関門・船の話

@honngou_bukio

第1話 ぶらじる丸

北九州市は,海港都市である。言い換えれば,「船のまち」と言ってもいい。

 例えば,日本中の中学生は,船で製品や材料を運ぶのに便利だったから八幡に官営製鉄所ができたのだ,ということを学ぶ。しかし,船は,北九州市民にとって遠い。

国家は,100年かけて北九州のインフラを整備した。港湾施設もそうである。このため,北九州の海岸の多くは荷捌きの埠頭であり,立ち入ることすら困難である。加えて,船は,貨物輸送の比重が大きく,旅客需要は小さい。

筆者は,船の愛好家である。そして,北九州市民にとって海と船が縁遠いことを惜しいと思う。今般,本稿を作成する機会を頂いた。そこで,北九州に縁があり,劇的な運命をもった船の話をすることとする。

わずかでも,船に関心を持っていただければ望外の幸福である。


1 ぶらじる丸

 ぶらじる丸は,昭和13年(1938年),貨客船として竣工した。端的に言うと,海外航路用の大型・優速の優美な船である。そして,その鮮烈で劇的な最期の姿が絵画として残る。

 総トン数1万2750t,全長155.5ⅿ,全幅21ⅿ。航海速力18ノット(時速約32km),最大速力21ノット(時速約49km)である。速力は,現在の水準でも速い。船体を黒く,上部構造を白く塗っている。青い海と空の下では,力強く鮮やかであっただろう。煙突には,白地に黒字の,図案化された「大」の字が描かれた。大阪商船(現商船三井)の船である。

 内装も特徴がある。国際航路に就航する客船の乗客は,外国人,特に外交官,高級官僚という「上流階級」が乗船する。厳しい審美眼が注がれる。そして外航船として7年前に建造された氷川丸は,内装をスイス製とし,アール・デコ調であった。

しかし,ぶらじる丸の内装は,スィートルーム以下洗練された和風とした。のみならず,船体を生かした間接照明など,独自の意匠も導入した。日本の文化・技術水準の向上を示すと考えてよい。

内装には,村野藤吾が参加した。八幡村で育ち,小倉工業学校を出た建築家である。現在,日生劇場,新高輪プリンスホテル等多数の作品がある。北九州市内にも,旧八幡市民会館,福岡ひびき信用金庫本店がある。

 余談だが建物で言えば,旧大阪郵船門司支店の社屋は現存する。門司区港町にある。白い大理石で縁取られた赤レンガ造り,海沿に面して塔があり,その先端は灯台である。


 ぶらじる丸は,昭和15年(1940年),門司―大連航路に就航した。門司区西海岸に現存する「大連航路上屋」の前から出入港をしていた。

 ところで,ぶらじる丸はその名が示すとおり,台連航路向けの船ではない。インド洋,パナマ運河,欧州を経由する西回り航路の船である。しかし,就航したのは3航海のみだった。1939年に始まったドイツのポーラーンド侵攻と欧州情勢の悪化による。つまり第二次世界大戦である。このため,大連航路に就航した。ただし,大連航路からも1年を経ずして去る。昭和16年(1941年)10月,日本海軍に徴傭された。国庫補助を利用して建造されたぶらじる丸は,戦時,軍事利用することを,考慮されていた。

太平洋戦争が,昭和16年(1941年)12月に始まった。

 

日本海軍は,戦力不足,特に,航空母艦の不足に悩んでいた。そして,海軍は優秀な民間船舶を根こそぎ航空母艦に改装することにした。

 昭和17年(1942年)8月,ぶらじる丸は航空母艦となるべき船に選ばれた。華やかな装いは確定的に無意味となり,旅の豊饒を供する客船としての役割を断たれた。

 航空母艦になると決まったとき,ぶらじる丸は日本から約1875浬(約3740km)離れたチューク諸島(トラック泊地)にいた。急ぎ横須賀港へ入港する旨命令が下った。

 ぶらじる丸は軍艦,しかも需要な戦力である航空母艦になるべき船である。民間人の便乗者も多数いた。また,敵の攻撃,特に潜水艦による攻撃が予想された。

しかし,海軍は,ぶらじる丸が「優秀・優速」であり攻撃を振り切れると判断した。

護衛なし,トラック諸島から横須賀まで単独の航海をすることとなった。


 1枚の絵がある。

 画家・大久保一郎画伯による,ぶらじる丸,そして大野仁助船長の最期を描いたものである。

  絵は,魚雷が命中し未明の暗い海に沈む姿を描く。船の全体像ではない。まっすぐに高く諸手を挙げた人の姿を中心にクローズアップしたものである。普段なら海水面の遥か上にある船橋(船の運転室)が,急角度で波間に沈みつつある。傾いだ甲板の上で,大野船長は「天皇陛下万歳」を唱えていたという。生存者の証言による。

 後世の我々は,「天皇陛下万歳」を理解しがたい宗教的な,ある種ステレオタイプな何かに捉えてしまう。

 筆者は,大野船長のそれを,そのように思わない。

 大野船長は,温厚な,職務に熱心であった。日本から前線へ向かう1か月の航海中,横になって眠ることをせず,船長席を離れなかった。オールウェイズ・オン・デッキ,正真正銘の常在戦場である。

 大野船長は,江戸時代の空気が濃厚に残る明治初頭,初等教育を受け,長じて船員としての専門教育を受けた。そして,外国航路の高級船員として欧米と日本を見た。欧米との技術力,経済力,文化を衡平に比較して考える,冷静な愛国者であったと思う。我々の感覚に近いところもある方であっただろう。

 筆者は,大野船長の「万歳」が非合理かつ精神主義の権化のような「万歳」ではないと思う。


 戦時,海運はその重要性を盛んに唱えられた。しかし,体制はあまりに貧弱であり,船舶の運用は不合理に過ぎた。商船乗組員は,海軍軍人よりも苛烈な海を航海して,海没した。

 大野船長が最期に唱えた万歳は,なんであっただろうか。

ぶらじる丸は,大野船長,そして犠牲者とともに南太平洋の水底に眠っている。



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