第3話 積乱雲に乙女の影
雨は遠慮なしにアラフォーの身体を濡らしていく。雨の当たれば髪が軋んでしまって、髪の毛のケアをしないと考えていると、シャンプーが切れていることを思い出して肩を落とした。歳をとっていいことってなんだろう。小さい傘の下で、やまない雨に打たれて落ち込んだ。
帰ってすぐに風呂場に向かって湯船を貯める。湯張りのボタンを押した後だって休んでいる暇はない。油断して風邪を引けば、今日だけじゃ済まなくなることを知っていると作業が自然と早くなる。
クローゼットから部屋着を取り出した時に思い出して、ベランダの外を見た。雨に打れている服たちがじっとこちらを見ている。
窓際に走った。おぼついた足元がダイニングの足に気づかずに勢いよく小指をぶつけて、「いっ」だけ口から飛んで言ってその場にしゃがんだ。無事に小指は足についている。ただ、驚くほど痛い。でも、今はそんなことより心配するものがある。窓を開けて抱きしめてやった洗濯物たちは水を含んでいて重くなていた。
水浸しの花柄のブラウスが励ますように私の腕を掴んでくる。その偶然の仕草がふと日曜のデートを思い出した。
このブラウスみたいに彼にやってやればよかったのかな。服装が可愛くなかった。甘えるのが下手だった。仕事の話をしちゃった。彼に気がつかえなかった。帰りたくないって甘えられない。私が可愛くない。
雨音と一緒に頭へ落ちてくる上手く行かなかったデートの反省。拒否反応を起こしてくしゃみが出た。我に帰って、洗濯物をかけて部屋着を持ってお風呂場へと向かった。
シャワーは下を向いた私に優しい湯をくれ、それを使って長く下にさがった髪の毛を丁寧に洗ってゆく。泡が全部流れたところで顎を上にあげる。手で顔を拭ってから湯を止め目を開くと、自分の頭一個分の高さにシャワーの口があることに心臓が止まりそうになる。
確か、この高さは彼の背丈と同じくらいだ。そう、キスを拒んだこの距離。
瞬きをしたら、残っていた泡が目に入って自然と目の前が潤んでいく。
一度ではないこの感覚に、年齢という一つの壁が邪魔をして何もできなかった。一刻も早く、この気持ちと別れなければ明日の仕事にも影響が出る。大きなバスタオルを手に取って浴室をでた。
鏡の前でドライヤーをつければ嫌でも自分と目があう。大人になりすぎた顔、身体つきにここ数年で私は随分変わってしまい呆れるばかりだった。そしてまた最近もまた変わったのだ。恥ずかしいけど、恋をして若返った気がする。
最初は気づかずに流していたドライヤーにインターホンに気づいた。素早く片付けてカメラを確認する。そこにいたのはいつも整えていた髪が下がっている彼。
「どうしたの!?」
「入れてください。俺、凍えそうです」
「待ってて」
こちらがボタンを押してエントランスの扉が開くと重い足取りの彼が画面を横切っていく。安心してから自分のしたことに驚いている。頭の中を整理すると、自分の格好に気がついて「あっ!」なんて声を出して真っ白になる。
扉を開けると、高い背が上から下まで濡れたまま。それでも表情どこか安心した様子でこちらを覗きた。
「何してるの、ほら早く」
「よかった」
大きな体が押し寄せてそのまま彼の中へと包まれた。抵抗もできずに任せてしまうと、思った以上に冷えている体に我にかえる。
「ちょっと」
「すみません。濡れたままで」
彼もすぐに離すが目はずっとこちらを見つめたままで止められない勝手な行動に呆れた。
「そうじゃなくて…とりあえず入りなさい」
渡したタオルで身体を拭いている間に入れたココアを机に出すと歯を見せて笑っている。
「傘は持ってないの」
「ここにくるの必死で、忘れちゃいました」
「ここにくるなんて、私が帰ってなかったらどうしてたの」
「待ってますよ」
待つだなんて簡単に言われてなんだか無意識的に距離を置いて座った。そんな私のことなんて気づかずにココアを飲んで小さく息を吐いた。その呼吸が仕事で疲れている私までもほっとさせた。
「そんな顔しないでくださいよ」
微笑む顔が心を騒つかせて私をまた困らせようとする。
でも、また逃げようとする私がいる。少しずつ後ろに後ずさってみる。
「一回くらい向き合ってみませんか」
小さな間も埋めるように声をかけてきて、思わず足を止めてしまった。
