔を振り向かせた慈雲の背中が後ろから見ても分かるくらいに強張っている。
「……おいおいおいおい、嘘だろ……?」
慈雲の声が上ずっていた。
そんな慈雲の後ろから慈雲が見つめる先を追った黄季は、そこにある光景を見つけてヒュッと息を呑む。
姿を現した妖怪は、巨大な虎のような姿をしていた。慈雲の術に叩かれて地面を跳ねるように吹き飛んだ妖怪は、しばらく地面でもがいてからムクリと立ち上がる。
そしてブルルッと体を震わせ、分裂した。
まるで猫が毛皮の水を振るい落とすかのような仕草。普通の猫と違うのは、撒き散らされる物が水ではなく瘴気で、そのひとつひとつが地面に落ちるたびに新たな妖怪が生まれてくること。
頭の先から尾の先まで震わせた妖怪は、後ろ足で首筋を掻きむしり、ひとつ伸びをしてから天を見上げて咆哮を上げる。
『──────────っ!!』
天をつんざく音の暴力に追従するかのように、生まれ落ちたモノ達も叫ぶ、跳ねる、騒ぐ。
「……効いてない所の話じゃねぇ」
慈雲の声が、乾いてひび割れた。
絶望した人間の声だった。
「どうしろってんだよ、こんな……一体一体撃滅するにしたって、こっちの手数が……」
目の前には、呼吸数回分の間に広がった漆黒の軍勢。対する泉仙省は疲弊し、頭数を減らしている。
──恩長官で無理なら、俺達だって……
囁くように落とされた絶望の声を聞いてしまった黄季の心も揺れる。
その動揺が瘴気を核とする妖怪には巡る気を介して伝わるのだろうか。
虎の妖怪がピシリと尾を振る。その瞬間、妖怪の視線が全て黄季に向いた。
「っ!!」
──こいつら、俺が結界展開の核だって気付いて……っ!!
現状、妖怪を忌地の中に封じ込めている結界を支えているのは黄季だ。黄季が倒れればこの結界はもはや存在を維持していられない。
凍り付く黄季の視線の先で、スッと天を仰いだ虎が天を落とす勢いで
それを合図に漆黒の軍勢が雪崩となって動き出す。
「っ……『汝の足は汝にあらず 汝の腕は汝にあらず 汝の四肢は汝にあらず 汝 いかにして地を這うこと
我に返った慈雲が数珠を手に絡めながら印を切る。
「『阻め 不動結界呪』っ!!」
慈雲が築いた結界が新たな壁を立ち上げる。その瞬間、慈雲は黄季達を振り返って叫んだ。
「お前らっ!! 俺が足止めしてる間に動ける人間全員纏めて撤退しろっ!!」
「!? 長官はどうするつもりですかっ!?」
「こいつらを完全に消し飛ばすには土地ごと吹っ飛ばすしかもう手がない。引き付けるだけ引き付けたら派手にかち上げる」
「っ!? 長官を一人残して撤退しろって言うんですかっ!?」
「それしかないだろ」
言い合う間にも妖怪の波は距離を詰めている。もう時間はない。慈雲が築いた結界と前線がかち合うまでに残された時間はあと数十秒といったところか。
──何か手は……っ!!
「さっさと行けっ!!」
思考が凍り付いた黄季に叱咤の声が飛ぶ。
「黄季っ!!」
我に返るのは民銘の方が早かった。左腕で明顕の体を抱えた民銘が右手で黄季の腕を掴む。
それでも黄季は、諦めきれなかった。
──こんな時、どうしたら……っ!!
