第7話我が家に陽キャがやってきた

「ありがと」


 貸したタオルで濡れた髪を丁寧に拭きながら、やってきた女子は俺のことをジトっと見つめる。

 現在は俺が殴られた隙に部屋にはいられ、ぎりぎり土間で待ってもらっているという状況だった。


「ど、どうも......」


 しどろもどろになりながらなんとかそう返す。

 俺はこの女子のことを知っていた。

 小幡三枝おばたさえ。同じ大学の同じ学部、そして当然同じ学年。

 授業は必修でしか一緒にはならないが......あの木村グループの成員なのでいやでもおぼわった。

 あとまあ、何となくどこかで聞いたことがあるような名前の響きだったのもある。

 しかしとはいえ、外見には全く見覚えがない。

 というか、まずこんな立派な胸は画面の中でしか見たことがない。

 すこし体を動かすたびに、たぷんっという音が聞こえそうなほどである。


「......ちょっと」


「っ!」


 とっさに目を明後日の方向に向けた。

 すると頭の後ろから盛大なため息が聞こえる。 

 ......まずい。


「ねえ、ちょっと?」


「な、なんでしょう......」


 小幡に背を向けつつ、ちょうど近く放り出してあった参考書を手に取る。

 そいつのページを開いたり閉じたりして、手持ち無沙汰の状況を何とか打破。

 しかし、もちろんそんなことでごまかせるはずもなく。追及のまなざし(たぶん)が背中にズシズシささるのがわかった。

 ......見てたのばれたか?


「佐伯?」


 小幡のその問いに振り返る勇気を俺はもたなかった。

 ......もしばれていたとしたら、本当に最悪だ。

 明日になれば小幡から木村に情報が渡り、『佐伯クン、ガチどーてーじゃーん!』とか俺に聞こえるようにしゃべる様子が容易に想像できた。


 全身から血の気がさっと引いていく。いま鏡を覗けば、きっと真っ青な顔した俺が映るに違いない。

 ......。


「――だいじょぶ? 顔色悪いよ?」


 横合いから差し込まれた声にハッとしてその方を向けば、小幡の小さな顔が待っていた。

 近くで見れば見るほどきれいな顔だ、なんて能天気な感想が思い浮かぶ。

 が、すぐさま現実に引き戻される。

 とっさに距離を取ろうと足に力が入るが、ギリギリのところでそれをとどめる。

 ......これ以上動揺を見せると逆効果だ。あとで『反応がきもかった~』とか言われかねない。


「ふぅ......」


 一度深呼吸で気持ちを静める。

 よし......。

 体を小幡のほうへ向けて、もう手遅れかもしれないが精一杯平静を装う。


「体調悪いの?」


「いや、ぜんぜん大丈夫です......」


「へえ、そっか」


 俺の返答に、小幡はとくに興味なさそうな声色で返した。

 ......聞いてきたのそっちじゃないのかよ。

 無言で睨みつけてみるも、小幡はいろいろ体勢を変えながら俺の身体越しに散らかった部屋をきょろきょろ見て、まったく気づく気配がない。

 一瞬その動きと同様に激しく動く胸元へ手塚ゾーンよろしく視線が引き寄せられるが、それじゃさっきの二の舞である。いかんいかんと首を振って煩悩を振り払う。


「あの、小幡さん」


「なに?」


 小幡は全く俺に視線を向けることなく、部屋の様子を見るのに夢中のようだった。

 まあ、それはそれで質問する側としては楽でいい。

 俺は特に気兼ねすることなく、最初から気になっていたことを問うてみることにした。


「その、なんで俺の部屋に来たんですか?」


 来客を迎える側としては最悪の質問だとは重々承知しているが、如何せんここは質問せざるを得ない。

 正直、俺のほうからすれば小幡は知っていて当然の人物だ。なんたってあの木村の友人の一人である。意識しないほうがおかしいまである。


 しかし翻って小幡からしてみれば、俺は特に気に掛けるような人物ではない。

 友人に突っかかってきた、いつも教室の端にいる根暗くん。認識としてはそんなところだろう。

 だがいま、こんな大雨の日に俺の部屋にやってきた。さらに言えば、俺は誰にも住んでいるアパートの住所を教えていない。

 部屋番号さえ当てて見せたところからみても、それなりの下準備があって俺の部屋の部屋に来たということになる。


 ......なんだよこの状況、高校の頃の俺だったら『......あれ、こいつ俺のこと好きなんじゃね?』とか恋しちゃってたんですけど?

 と、質問してから少ししてから小幡がようやく俺の目を見た。


「え? べつに、普通にだけど」


「普通にってなんだよ......」


「へ?」


「あ! す、すみません......」


 思わず心の声が外に出てしまった。

 小幡がいぶかし気な視線を向けてきて、一歩後ずさる。


「――ていうか、なんでさん付けなの?」


 が、その差を小幡のほうが一歩詰めてきた。

 嗅ぎなれない甘い香りが鼻腔をくすぐり、顔に血が集まるのが分かった。

 ......いや。それよりもいま聞き捨てならない言葉が聞こえた気がする。


「はい?」


「昔は呼び捨てだったじゃん」


「え?」


 今なんて言った?


「昔?」


「そうそう」


 小幡に冗談を言っているような感じは見受けられない。

 となると、本気で言っているのか、それとも人違いか。

 しばらく『昔』? と首をかしげていると、小幡が不思議そうに「えー、そっかー」とこぼした。


「幼稚園のころの話だよ?」


「幼稚園......」


「覚えてないの?」


 言われるがままに記憶を探ってみるが、どこにも小幡の影はない。

 幼稚園時代の記憶といえば、避難訓練のサイレンに大泣きしたのと、運動会前日に階段で大けがしたことだ。

 あと給食を残して激怒されたことくらい。

 俺の幼稚園時代どんだけ失敗続きなんだよ......。


「あーほら、文通してた子いなかった?」


 小幡は俺が思い出せていないことを察知したのか、そういってピンと人差し指を立てた。

 文通、文通か......。

 文通......。

 ......。


「――あ! いたわそんなの!」


 幼稚園のころにそんなことをしていた気がする。

 親に手紙の書き方を教えてもらって、年長の途中から卒園まで。半年くらいは続いていた気がする。

 今思えばあそこが俺の人生における一番の絶頂期だったかもしれない。

 どうしてそんなことを忘れてたんだ......と思ったが、その女の子と小幡が全く重ならない。


「『そんなの』ってひどくない?」


「え、あの、ごめんなさい......」


「ま、思い出したならいーけど」


「失礼しました......」


 下げた頭を上げると、小幡がにんまりと口角を上げて待ち構えていた。

 小悪魔とかがいたなら、きっとこんな感じに笑うんだと思う。


「――じゃあ、そういうわけだから」


 小幡はそう言いつつ、ゆっくりと靴を脱いだ。

 この流れで断ることは今の俺に出来るはずもなく。


「はい......」


 こうして、人生初の来客がやってきたのだった。


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