探偵志願!青鷺しずかの冒険 お喋り鳥を騙すには
布留 洋一朗
第1話 探偵(希望)は女子高生
白く大きな月が雲に隠れた。
小さく口を開けてその動きを見上げながら僕、土方悟は三の丸公園とよばれるエリアを歩いて横切った。
我ながら間抜け顔だと思うけれど、月はきれいだった。
夜8時をとっくに過ぎてこんなところを歩いているのは、週に2回、通っている空手道場の帰りのためだ。肩からは道着の入ったスポーツバッグを下げている。もちろん僕はぜんぜん、まったく、強くはない。
家族は、子どもの頃はスポーツの苦手だった僕が、サボりもせずに稽古に通うのを一方的に喜んでいるが、こっちにだって葛藤はある。
毎回、道場となっているスポーツセンターの建物に近づくたび、
「今日はやめとこ」「熱、あるんじゃないか」とかを真剣に考える。
それでも続いているのは、指導されている伊藤支部長への素直な憧れ、そして社会人の多い道場のそのものの居心地の良さだ。
いじめの心配どころか、悟くん悟くんとそれは大事に(変な意味ではない)してもらえる。高校に無事合格したときは、困ってしまうほどたくさんのお祝いをいただいたりした。
今夜は通常稽古の終わったあと、気合の入った高校生仲間のスパーリングに付き合い、みごと足にダメージを受けたけれど、そこは気取ってなにもないような顔をする。
さらに僕は、30分以上かけて家まで歩くのを選んでいる。
そればかりか、稽古のない日は家で飼っている駄猫、与一を連れて公園に散歩に来て、たまに街灯の下で突き蹴り・型を練習したりする。
なぜ、夜に猫かといえば。
公園の一角にあるミニステージに僕は近づいた。自然に緊張が高まる。
街灯の下にはテーブルが置かれ、その前に人影があった。寒くないうちは、ここを読書室がわりに使っている人物がいる。
足元から、猫の声がした。僕は声をかけた。ベタな名前とはこれだ。
「ごめん、レオ。今夜は直接きたから与一はいない」
「ええの。こいつはあんたが気に入ってる」
ところどころ関西イントネーションの混じった言葉が返ってきた。声は低めだけれどまぎれもなく女、それも僕と同じ16歳の女子高生である。
近づくと、目が小さく閃光を発した気がした。
彼女の瞳は強い。それどころか顔そのものが強そうだ。ゴツいのではなく、むしろ繊細な顔立ちなのに、鉄のように強い意志が僕には感じられる。
名前は青鷺しずかという。
今夜はだぶっとした黒っぽいジャージに身を包んだ彼女は、ここのすぐ裏が家だった。コンクリート打ちっぱなしの秘密基地みたいな邸宅に家族と住んでいる。立派な家がありながら外に出てくるのは、公園のこの付近が愛猫と最も気持ちよく過ごせるからだそうだ。
「左足、痛めてるの」と、いきなりしずかは指摘した。
「声も少しおかしい。喉を突かれた?」
格闘技経験がありそうにもないのに、しずかは人の身体的ダメージをすぐ見抜く。
「うん。ちょっと失敗した。もちろん稽古でね。向こうは強いんだ」
しずかは短く言った。「しゃあない」
いつもは口が悪いくせに、不思議と彼女は、僕が稽古のわりにちっとも強くならないのをバカにしない。修行というもんは、そういうもんやとつぶやいたこともある。それは、彼女自身が母方の祖母からしこまれたという、当人もはっきりと話したがらない家伝の術のためかもしれない。彼女のは武術じゃなく、占いの一種らしいが。
ゆっくり起き上がったレオが僕の手を舐めた。しずかによると、この猫がそんな真似をする人間は、家族以外には僕だけなのだそうだ。
だから光栄に思え、ということなのだが、猫は漆黒の迫力ある顔つきをしていて、噛まれはしないかと緊張する。
一方、親友たる我が家の与一は小柄なうえ、我が家に子猫を迎えたと聞き、動画撮影を目論んだ叔父がひと目見るなり、「こりゃあかん」と呆れたほどの間抜けヅラをしていて、なぜ二匹が仲が良いのかわからない。ちなみに、両方ともまだ若いオスだ。
しずかは、他人がその手の話題を口にすると露骨にバカするくせに、二頭の仲睦まじい様子をふっと笑って、「猫のBLかよ」とささやいたりする。
まあいい。
「あ、そうだそうだ」
僕は、汗臭いにおいが広がらないよう、手早くバッグからビニール袋を取り出す。さらにその中にあった紙袋から小さめの本を取り出し、しずかに差し出した。
「ほらっ、嘘じゃないだろ」
「むっ、うむっ」唸り声がした。
彼女が前々から読みたいと語り、ネットでもみつからなかった稀覯本、半世紀近く前に出版された小説「夜よ闇よ、つどえ」だ。体裁はミステリー仕立ての和風ファンタジー小説なのだが、枠外にこと細かに記された解説と雑知識が肝なのだという。
たまたま、先輩らに珈琲店でおごってもらった際、いまどきの高校生はどんな本を読むのだとの話題になり、この本を友人が探していると口にしたところ、「悟くんのそのともだち、筋がいいなあ」と喜んだ社会人の先輩、福田さんがあっさり譲ってくれたのだ。なんでも昔、半ば偶然から入手し、深く考えずにそのまま本棚に放置していたそうだ。福田さんは言った。「でもこれ、枕にしたりすると悪夢を見るから、気をつけてね」