そんな黄季の脳裏に浮かぶのは、疑問をぶつければいつだって一緒に考えてくれた佳人の姿で。
「氷柳さん……っ!!」
気付いた時には、すがるような声が漏れていた。
そんな黄季の声に応えるかのように、瘴気に澱んだ空を裂く鋭い風切り音が聞こえたような気がした。
「『咲け』」
一瞬、彼を望みすぎた自分が幻聴を聞いたのかと思った。
「『
凛とした声が、全ての音を掻き消して、一瞬の静寂が生まれる。
その静寂に導かれるかのように瞼を開いた黄季は、慈雲が築いた結界と漆黒の波のちょうど真ん中を取るように大地に突き立てられた
どこからともなく現れた飛刀は限界まで縮められた呪歌に応じて地脈を吸い上げ、白銀の閃光とともに爆発する。
「な……っ!?」
爆発はその一回だけでは収まらなかった。基点となった飛刀を中心とするように爆発は左右に広がっていく。
まるで漆黒の大地に白銀の花が乱れ咲くような景色。閃光は断末魔さえ許さず妖怪の身を焼き、黒い花弁のように舞う瘴気の残滓さえ飲み込んで消し飛ばしていく。
「『爆華乱連』……そんな、……仕込と、長文詠唱が必須な上位爆撃呪じゃ……」
突然巻き起こされた爆撃に民銘が呆然と呟く声が聞こえた。
だが黄季はその声を聞いていない。
「これが今の泉仙省の総力か。随分と貧弱になったものだ。情けないにも程がある」
涼やかな声とともに、大地を踏み締める足音が聞こえる。
「先日、お前に言われた言葉をそのまま返そう」
振り返る。
この全てが、幻でありませんようにと切に願いながら。
「お前は随分としょぼくれたな、慈雲」
黄季達の後ろに、その人はいつの間にか立っていた。
後ろ頭の高い位置でひとつに結わえられた髪は、冠に納まりきらずに毛先が背中で揺れている。きっちりと着付けられた袍の色は白。帯と袴は
「……氷柳さん」
小さく名を呼ぶと、氷柳の瞳が黄季を捉えた。その瞬間、氷柳の瞳がわずかに揺れる。
「氷柳さん、どうして……」
氷柳は、戦いの場に引き出されることを
それなのに。
「こんな風に、出てきたら……っ!!」
全て、無駄になってしまうのに。
また、戦いの場に、引き戻されてしまうのに。
「……
氷柳の登場は慈雲にとっても想定外のことだったのだろう。呆然と呟く慈雲は今まで見たことがないほど
そんな慈雲の声に、氷柳の視線が慈雲に向け直された。慈雲の腰に二つの佩玉が揺れる様を見た氷柳は、一瞬だけ痛みをこらえるような表情を浮かべる。
「お前、何を悠長にチマチマと立ち回っている。それでも『
だがその表情は、本当に一瞬だけで消えてしまった。
「情けない。しょぼくれるにも程がある。お前のかつての後翼が今のお前を見たら何というか」
「……は?」
「さぞかし嘆くだろうなぁ? もしくは『調教』という名の折檻行きか?」
真っ直ぐに慈雲に向け直された顔に浮かんでいたのは、呆れや憐憫といった感情を含んだ嘲笑だった。冷笑、と言ってもいいかもしれない。元々の顔立ちが涼やかに整っている分、氷柳はそんな表情が実に様になる。
「以前のお前なら、これの二倍や三倍過酷な現場でも鼻歌混じりに片付けられただろうに。書類仕事というぬるま湯に浸かりすぎて現場を忘れたか?」
──……え? これってもしかして、この間の意趣返し?
黄季は思わず状況も忘れて目を
「あー、情けない、情けない。泉仙省
そんな一行を前になぜか氷柳は絶好調だった。軽く肩をすくめた氷柳はハンッと軽く鼻先でも笑う。
その瞬間、黄季は傍らからブチッと何かが千切れる音を確かに聞いた。
「お……ん、前はよぉ……っ!! 黙って聞いてりゃ……っ!!」
黄季は動きがぎこちない首を動かして傍らを見上げる。
その瞬間、ブワッと怒りの色を乗せた霊力が立ち上った。
「八年も自分勝手に引き籠っていやがったテメェにやいのやいの言われたかねぇわっ!! しょぼくれただぁっ!? 『立場をわきまえて行動できるようになった』って言えやっ!!
