第116話 グライムに教えられる 36
伊知郎が自分の事を、千代田組の事を赦すとした事は、共に千代田組を罰しようとしていた羽音町町内会の面々にも徐々にだが伝わっていった。
羽音町町内会は千代田組がまだ出来たばかりの若い組だったので、安堂瑛太の事故を理由に羽音町から追い出そうと考えていたのであった。
極道組織が警察とバランスを取りながら、長くこの羽音町を守り続けているのはわかっていたが、街の若者から自警団を組んでいた町内会はその役目を極道組織にいつまでも頼る気は無かった。
故に、安堂瑛太の事故は追い出す理由として充分であった。
守る立場と言い居座る者が、その街の住人を死へと至らしめたのだ。
それがどちらの過失によるものでも構いはしなかった。
だが、安堂瑛太の父親、伊知郎が事故を赦すと言うのであれば話は変わった。
伊知郎の妻の変貌ぶりも、極道組織憎しと追い出そうとする動きを止める理由になった。
千代田組を見えぬところへ追い出すことが、気持ちの解消へと繋がるのだろうか?
きっと、伊知郎の妻の目の届く範囲で償わせるべきなのだろう。
例え、それが、千代田組の過失じゃなかったとしてもだ。
あの夫婦の為の、矛先であり救いであるべきだ。
「あれから、私達はこの街にある組に代々受け継がれてきた、羽音町を守る、という約束を改めて誓いました。そうすることが償いであり、
頭を下げたままの千代田。
あの日からずっと、頭は上がらない。
もし自分が伊知郎の立場だったら、赦すなどという考えには至らなかっただろう。
自分の子を奪われた時、殺られたら殺り返すの世界で生きてきた自分には、赦すなどという選択肢はありえなかっただろう。
あの事故を咎められ殺されたとしてもおかしい道理ではない、と覚悟していた自分がこうしてまだ生きているのも、この街に居続けることが出来るのも、伊知郎のおかげであると千代田は思っていた。
そうして決められた千代田組の在り方を、弟分として共に若い頃から極道の世界を生きてきた右腕である遊川も誰より進んで受け入れた。
罪滅ぼし、だった。
躍起になってがむしゃらに組の為、街の為へと尽くした。
それが多少無茶な方法でも、遊川にはそれを行う技量があったし、信念もあった。
それで辿り着いたのが、今回の策略だった。
多少、街を傷つける形になるがそれでも策略が上手く行けば当面外からの厄介事は減るし、東條会への示しもつく。
自分が組長の座から身を引くことになった後も、この街を守り続ける為の布石になると千代田は遊川が進める策略の後押しをしていた。
二十何年と守り続けてきたこの街を、いつしか私物のように思ってしまっていた部分があったのかもしれない。
それが約束を反故するような行為だと、八重の友人がクスリを買うことになったという事態を聞かされるまで気づけていなかった。
野上や英雄に利用された事態の収束については、遊川に任せることにした。
また出しゃばって責任を負うなど愚行は繰り返せない、遊川の顔にも泥を塗る形になる。
千代田は遊川が動きやすいように羽音町の外への対応を受け持つことにした。
組長という立場だから出来る交渉がある。
任せていたということもあるが、その外への動きに手間取り、この場にやってくるのが遅くなった。
娘を誘拐されたというのに、真っ先に行動できないとは情けない話だ。
その点も、先に辿り着いていた伊知郎に頭が上がらない部分であった。
「今回の件は、私の驕りにより引き起こされた事件だと言っても過言ではありません。先を見ていたばかりに足許が疎かになったなど、と息子にも呆れられるばかりです」
そこまで千代田が言った時に、ずっと躊躇っていた伊知郎がぐっと千代田の肩を掴み顔を上げさせた。
「何を言ってるんですか。盗み聞きするつもりはありませんでしたが、彼が貴方の息子さんなんでしょう? 息子さんは、貴方の事を呆れて見ていたりはしませんよ。むしろ、貴方が街を護ろうとしていることを全力でフォローしてるじゃないですか? 貴方がこれまでやってきたことをちゃんと理解してるんですよ、彼は」
伊知郎は救急隊員に運ばれていく勝の方に視線を向ける。
大怪我を負ったその身体は、慎重に運ばれていく。
それから伊知郎は、救急隊員や警察に色々と確認されている愛依の方へと視線を向ける。
「そして、彼は、私の娘を助けてくれました。しっかり受け継がれてるんですよ、貴方がやってきた街を護ろうという意志は。だから、約束を破ったなんて言わないでください。貴方は、貴方がたは、この街を護り続けてくれている。命懸けで、ずっと」
伊知郎の言葉に、千代田はまた頭を下げた。
今度は謝罪ではなく、感謝の意として。
千代田は深く頭を下げたあと、暫くしてようやく頭を上げた。
伊知郎が困り顔をしていたので、これ以上はよそうと一言挨拶をしてその場から離れることにした。
運ばれていった勝の姿は見えなくなったが、ついていたはずの八重の姿がまだドアの近くにあった。
「八重っ!」
千代田は八重の姿を見つけると、呼び止め早足で駆け寄った。
父親の珍しい小走りに、何事かときょとんとした顔をしている八重。
勝の母親は千代田の出世の為に、千代田に黙ってまだ産まれたばかりの勝を連れて離れた。
その勝の母親の覚悟を尊重して、千代田はその母親のことも勝のことも公言して来なかった。
八重やその母親にも、だ。
いつか話す時が来る、そう考えていたのだが、それはもう近いうちなのかもしれない。
千代田との話が終わった伊知郎のそばに、愛依が駆け寄る。
「怪我は大丈夫だったのかい?」
「掴まれたりとか押されたりとかそういう感じの跡はあるんだけど、そんなに心配するような怪我はなかったよ。警察は、あとでまた事情を詳しく聞かせて欲しいって」
跡も残らない程度だって、と愛依は付け加えて伊知郎の腕を掴む。
こんなに娘が甘えてくるのは、小学生以来か。
そんなことを考えるほど伊知郎にとって、愛依の態度は不思議なものだったが、愛依にとってみれば頼りないと何処か思っていた父親が今はヒーローのように思えていた。
少し不恰好だったけど、確かに父親が投げた五円玉が最後のチャンスを作ったのだ。
「お父さんが、野球やってたなんて知らなかった」
「ん? いや、実は野球をやった事は無いのだけど――」
そこまで言って伊知郎は、愛依に瑛太の事をちゃんと話して来なかったことに気づいた。
忘れることなど無いのだけれど、夫婦共々しっかりと向き合う事を未だに避けていたのかもしれない。
割り切ったつもりだったのに、乗り越えたつもりだったのに、結局ただ向き合うのを止めただけだったのかもしれない。
なんて情けない話だ。
瑛太に申し訳なく思う。
今思えば、瑛太はあの日――事故にあったあの日、伊知郎に教える為に公園で一人、投球練習をしていたのだろう。
そして投げたボールが、公園から外へと飛び出してしまい――。
「なぁ、愛依――」
「何、お父さん?」
伊知郎は、愛依へと告げる。
「なぁ、八重――」
「何、お父さん?」
千代田は、八重へと告げる。
愛する娘へ、ずっと話していなかった、愛する息子のことを。
「――落ち着いたら、話しておきたいんだ。ずっと話せなかった、お前の兄さんの話を」
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