第48話 昔取ったラグタイム 2
考える間があることを悟られてはいけない。
伊知郎はそう思うものの、嘘をつくかあった出来事をそのまま言うのか判断しかねていた。
そもそもあの赤いベロアジャケットの若者が何をしていたのかを知らない。
五円玉の借りが返せなかった為に、彼の言う通りに時間を置いてから救急車を呼んだだけで、彼が何故青年二人に暴力を奮い、暴力を奮われていたのかは知らなかった。
ならば、伊知郎が昨日あったことを素直に話したとて大した情報ではないのではないか。
下手な嘘の方が後々バレてしまった時が面倒なのではないか。
「安堂さん、どうしました?」
若菜の問いに伊知郎はドキッとして息をのみかけるが、動揺していないように見せないといけないとグッと我慢した。
「いえ、何と説明したらいいかと思いましてね」
ほんの数秒の時間稼ぎ。
判断と整理の時間。
「と、言いますと?」
時間稼ぎは許さないと若菜が次の言葉を促す。
温厚そうな顔をしてやはりとても厳しい男のようだ。
「む、娘を見たんですよ。いや、正確には見たと思ったんです。それで、追いかけてまして」
伊知郎は嘘をつくことにした。
あの若者を助けるほどの関係性は無いと言えば無いのだけれど、五円玉の借りを返すのに若者が警察に厄介になってるとなると困難だ。
暴力沙汰で逮捕とでもなったなら留置所に面会とかになるのだろうか?
伊知郎はその辺りは詳しくはなかったので、あまり面倒になるのはごめんだった。
「娘さんを? 追いかけるとは?」
若菜が口にするより先に隣で苦笑いしながら立っていた井上が口を挟む。
伊知郎は若菜にばかり集中して警戒していたので、井上の声にあからさまに驚いてしまう。
「あ、すみません」
井上は伊知郎のあまりな反応に咄嗟に謝った。
変な間が生まれ、若菜が咳払いをする。
「安堂さん、どういうことかもう少しわかりやすく説明願えますか?」
「あ、いえ、恥ずかしながら妻と娘には出ていかれてまして。それで昨日の朝、出勤の前にゴミ出しにと家を出たところで、その、娘の姿を見たわけです」
嘘をつくのなら真実を織り交ぜた方が紛れやすい、とかなんとか昔見た映画で聞いた覚えが伊知郎にはあった。
「高校生になる娘の通学路とはこの家は少し離れてますから、もしかして帰ってきたのかと思ったのですが、どうも様子がおかしかった」
伊知郎の話を若菜は微動だにせず聞いていて、井上は二人に気づかれないようにと小刻みな頷きをしていた。
「それでどうしたのかと娘に近づいたら、娘は急に走り出しまして、私も慌ててそれを追いかけました。そしてついていった先が、あのバスケットコートでして」
「娘さんはいなかった、と?」
「はぁ、そうなんです。代わりにいたのは、倒れてた若者二人でして」
伊知郎は説明が終わったと言わんばかりに、変な話でしょ、とおどけた表情をして警察二人の顔を見た。
若菜は少しだけ間を空けて、どう思う、と井上に視線を送る。
どう思う、と聞かれてもと井上は気まずそうに頬を掻いた。
「安堂さん、話は変わりますが、昨日米倉ビルで起きた射殺事件についてはご存知ですか?」
「射殺事件? いえ、昨日は仕事で疲れてしまって帰ってきてニュースを見ることなく寝てしまったもので」
米倉ビルといえば、昨日赤いベロアジャケットの若者に倒された赤い髪の青年が口にしていたビルだ。
そこで射殺事件が起きたと言うのなら、犯人はあの若者か?
「ニュースを見ていないと仰いましたが、どうも心当たりがおありのようですが?」
「い、いえ、心当たりなど無いのですが、この話の流れだと助けた若者二人に関わりがあるのかと思いましてね」
一瞬の思考時間すら隙だと言わんばかりに攻めてくる若菜に、伊知郎は息もつけないなと疲労を感じていた。
瞬時に嘘を重ねないと貫き通すのは難しいのだと、妙な経験値を得ている。
「ああ、なるほど。確かにあの二人もあのビルには、というよりもあの現場には関連している可能性がありますね」
若菜の表情が温厚さを取り戻す。
と言っても大きな変化ではなく、ちょっとしたニュアンスのような差異。
ほんの少し手綱を緩めたような匙加減。
「安堂さんが助けたあの若者たちは実はドラッグの売人でしてね。我々警察が病院に辿り着いた時には既に姿をくらましてましたよ」
「若さん、良いんですか? そんな話して」
「良いんだよ、質問ばかりじゃフェアじゃないだろ? こういうのも礼儀ってもんだと、覚えておくんだな梅」
慌てる井上を嗜める若菜。
先輩刑事と後輩刑事というよりも、新人と教育係という関係性のようだなと伊知郎は思った。
新人というには井上の方はそれなりな年は取ってそうだが。
「ちゃんと警察にも通報しておくべきでしたね」
「いえ、安堂さんは救急車を呼んだだけでも立派ですよ。ですが、今度そういう機会があれば、ぜひ警察にも通報をお願いしますね」
「はは、そういう機会が無い方がありがたいですがね」
和やかな会話のようでいて、緊張感と疲労感で伊知郎の背中には冷たい汗が流れていた。
昨日の汗も含めて早く洗い流したいと伊知郎は思った。
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