「ほぅ? 昔の自分が無鉄砲だった自覚はあるのか」
「俺っつーか、俺を引っ提げた
「後輩の後翼に引きずられて前線に投げ込まれる前翼……。確かにあれは
「敷かれてねぇっ!!」
「そもそも今歯痒さを感じているなら、歯痒くならない方法を考えて現場を仕切ればいいだろう」
「うるっっっっせぇわっ!! 今の俺には後翼がいねぇんだよっ!! そんな簡単に無茶できるかっ!!」
二人の言い合いにただ圧倒されていた黄季はその言葉にハッと目を瞠った。後ろにいた民銘も恐らく同じ反応をしていただろう。
青い衣や青い佩玉は前翼の位階を持つ退魔師である証だ。慈雲が前翼の位階持ちなのだろうということは前から分かっていたが、今までそんな慈雲の対とみなされる退魔師には出会ったことがない。
つまり慈雲は今、片翼を失った状態なのだ。
──もしかして、今長官の腰にある二つの佩玉って……
「あーもう分かった! やってやんよっ!! 引き籠って真実しょぼくれたテメェに八年体張ってきた俺が目にモノ見せてやんよっ!!」
不意にそんな空気を慈雲のやけっぱちな声が引き裂いた。
パンッと慈雲の右の拳が左の手のひらに打ち付けられる。右の親指の付け根を左の
その手に左の手のひらから零れ落ちた光が刃を形作る。
「後で『申し訳ありませんでした慈雲様』って泣いて詫びやがれっ!!」
重い風切り音とともに振り抜かれた慈雲の右手には、刃先から柄までの長さが慈雲の足先から肩くらいまでありそうな長大な刀が握られていた。身幅が広く、厚さと反りもある偃月刀だ。初めて目にしたが、これが前翼として前線を舞う慈雲の呪具なのだろう。
「涼麗、お前、そんな大口叩いたなら、このまま『はい、さよーなら』なんて無様をさらすつもりはねぇだろうな?」
いかにも重そうな刃を片腕で肩に担ぎ上げた慈雲は鋭い目で氷柳を見据える。その言葉に氷柳の瞳が揺らいだのを、黄季は確かに見た。
色の薄い唇が、ゆっくりと開く。
「まっ、待ってくださいっ!!」
その瞬間、黄季は思わず叫んでいた。不意を突かれたような顔で氷柳と慈雲、二人ともが黄季を振り返る。何を訴えたいのか分からないまま二人の間に割り込んだ黄季はそんな二人を前に思わずたじろいだ。
「ひ、氷柳さんは……っ!!」
戦いたくない。これは間違いなく氷柳の本心だろう。
だが氷柳は己の意志でこの場に出てきた。状況的にも氷柳に頼らずこの場を切り抜けることはもはや不可能だろう。
氷柳に戦ってもらうしかない。
それでも心の奥底には納得できない自分がいる。
『……戦わなくていい、と。……そう言われるだけで、ここまで心が救われるとは』
あんなことを言っていた氷柳を、戦場に引き戻していいはずがないのだから。
「……鷭黄季」
氷柳を見上げたまま言葉を失った黄季から、氷柳は一体何を読み取ったのだろうか。
ふと、涼やかな声が黄季の名を呼んだ。
初めて、この声に名を呼ばれた。
「お前に、訊ねたいことがある」