「私はあなたにちゃんと答えたけど」
「どこがですか? あれが本心に聞こえなかったです」
「私たちは根本的に合わないの」
「思ってもないこと話す時って目を合わせないですよね」
「会って数ヶ月でわかったふりしないで」
対等に話して来られると、負けてしまいそうで見つめてはいられない。こちらの心を読まれる。
「あの、目をそらしても距離を置いても何をされてもいいです。ただ、気持ちのことはちゃんと答えてください。俺が求めてるのはそれだけです。それ以外は全て受け止められますから」
「……」
「俺は貴方が思ってるほど弱くないですよ」
「…そういうところだよ」
溢れた言葉は自然じゃない。向き合ってくれたから大人として出た言葉だ。
でも、正直不安だ。こんなことを言いっていいのか迷うのは、私もこんなにも歳の離れた恋初めてだから。
彼に背を向けて見たカーテンの先で、雷が騒いでいる。私もあんなに風に大声で本当のことを言いたい。
「そんな、一人で泣かないでください」
「…泣いてなんかない」
「いいえ、泣いてます。俺ってそんなに頼りない?」
敬語は消えた言葉がそっと体に流れ込んできて、音が鳴る。不器用な体は瞬時に答えることもできずに色々と言葉を探そうとするけど出てこない。
「あなたを俺は守りたい」
「私にとって、貴方と私の間にある10は大きな数字なの」
大きく離れた二人の間が軽くなる。微笑みながらどんどんと言いたいことがはっきりしてくる。
「ほらね、大人ならそこは笑うの。それで、もっといい言葉をかけるのよ。それが私が恋したい人よ。だけど、君は真顔でそうですかって受け止めちゃうなんて。黙っちゃうって」
「すみません。でも、これからは」
「これからには今よりも困る状況が入ってる。そんな時にでも守れるかな」
「守ってみせます。できます」
涙ぐむ顔ではっきり言ったその言葉が、幸せから逃げる私を怒っているようにも聞こえた。でも、私にその勇気はない。
「この前の日曜、久しぶりに楽しかった。心が若い頃の懐かしい気持ちになった」
「それはよかった」
「でもね。そんな自分に気づくたびに考えちゃったんだよね」
「なんですか」
「将来よ。それがどうしても体を重くさせて、拒んでいる自分に気付いたの。」
「そんなの今の世の中どうにかなります」
「違う。世間がいいよって言っても私がダメだった。誰のせいでもないの、誰が悪いわけでもない」
久々に男のまで零した涙は冷たかった。それを美しいもの見るように近づいて、抱きしめてくれる体。
「どうしたら、いいんですか」
「…もういいの。もう、私にはお腹一杯だから」
何も言ってこない体がさっきよりもぎゅっと抱きしめる。
「私に楽しい時間をくれてありがとう」
暖かい熱が少しずつ離れていく。彼の涙を見ないように、ゆっくりとリビングの扉を開ける。床を見つめる目をこすり唇を噛む様子はやっぱり可愛い子供のように見えた。
「明日は晴れるからちゃんとしなさい」
気前よく言った言葉に顔をあげて少し視線を重ねてぎこちなく微笑んだ。立ち上がり玄関に向かう背中。
「あの、最後なんでワガママ聞いてくれますか」
「なに?」
「俺と外を歩いて、エントラスまで見送ってもらえませんか」
最後のわがままは背中を向けたままだった。それくらいならとサンダルを履いて、彼と一緒に傘を持って外へ出た。
真っ暗になった落ち着いた空を寂しそうに仰ぐ彼に傘を渡した。
「いらないっす」
「でも、まだ少し降ってるし」
私が夜空を見ると、彼の顔が視界に入る。月明かりわかる。その顔は優しく微笑みかけていた。
「俺もキリつけたいんです」
「……そう」
彼は何もすることなく、真っ直ぐ歩いて行く。手に持っていた傘をさして彼の靴を見つめた。
お天気よ、背が高いからってあの身体に雷なんて落とさないで、どうかあの子を安全に家に返してあげてよ。あの子は私なんかに恋をした綺麗な人なんだから。
刹那に夜空を瞬いた光は遠くを目指して突き刺さった。心配になって見つめるも、道の上には誰もいない。一人で胸の底に響いた振動を唾液で飲み込んで背筋を伸ばし、明日の天気はちょっと涼しくて過ごしやすいのがいいだなんて、おまけみたいな願い事をした。
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