名ばかり皇后の教育的指導――転生双子侍女を添えて――

横浜 山笑(旧山笑)

01. 喧嘩をしてはいけません。

 海内かいだい五国を統べる央国おうこくの後宮、皇后の住まう凰麟殿おおうりんでんの前に、泣きじゃくる少女が二人、座り込んでいる。

 皇后・呉三娘ごさんじょうは弱り切った顔でその前に立ち尽くしていた。


 ――どうしてこうなった。


 呉三娘は紅い塀に囲まれた秋の空を見上げる。

 彼女はこの国の西方を治め、央国の藩屏たる樨国公せいこくこうの娘である。先だっての敵国源げんとの戦で活躍し、褒章として後宮に召し上げられて、皇后に冊立された姫君だ。

 文字通りの政略結婚だったので、皇帝夫妻の間に愛はない――というか、二人の関係は夫婦というより姉弟のようなものだった。なにしろ、皇后呉三娘は二十歳、皇帝丹堅たんけんは十三歳なので。


 そういう訳なので、呉三娘は名ばかりの皇后である。いずれ後宮にひしめく少女たちの誰かが皇帝の心を射止めたら、さっさと引っ込むつもりでいるし、そういう約束でもあった。なので、後宮でも目立たず騒がず、宴にも出ず誰とも交流せず、表向き自身の宮殿に籠って、ひっそりと過ごしていた。

 だというのに。


香淑妃こうしゅくひ様が……私の髪飾りを壊したんです……っ! 皇帝陛下が誕生日に下さったのに! うっ!」


 ちらりと目を向ければ、困り果てた様子の女官が件の簪を捧げ持っていた。


「わざとじゃありませんわ! 壊すつもりなんてなかったのに! 楊徳妃ようとくひ様がいきなり引っ張るから! わざとじゃないんですのにー!」


「……どうしてこうなった」


 呉三娘は再び青空を見上げた。後宮の宮殿は、高いあかい塀で囲われている。故に、ここから見える空は、四角く区切られている。

 後宮には沢山の殿舎があり、その中でも皇后と妃嬪が住まう宮殿は十三。東西に六つずつ、中央に一つ。中央のひときわ大きい宮殿の一つが呉三娘の住まう凰麟殿おうりんでん、通称皇后宮である。東西の宮殿は一宮殿につき三人は妃が住まうことができる。今は西側の五宮が埋まっているのみだが、それでも十五人。狭苦しいからばらけて住まえばいいと思うところだが、西側の方が皇帝が執務する宮殿に近いために、ひしめき合うように五つの宮殿に暮らしている。

 つまり、一人の皇帝の寵愛を競う妃が、それだけの数詰め込まれるのだ。他にも正式な妃嬪ではないが、お手付きになる可能性のある侍女や女官が、数えきれないほど暮らしている。

 これで諍いが起こらない方がどうかしている。とはいえ、皇后はどの妃から見ても親しくしたい相手ではないので、これまではこんな風に関わり合いになりにくることはなかった、のだが。


「それは、この二人が後宮の二大勢力で、仲裁できる人が他にいなかったからですねえ。主は腐っても皇后ですし」


「そうですねえ。普段はおばさんおばさん言われてますけど、主は名目上は皇后ですからねえ」


 皇后の侍女がボヤキに答えた。この双子の侍女、玄寿珪げんじゅけい玄嘉玖げんかきゅうは、樨国からついてきた皇后の腹心だ。ただし、生まれた時から一緒なので、言動に容赦がまったくない。


「おばさんって……」


「だって主は二十、主以外のお妃様方は、皇帝陛下に見合う年齢ですもん。十歳前後の子供から見たら、二十はおばさんですよう」


「まあ、そうなんだけど。言っとくけどあなたたちもおばさんですからね」


「私たちはいいんです~。別に寵愛を競わなきゃならないわけじゃないですし」


「あなたたちだって皇帝陛下のお手付きになれば妃嬪の一人じゃないの」


 皇后や妃嬪は実家から侍女を連れてくることができる。

 かつては身一つで後宮に入り、女官が身の回りの世話もしていたのだが、世が下るにつれ力を増した外戚の圧力によって、侍女を後宮に送り込むことができるようになったらしい。後宮の宮殿に無位無官の者は基本は入れないので、彼女らは便宜上品位ほんいのみ授けられている。

 つまり侍女たちは妃たちの個人的な使用人だが、主人の妃が寵愛を得られなくても、侍女が皇帝の心を繋ぎとめるという狙いもある。


「はい? 本気でおっしゃってます?」


 呉三娘は黙った。黙ると子供たちの泣き声が嫌でも耳に入る。お付きの侍女も女官もおろおろするばかりで何もできない。

 この少女二人は、皇太后の姪と、中書令ちゅうしょれい――いわゆる宰相の末娘だ。つまり、閨閥と宮廷勢力が送り込んだ皇后候補ということだ。妃としての身分も正一品しょういっぽんの淑妃と徳妃と同格で、皇后に次ぐ地位だ。年齢は確か、十歳か十一歳くらい。