無防備に氷柳を見上げ続ける黄季に氷柳が向き直る。
「お前の家族は、『戦いたくない』と泣きながら戦場に旅立っていって、皆亡くなったと聞いたが」
黄季を静かに見据えて、視線と同じく静かな声で言葉を紡ぎながらも、氷柳はユラユラと瞳を揺らしていた。
「もしもお前の家族が『戦いたい』と言って自らの意志で戦場に旅立っていたのだとしたら、お前は家族を笑顔で見送ったのか?」
その揺れが何から来るものなのかは、黄季には分からない。だがその問いが氷柳にとって酷く重要であるということだけは分かった。
だから、一度しっかりと己の心を見つめて、無意識にでも偽りを紡いでいないかを確かめて、コクリと空唾を呑んでから、唇を開く。
「笑顔で、っていうのは、多分、無理です。家族が、己の意志であっても戦場に出るってなったら……多分俺は、泣いてました」
黄季が必死に紡ぐ言葉を、氷柳は屋敷で黄季と向き合っていた時と同じように静かに聴いてくれる。瞳を揺らめかせながらも、真っ直ぐに黄季に視線を据えて。
だから黄季も、同じように真っ直ぐに氷柳を見つめて、ありのままを口にする。
「でもきっと、泣きながらも、『気を付けてね、絶対に帰ってきてね』って、送り出すことはできたと、思います」
そんな黄季の言葉を受け止めた氷柳が、何かを思うように静かに瞼を閉じた。
「……そうか」
一瞬、世界の全てが止まってしまったかのような静寂が訪れる。
そんな世界に染み込ませるかのように、ポツリと氷柳の声は落ちた。
「ならばそれがきっと、私にとっての答えなのだろう」
「……え?」
氷柳の瞼が静かに上がる。再び現れた瞳はもう揺れていなかった。
水鏡のように凪いだ瞳に意志の光を宿した氷柳は、振り向きざまに左腕を振り抜いた。その手から放たれた飛刀が追撃を掛けようとする漆黒の波に突き刺さり、新たな爆風を生む。
「場にいる退魔師を全員下げろ」
鋭く敵陣を見据えた氷柳は懐から
結局氷柳は慈雲の問いに是とも否とも答えていない。だがその行動と物言いは完全に氷柳が戦うことを選んだと物語っている。
「怪我人は優先的に泉仙省へ転送。動ける人間を結界展開補助へ回し、鷭黄季から結界展開を移動させろ」
付き合いが長い慈雲にはそれだけで返答として十分だったのだろう。慈雲の顔に喜色を乗せた好戦的な笑みが翻る。
だが氷柳が続けた言葉にその笑みが凍り付いた。
「あぶれた人手は全員お前の後翼にくれてやる」
「は? お前、単騎で前線に出るつもりか?」
「誰がそんなことを言った」
慈雲が肩に偃月刀を担いだまま驚愕とも疑念ともつかない表情で氷柳を見遣る。
そんな慈雲に対して涼やかに笑んだ氷柳はそのまま視線を黄季に流した。
「私の後翼はこれが務める。だから他の有象無象どもはお前にくれてやると言っているんだ」
「はぁっ!?」
叫んだのは慈雲だけだった。指名された当人である黄季は突然のことに驚きすぎて叫ぶことさえできずに氷柳を見上げる。
──え?