すばやく表紙と噂の注釈を確かめたしずかは、いつものクールな表情を崩して少しこまった顔になった。
「おかえし、しないとな」
「いらないよ。お金なんてとってくれない人だし。それに演武中の福田さんを健ちゃんが撮ってくれて、そっちのお返しでもあるんだ」
健ちゃんとは、僕の仲の良い叔父であり本職の写真家だった。
僕が演武会に出るのを知ると、カメラと脚立を担ぎ見学にきて、一緒に福田さんたちもかっこよく撮って、大きく引き伸ばしたプリントまでくれた。
「それに、マジいい人なんだよ福田さん。しずかのことも詮索しないし。中には交友関係をやたら聞きたがる人もいるけど、福田さんは違う」
「…けどな」
口の達者なしずかが言葉に詰まった。僕は百年に一度しか開かない妖花を見つけたかのように、唇を閉じた彼女の顔を見つめてしまった。
月光と街灯が控えめに映し出す黒い髪とつややかな肌は、精いっぱい気取って表現すれば、幻のようだった。
彼女は黙ってさえいれば、「フランス人形みたい」(母談)「いや人間化したブライス人形」(姉談)な少女である。
以前、ターミナル駅の構内でばったり会い、電車の遅延について互いの情報を交換した彼女と僕を垣間見た友人 –––– 僕と同様学校内モブ的存在 –––– が、鬼のような顔になり、「お、おまえ騙されてる、騙されてるから誰か教えろ」と迫ったほどだ。最後は半泣きだった。
だが、しずかの内面と外面には巨大なギャップがある。むろん、見た目どおりのお人形風のしとやかな少女ではない。とんでもない。
「ま、ええか」そら、きた。「相手は大人でも、悟のともだちやし」
「まあな。ともだちのともだちはまたともだちだ」
軽く唇を曲げると、しずかはすばやく丁重に本を仕舞い込み、自ら話題を変更した。この変わり身の速さも、彼女である。
しずかは僕に座るよう、うながすと、
「お礼がわりに、この前言ってた『郡司家の事件』について話を聞くよ」
急に関東風になったなと思いつつ僕は「それは助かる」とうなずき、さっき買った小ぶりなペットボトルをテーブルにおいた。ミネラルウォーターだ。
「センターの前のやっすい自販機のだよ」
黙ってしずかはうなずいた。
彼女は夜、甘いジュース類を飲んだりしないし、たとえ彼女のためであろうと、僕が高額な飲料を買うのを嫌がる。自他ケチである。
本題に入る前に、駆け足でこの状況の説明をする。
もともと双方の家族に親交はあったのだが、しずかは一時期、事情があって母方の里にあたる神戸に祖母と暮らしていた。彼女の言葉にひんぱんに関西イントネーションが混じるのはそのためだ。まあ、半分はわざとだろうけど。
それが、高校進学とともに公園そばの父方の実家に戻ってきて、それ以来交流が復活した。
とはいえ、歳こそ同じでも学校は異なる(こっちは並、あっちは特上)。
互いに新入生で忙しいこともあり、当初はせいぜい、会えば立ち話をする程度だった。
しかしある夜、出かけたまま戻らない与一を探すうち、レオを連れて散歩するしずかと遭遇してその助力を乞い、そのうち次第になんとなく、晴れた日に遭えば30分から1時間程度、話すようになった。
気になる本や映画の情報をはじめ、内容はさまざまである。僕の方は学校や家族にまつわるくだらない話、すなわちゴシップが多い。
この習慣を察知した一部からは、「夜のデート?」と裏返った声で聞かれたりしたが、少なくとも僕ら二人にそこまで胸躍る感情はない、とは思う。
もちろん、理屈では説明しにくいこの慣習の根底には、生物としてのホルモンが作用している(僕の姉の主張)のであろうが、もっと理性的な会合だと僕は思い、しずかは「夜間定例報告」と自称していたりする。
そして、ここが重要なのだが、僕はしずかにただゴシップ的話題を提供しているだけではない。彼女の頭脳と心身のトレーニングに協力しているのだ。
しずかは「探偵」という存在に強く興味を惹かれ、そして内なるその能力を磨きたいと考えている。彼女は、「瀬戸内海に古くから水運が発達したのと同じ理屈。まず、目の前の穏やかな海に漕ぎ出して経験を積み、徐々に技術をアップして大海をめざす。で、最後はまた近所の池に戻る。老人ホームでミスマープルになるわけ」などとわかったようなわからないようなことを主張し、僕が持ち込んだ身近なトラブルや謎を、実にうれしそうに解き明かす。僕もその講釈を聞いて、満足感にひたる。
とにかく、ふたり揃って水を飲んだ。僕がレオにも水をわけてやると、しずかは礼を言った。僕はしずかに助力を得るべく、最初から説明をはじめた。
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