青空カフェ
れしおはる
朝霧
朝が来てしまった。
紙が散乱した机の上。その一枚をそっと掴んで目元に持っていく。
『総合偏差値 60 第一志望偏差値 75 志望校変更をお勧めします』
中三の一月。冷える朝にその紙を残酷に破り捨てた。紙屑は空気中を舞い、やがて地面へと無残に落ちる。
中三のはじめの偏差値は38だった。自分なりに我武者羅に努力してきたつもりである。だが願いと努力も虚しく、ついに一月まで来てしまった。気づけば何故この高校を志望したのかもわからない。そんな状況に陥ってしまった。
でもそんな日々も今日で終わりだ。俺は部屋の隅に寂しく置かれたコントラバスを見つめる。コイツに俺は何時間、時間を費やした? 小四の時に親に連れられて観に行ったオーケストラで、確か一目ぼれしたんだったと思う。コイツに。
小五の時に頼んで頼んで、コイツを買ってもらい、コイツをよく知る師匠の元に通わせてもらった。彼は厳しくて、コイツが嫌いになりかけたこともあったけどやっぱり好きで、ずっと続けていた。
彼に不幸があるまでは。
今でも信じられない。彼はたった三十二歳で、交通事故で亡くなった。彼は出演するコンサートに向かう途中で、車には勿論、彼の
天明の光に照らされた途端、彼の車にトラックがぶつかり、彼はなんとか車内に留まれたものの、相棒は大破した車から外に投げ出されてしまった。彼は硝子に全身を刺されて亡くなった。彼の相棒に関してはもう原型を留めないほどの状況だったという。
俺の相棒のケースに入っているポーチには、彼の相棒の弦が入っている。彼の両親が、くれたのだ。君が持っていた方がいい、と。
中学に入って、吹奏楽部に入った。そしてコントラバスを担当した。仲間も沢山できて楽しかった。だが俺は一人の女子に虐めを受け、退部。それから二年は更にコイツの魅力を知って、いつしかプロになりたいと思うようになり、必死に練習をする日々だった。
なのに俺は……。いつだったか。コイツを手放すか考えたのは。コイツは心の支えだったのに。俺は決心した。ロープを手に持ち、そしてコイツを背負って家を出た。
空腹で辛いが、もうその空腹すら感じなくなるのだ。そう考えると自然と足が早まった。
本当に霧が深い。まるで俺の、死にたいのか生きたいのかわからない気持ちを代弁するかのようだ。コイツよりも全然重い思いを抱えて今日まで頑張って来たのに、それを無駄にしてしまうのかという気持ちと、このまま生きていても地獄の勉強漬けの毎日だっていう気持ちがぶつかり合い、今のところ後者が勝っている。
河川敷についてしまった。ここでロープで足を縛って……っと。だが俺は背負われたコイツとの思い出をフラッシュバックさせてしまった。
家だと怒られるからって、ここで練習していた日々。
『あー! 風うるさいっての!』
『ピッチが合わない……』
『連符鬼すぎ』
泣きたかった。でも、泣けなかった。
俺の感情は何処に行ったんだ?
返せ。俺の感情を。
返せ。
返せ。
返せ。返せ。返せ。返せ。返せ。返せ。返せ。返せ。返せ。返せ。返せ。返せ。返せ。返せ。
返せよ!!
俺の目は多分死んでいると思う。視界が朧だ。
その時、俺は直感的に河川敷の上の方を見た。
あれ? あんなところに家なんてあったっけ……? 俺は河川敷を上った。
『青空カフェ』
なんだ、ここは? でもこんなに朝早くでも開いている。お金だって千円、何故かポケットに入っていた。俺は興味本位で中に入ってみる。
カウンターの席が十席ほど。テーブルの四人用が二つ、二人用が四つ。さほど広くないカフェのようだ。ジャズが響き、とても落ち着いている。そんな印象。
「あ、いらっしゃい」
俺は心臓が飛び出るかと思った。急に声をかけられたのと、こういう言っちゃ悪いが古い雰囲気の店というわけで、勝手に男性店主が一人で切り盛りしていると勝手に想像していた。なのに声をかけたのは女性だった。しかも結構若そう。
俺の予想は的中した。振り返った先に居たのは、銀湾のように美しく輝く、大学生くらいの女性だったからだ。
「あっ、その……」
「とりま、そこ座ろっか」
彼女に席をすすめられたので、コイツは一旦下ろして座った。
黒髪に青みのかった大きい瞳。小さい鼻と丸い顔。愛嬌抜群の可愛らしい女性だ。白いブラウスに合わせた黒いベストとロングスカートがよく似合っている。「店長 佐藤」と書かれたタグが胸に付けられていた。
「君、名前は?」
可憐かつ大人の落ち着きで溢れた声で話しかけられた。女性経験が少なすぎる俺は、思わず視線をそらしてしまう。
「あ、
「へえ、ハルキ、か。いい名前だね」
ハルキ、と唐突に呼び捨てにされて、緊張してしまう。
「それにハルキ、すごい髪綺麗じゃん? マッシュってやつ? 私好き」
突然の礼賛に戸惑いながらも、俺は「ありがとうございます」と呟いた。好きな髪形をしているだけなのに、散々量産型、量産型って言われてきたからすごい嬉しかった。
「ああ、そうそう。私こーゆー者です」
ピンク色の可愛らしい名刺を渡された。「青空カフェ 店主 佐藤マリア」。
マリアさんか、本当に
彼女が後ろを向いた途端、地上のものとは思えない程のいい香りが漂った。花の香であることは間違いない。なんて心地よいのだろう。
俺の目は、気が付いたら緩んでいた。
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