「正気か涼麗っ!?」
「正気も何も。今の私に合わせられる退魔師はこれしかいまい」
やっとのこと内心で呟いた言葉が『え?』だけだったというのに、氷柳はそんな黄季を待ってはくれない。詰め寄る慈雲を軽く流した氷柳は、常と変わらず、……いや、常よりも自信にあふれた涼やかな笑みで黄季を流し見る。
「そうだな? 黄季」
「……っ!!」
戦いたくないと言っていた氷柳が、なぜこの時に戦場に舞い戻ったのか、黄季の答えに零した言葉の真意はどこにあったのか、黄季には少しも理解ができていない。
それでも。
それでも、そんな氷柳が己の意志で戦場に立つというならば。共に戦えと言ってくれるなら。
吊り合いも何もかもをすっ飛ばして、そんな氷柳は自分が守りたいと、強く思った。
だから黄季は躊躇いの声を全て呑み込んで、力を込めて腹の底から叫ぶ。
「はいっ!!」
そんな黄季に、一瞬だけ氷柳が牡丹のような笑みをこぼす。
だがそんな華やかな笑みは敵陣に視線が戻された瞬間掻き消えた。
「頭を潰さんことにはどうにもならん。小物は適当に蹴散らして虎を落とす」
「あいよ」
「各後翼は前翼の援護。結界展開組は妖怪に新たな瘴気を供給させないように修祓を続けるように」
氷柳の声に応えた慈雲が懐から引き抜いた信号弾を幾つも打ち上げる。視界が晴れた今ならばこの信号弾で皆と連携が取れるはずだ。
「氷柳さん」
慈雲が信号弾を上げている間になんとか立ち上がった黄季は、懐に片手を突っ込みながら氷柳に駆け寄った。そんな黄季にもう一度氷柳が顔を向けてくれる。
「これ、持ってってください」
黄季が懐から取り出したのは『
「……これは」
「目印にしたいんです。今度こそ、氷柳さんを見失わないように」
空いている氷柳の左手を無理やり取って手鏡を押し付けた黄季は、そのまま氷柳の手と手鏡を己の手で包み込むように握りしめた。
「このひと月、ずっと持ち歩いてたから。この手鏡には今、俺の力が通ってます」
以前触れた時よりも、氷柳の手は温かかった。
綺麗なのに武骨さもある氷柳の手をそっと握りしめ、黄季は決意とともに氷柳を見上げる。まっすぐに氷柳を見上げた自分は、きちんと力強く笑えているだろうか。
「貴方が飛ぶ空は、穏やかです。御武運を」
宣誓と祈りの言葉とともに氷柳から手を離す。
そんな黄季を目を丸くしたまま見つめていた氷柳が、ゆるゆると笑みを浮かべた。
「……貴君の瞳に蒼天が掛からんことを」
応えの言葉に黄季は力強く頷くと一歩後ろに身を引いた。氷柳は黄季から受け取った手鏡を懐にしまいながら慈雲を振り返る。そんな氷柳にニッと慈雲が笑いかけた。
「んじゃ一丁、行きますか、ねっ!!」
慈雲と氷柳の間に打ち合わせの言葉はなかった。
それでも計ったかのように同時に二人は前へ踏み込む。踏み込みと同時に放たれた氷柳の飛刀が新たに前線を
──っ、早いっ!!
前翼二人は手元の刃で妖怪を
──させるかっ!!
「『月影 幻 春霞 汝に触れること能わず
黄季は氷柳の懐にある己の霊力の欠片に集中すると、欠片を基点として円を描くように防護の結界を展開する。黄季の結界に弾かれた妖怪達は氷柳に手を掛けることができずに地に落ちていく。これで氷柳は目の前だけに集中できるはずだ。
「『
黄季の結界に守られた氷柳が新たに飛刀を放つ。
その瞬間、強く大地を蹴って跳ねた慈雲が偃月刀を大きく振りかぶりながら叫んだ。
「『薙ぎ払え
霊力を受けた偃月刀がまばゆい光を放ちながら刃の軌道の先まで斬撃を放つ。ドガッというすさまじい衝撃とともに大地が割れ、慈雲の前に一筋の道が開いた。その道をさらにこじ開けるかのように氷柳が放った飛刀が爆ぜる。
「涼麗っ!!」
着地と同時に偃月刀の切っ先を地面に突き立てた慈雲が叫ぶ。こじ開けられた道に氷柳が飛び込むと同時に慈雲は偃月刀を通じて大地に術式を撃ち込んだのか、慈雲を中心に円を描くかのように光が炸裂し、大地ごと妖怪が消し飛ばされた。
