第250話 ヒルデガルドの戦い(イルスデン)

 アデルたちが北部連合との決戦を間近に控える中、帝都イルスデンでも別の戦いが幕を開けようとしていた。


 白慈宮と呼ばれる壮麗なイルズデン城の廊下。そこを一人の女性が歩いていた。歩くたびに宙を跳ねる、柔らかで艶やかな金髪。神話から抜け出した女神のような美しい顔に、警備の兵士たちも思わず見惚れている。しかしその表情は硬く、まるで戦にでも赴くような鋭いまなざしで、ひとつの扉の前で歩みを止めた。


「ヒルデガルド、到着しました」


 その女性、ヒルデガルドの言葉に応じ、扉が開かれた。


「これはこれは姉上。お久しぶりです」


 扉を開けた小姓がヒルデガルドに微笑む。その小姓の名はエデルーン。皇帝ロデリックの末子であり、母親は違うがヒルデガルドの弟にあたる。しかし笑顔のエデルーンの視線になにか不気味なものを感じ、ヒルデガルドは身震いした。


「……父上にお目通りをお願いします」


 ヒルデガルドは不安を押し殺し、エデルーンの視線を真っ向から受け止める。


「……どうぞ」


 エデルーンの返事には一瞬だが奇妙な間があった。だがヒルデガルドにそれを気にしている余裕はなかった。この後に対峙しなければならない相手、それはこの世界で最も大きな権力を持つ男。ヒルデガルドの父親である、皇帝ロデリックなのだ。


「失礼します」


 ヒルデガルドは奥の部屋へと足を踏み入れる。部屋にいたのはヒルデガルドの姉に当たる、皇帝第二子ユリアンネ。そして大きなベッドに横たわる老人だった。老人を見て、ヒルデガルドは拍子抜けした。


「父上……」


 ヒルデガルドは茫然と呟く。野心と熱意、それに才覚にあふれ、さらに武の達人でもあったロデリックは実際の体格以上に大きく見える存在であった。会うたびにヒルデガルドはその圧倒的な存在感に震えたものであった。


 しかしヒルデガルドの前でベッドに横たわるロデリックは、同一人物とは思えないほど年齢相応に衰え、痩せこけている。瞳に宿る炎のような輝きだけがロデリック本人だと物語っていた。


「……大きくなったな、ヒルデガルド」


「え?」


 ロデリックの言葉にヒルデガルドが驚く。その言葉はまるで普通の父親のような言葉であった。実の親子とはいえ、ヒルデガルドがロデリックと家族のように過ごすことはなかった。しかしそれゆえに、一般人と同様にヒルデガルドにとってロデリックは畏怖と憧れの対象であった。


 その名に恥じるような行いをしてはいけない。その血に相応しい人間にならなければならない。そう思ったヒルデガルドは幼いころより厳しく自分を律し続け、武人として憧れの父親のようになることを夢見てきた。


「ラーゲンハルトも息災か?」


 穏やかな表情でロデリックが尋ねる。


「は、はい」


「そうか……下がって良い」


「なっ!?」


 ヒルデガルドは言葉を失う。神竜王国ダルフェニアの捕虜となった経緯等を色々聞かれると思っていたが、あっさりと退室を命じられたことが信じられなかった。


「アーロフの作戦は存じておる。そして向こうにラーゲンハルトがいたとなれば、話を聞かずとも大体の予測はつく。そしてダーヴィッデがお前についたことで、暗殺事件の真相もだいたいわかった。何か補足しておくことがあれば聞こう」


 ロデリックが静かに語る。ユリアンネも黙ってヒルデガルドを睨んでいた。


(二人は気付いていない……その中心にアデルさんがいたことを……)


 ヒルデガルドは二人が勘違いをしていることに気づいた。神竜王国ダルフェニアがヒルデガルドを保護したのはラーゲンハルトの意向であり、暗殺が失敗したのはダーヴィッデが裏切ったからだと。優れた情報収集能力と分析能力ゆえに、情報を精査した結果、納得のいく説明がついたことでそれが真実だと誤解してしまったのだ。


(もっとも、説明しても信じてもらえないだろうし、説明するメリットもない……)


 ヒルデガルドは少し心に余裕ができた。姉のユリアンネと父親のロデリック。二人の頭脳にかかればあらゆる策謀は見抜かれ、逆に二人の企てからはどんなにもがいても逃れられない。そんな恐怖心があったのだが、神竜王国ダルフェニアの存在はその計算を狂わせている。ヒルデガルドはそう確信し、強張った表情が和らいだ。


「ひとつだけよろしいでしょうか?」


「なんだ?」


 ヒルデガルドの様子にロデリックは意外そうな表情をしていた。


「皇帝の座……必ずや私が引き継がせていただきます」


 ロデリックを見つめながらヒルデガルドが宣言する。隣にいたユリアンネが目を見開いた。


「無駄だ。皇位はアーロフ、あいつが駄目ならその弟のイェルナーに引き継がせる」


 やや険しい表情になり、ロデリックが言った。


「父上がそうおっしゃるのはかまいません。私は私の思いを述べたまでです」


「ふはははっ、そうか」


 ヒルデガルドの言葉にロデリックが笑い出した。


「ならば……力づくで勝ち取るが良い」


 真剣な表情に戻ったロデリックが力強い目でヒルデガルドを見つめながら言う。ヒルデガルドもその視線を真っ向から受け止めた。


「言われるまでもありません。では……失礼いたします」


 ヒルデガルドは一礼すると部屋を後にした。


「なんと不遜な! ラーゲンハルトの影響を受けすぎたのですね」


 ヒルデガルドが退室した室内で、ユリアンネが声を荒げた。


「なるほどな。にわかには信じがたかったが……確かにあれは邪魔になる」


「ヒルデガルドが!?」


 ロデリックの言葉にユリアンネが驚く。そしてしばらくロデリックは黙ったまま宙を見つめていた。


「……必ず殺せ。国を割るわけにはいかぬ」


「……は、はい」


 ユリアンネは思わずたじろいだ。そのロデリックの言葉には、かつての気迫が戻っていたのである。こうして父と子の束の間の再会は、物騒にその幕を閉じた。



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