「……困ったなあ」


 普段は静かな皇后宮が、鶏小屋をつついたかのような騒ぎである。思わず、ため息とともに呉三娘の唇から小さな呟きが漏れた。

 と、皇后の呟きに侍女二人が元気よく答えた。


「「承知!」」


「えっ!」


「静まれい!」


 嘉玖がずいっと皇后の前に足を踏み出す。


「静まれい!」


 寿珪も同じく、大股で皇后と妃二人の前にずずいと身を乗り出した。


「えっちょっと、何いきなり」


 少女二人もびっくりして泣き止んだ。


「この方をどなたと心得る!」


「いや、皇后って知ってるから来たんでしょ」


「恐れ多くも今上皇帝陛下のご正室、呉皇后なるぞ! 頭が高い! 控えおろう!」


「寿珪、ちょいと、恥ずかしいからやめてくださいよ……!」


 呉三娘が寿珪の一人の袖を引いても、ふんすと鼻息を荒くするだけだ。


「頭が高あい!」


「嘉玖も……!」


 二人に大きな声で言われて、妃二人はしぶしぶ跪く姿勢をとった。ふてくされた顔が、本当に子どもだ。さっきまで泣いていたので頬が桃色になっている。


「……ええと、それで? 何? 髪飾りが壊れたって?」


「香淑妃様が私の髪飾りを壊したんです」

「楊徳妃様が無理に引っ張るから!」

「いいえ、私だけ皇帝陛下から贈り物をもらったからって……!」

「違うもん! 私だって次の誕生日にはもらえるもん!」


「……お二人とも」


 呉三娘が少し低い声で声をかけると、二人揃って彼女に向き直った。何しろ呉三娘は樨国公の娘として前線に立った軍人でもある。甘やかされて育った姫君たちをちょっと威嚇するくらい容易いことだ。


「「はい」」


 呉三娘はちょっと考えた。普通に考えれば人のものを壊した香淑妃を叱るべきところだ。だが、今上皇帝を支える二本柱である香家と楊家、どちらかに樨国が肩入れしていると思われることは避けるべきだ。


「楊徳妃様は、香淑妃様にお願いされて、髪飾りを見せてあげたのね? 大事な髪飾りを渡してあげるなんて、楊徳妃様はとっても優しいのね」


 楊徳妃は細面の華奢な少女だ。上は淡い藤色に花喰鳥はなくいどりを織り出した対襟のおう、下は白地に黄色い小花を散らしたくんを身に着けている。はかなげな印象によく合う。

 本当は、皇后に見えるなら、せめて準正装で来るべきだが、まあ、それはおいておいて。


「……いえ」


「香淑妃様は、ただよく見たかっただけなのよね? 返してって言われても、素敵な髪飾りですもの、もう少しだけって思ってしまったのかな。もしかしたら、少しうらやましかったのかもしれないね?」


 香淑妃はどちらかといえば丸顔で、可愛らしい少女だ。濃緑の生地に金糸で鴛鴦えんおうを縫い取った対襟の襖、深紅の裙の裾にも金糸の水紋の刺繍がされている。目がちかちかしそうな組み合わせだが、色白な彼女が身に着けると明るい印象が際立って見える。


「……はい」


「二人とも、素直でとってもいい子だね。別に、喧嘩をしようと思ったわけではないものね。

 大事な宝物が壊れたら悲しいし、壊すつもりがなかったのに、怒られたらむかっとしちゃうよね。

 でもね、香淑妃様、髪飾りは楊徳妃様のもので、壊れてしまったのは二人で取り合ったから。だから、香淑妃様は髪飾りを弁償しましょうか」


 皇后が言うと、香淑妃は一つ頷いた。ふてくされたような顔だが、反論はしない。


「それから、もちろんあなたにそんな気はなかったけど、大事なものを壊してしまってごめんねって謝ろうか」


 香淑妃は不服そうに唇を尖らせたが、しずしずと楊徳妃に向き合った。


「楊徳妃様の大事な髪飾りを壊してしまって、ごめんなさい」


「……いいえ」


 楊徳妃は心から許したという顔ではないが、謝罪を受け入れたようだ。


「楊徳妃様、偉い! 怒りを抑えて許すというのは、とても徳の高い行いです。

 その髪飾りの様子を見るに、壊れた箇所はつなぎの金具のようだから、金具を取り換えれば元通りになる。私から皇帝陛下にお伺いして、その髪飾りを作った工房をお教えしましょう。修理費は香淑妃様持ちでね。

 それから、あなたの寛大さを皇帝陛下にもよくお伝えしておきますよ」


「……はい!」


 楊徳妃の顔がぱっと明るくなる。壊れた髪飾りは金具の部分をつなぐ金具がちぎれて取れたようだった。

 その金色の簪は、立体的な蓮の花を中心に、流れるように葉や根、花托が足に向けて彫り込まれ、先端の部分にしゃらしゃらと涼しげな音を立てる、非常に細い短冊の金の板を束ねたものがいくつも下がっている。とれたのはこの短冊の一つと本体をつなぐ小さな金具だった。


「香淑妃様、悪気がなかったのに、過ちを認めて謝るというのはとっても難しいこと。でも、それは君子の伴侶としてとってもすばらしいことですよ。

 さて、君子といえば、あなたがこのようなことをしたのは皇帝陛下が楊徳妃様だけに贈り物をしたから。『君子は偏愛せず』というのに、これは皇帝陛下が悪い。皇帝が父なら皇后は母。父の過ちを補うのは母の仕事。だから、楊徳妃様と同じくらい素敵な髪飾りを私から送らせて頂戴。どんなものがあなたは好きかしら?」


「あ、ありがとう……ございます。あの、楊徳妃様みたいな簪が欲しいです」


 香淑妃が少しふてくされた顔を残しつつ、おずおずと申し出た。

 やっぱり子供なのだな、と呉三娘は思ってほほえましくなり、いやいや、これって皇后の仕事だったか? と次の瞬間真顔になった。


 そうして二人の少女は皇后の宮殿を去って行き、帰り際にお付きの侍女が感謝を込めて呉三娘を見たが、気づかなかったふりをした。

 呉三娘は別に、感謝されたいわけではない。ただ静かに次の皇后が決まるまで過ごしたいだけなのだ。

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