「『打ち祓え 打ち消えよ
外周を囲む結界の力が上がっているのか、結界内の瘴気は格段に薄くなっている。討たれた妖怪が再生せずに消えていく一方なのがその証拠だ。
押せば勝てる。
その希望を胸に黄季は氷柳を中心に修祓呪を展開する。この軍勢の頭である虎の妖怪に向かって真っすぐに突き進む氷柳の周囲からわずかに瘴気が薄れた。
その瞬間、ついに氷柳が虎の前に躍り出る。
『────────っ!!』
虎も目の前に飛び出してきた退魔師が己の身を削っている諸悪の根源だと理解しているのだろう。出会い頭に氷柳が打った飛刀を遠吠えと振り抜いた尾で叩き落とした虎が氷柳に飛びかかる。
その攻撃を見越していた黄季は数珠を引きながら印を切った。
「『打ち祓え
氷柳の身を守るように展開されていた結界面を伝って雷撃が走る。雷撃に弾かれた虎がひるんだように一瞬氷柳と距離を取った。
その瞬間を、氷柳は決して逃さない。
「『これは天の声 天の怒り 天の裁き』」
匕首を鞘に戻した氷柳の両手から幾重にも飛刀が放たれる。乱れ討たれた飛刀は虎を囲うように地面に突き立てられた。
「『
氷柳の指が複雑に印を切る。涼やかな声に呼応するかように飛刀に白銀の光が宿り、やがてその光は虎を囲い込むかのように互いを基点として線を結ぶ。さらにそれを援護するかのように泉仙省が展開する結界と氷柳のために展開された黄季の結界も輝きを増した。
その全てを従えて、氷柳が組んだ印を叩き落す。
「『
一瞬の静寂。
その後に天から叩き付けられた光の刃は轟音とともにすべてを白く焼き尽くした。
「……っ!!」
黄季は思わず息を詰めると両腕で顔を庇った。視界を焼く閃光と耳を
「……っ」
袖をはためかせていた風がゆっくりと凪いでいく。同時に、黄季達を守ってくれていた慈雲の不動結界と民銘の白蓮華がホロホロと崩れて消えていくのが分かった。
そっと、腕を退かして、先を見つめる。
そこに広がっていたのは、荒野だった。雷帝に討たれて焼けた地面の上を渡る風が空に還っていく。その中に舞う黒い残滓は
「……やっ、た……」
カクリと膝から力が抜けた黄季は今度こそ地面にへたり込んだ。
──生きてる。
視線を落とした自分の両手が震えていた。重く体にのしかかる疲労感も、体の震えも、生きていられなかったら今頃感じられなかったものだ。
「……お疲れさん」
そんな当たり前を今更噛み締めていた黄季の上からポンッと言葉が降ってきた。ハッと顔を上げればいつの間にか歩み寄っていた慈雲が土埃に汚れた顔で疲労が混じった笑みを浮かべている。
「よく頑張ったな」
その短い
「長官……」
思わず黄季の涙腺が緩む。
そんな黄季にひとつ笑みをこぼしてから、慈雲は背後を振り返った。
「お前も、ありがとな」
そこには、こちらに歩み寄ってくる氷柳がいた。その歩みは相変わらず優雅で、白衣にはやはり汚れのひとつも見当たらない。先程までの戦闘を見ていなかったら、今現場に到着したばかりだと言われても信じてしまいそうなたたずまいだ。
「来てくれてなかったら、俺ら全滅してたわ」
「……お前が私を泉仙省に復帰させようとしていたのは、こういう事態を見越していたからか?」
不意に、氷柳が問いを口にした。その問いに慈雲が表情を引き締める。
「……そうだと言ったら、戻ってきてくれるのか?」
問いに問いで返された氷柳は、慈雲と数歩の間合いを残して足を止めた。慈雲の傍らに黄季もいるから、黄季とも同じ間合いで向き合っていることになる。
真っ直ぐに慈雲を見据える氷柳の瞳は、もう揺れていなかった。深く清水を湛えた湖のように凪いだ瞳をした氷柳は、静かに唇を開くと慈雲への答えを口にする。
「条件がある」
深く染み入るような声は、凜と荒野に響いた。
「私の後翼は鷭黄季で固定。……この条件を泉仙省が呑めるというならば、復帰してやってもいい」
「……え?」
だがその内容は、耳を疑うような代物だった。
聞き間違いようなどない。だがどう考えても聞き間違いでしかない内容に黄季は思わず慈雲に視線を流す。だが慈雲が聞き取った内容もどうやら同じであったらしい。ポカンと口を開けて固まっていた慈雲は、ノロノロと上げた指を氷柳に突き付けてやっとのことで言葉を口にする。
「固定、って……それ、お前から、黄季に比翼宣誓を申し入れるってことか……?」
「そうだが?」
「おまっ……正気かっ!? こいつはまだ位階拝受どころか翼編試験さえ受けてない
「関係ないだろう。私に合わせきれる退魔師は現状これだけだ。成果は先程十分に示した。それに」
慌てふためく慈雲に涼麗は涼やかに笑みを向けた。冷笑というか、何か悪だくみを隠しているような、そんな温度の笑みを。
「無位階であることが問題であるならば、翼編試験を経ずともすぐに位階を得られる方法があるはずだ」
「はぁっ!?」
「『前翼及び後翼の位階は、翼編試験の合格者並びに四位以上の位階を持つ退魔師の推薦を得た者に授けるものとする』……何せ、私自身が後者で位階を得た身だからな。おかげで私は入省当時から白衣で青輝石の佩玉持ちだったわけだが」
確かに、氷柳が言っていることは正しい。ほとんどの人間が翼編試験を経て位階を得ることになるが、稀にずば抜けた実力と有力な後見人を持った者が入省すると翼編試験という過程をすっ飛ばして位階を得ることもあると聞いたことがある。
──え? でも何で今その話が?
いまいち話についていけていない黄季はポカンとしたまま二人を見上げ続ける。
そんな黄季の前で、氷柳が華のように
「さて。私の記憶が正しければ、泉仙省に属していた当時の私の位階は三位の下……ああ、確か乱を平定した功績で、
常ならば魂を抜かれるほどに見惚れるその笑みに、今はなぜか危機感を覚えるのは、一体どういうことなのだろうか。
「そんな私を泉仙省に呼び戻すにあたって、まさか四位以下の位階に置くなんてことはあるまいな? なぁ、恩慈雲泉部長官?」
簡単に国くらい傾けられそうな毒花の笑みを浮かべたまま、氷柳はわずかに小首を傾げた。そんな氷柳に顔を引き
──え……え? ……つまり、俺は、氷柳さん……というより『汀涼麗』の推薦で、翼編試験を受けてないのに位階拝受しちゃうってこと?
「まあ、返事を急かすつもりはない。私は屋敷でゆるりと返事を待つとしよう」
最後まで綺麗に笑って言い切った氷柳はチラリと黄季に視線を流した。ほけらっ、と実に気が抜けた表情をさらす黄季を見た氷柳は、その瞬間だけ毒気のない、あの牡丹が咲き誇るような華やかな笑みを浮かべる。
「返事はこれに持たせろ。これにだけ屋敷の場所が分かるように結界を組み替えておいてやる」
そう言うと、氷柳は黄季達の傍らをすり抜けて去っていった。ハッと我に返った黄季が振り返った時にはもう姿がなかったから、転送陣でも使ったのだろう。
「……『返事はこれに持たせろ』って、……それってつまり、『返事は「応」しか受け付けていないからな』ってことじゃねぇか……」
残された慈雲が頭を抱えて呻くように呟く。それでもいまいち事の重大性が飲み込めていない……というよりも、事が大きすぎて理解を放棄してしまった黄季は、何も考えられないまま空を見上げた。
氷柳が取り戻してくれた空は、あんなことがあった後だというのに、抜けるように青かった。
「蒼天……」
こんな空を飛ぶ鳥は、きっと、さぞかし気持ちが良いことだろう。
へたり込んだまま空を見上げた黄季は、そんなことを思うと口元に笑みを浮かべていた。
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