第183話 妙に蒸し暑い気がした

「よかった、アルグス。無事だったのね。姿が消えてしまったから心配で、みんなで探しに来たのよ」


 だいぶ緊張感をもってこちらの様子を窺っていたアンセの表情であったが、扉のこちらにいるのがアルグスだと分かって表情が和らいだ。


 アルグスは足元を凝視したまま、何かに気を取られているようである。


「さあアルグス、急いでみんなの元に……」


 ドッ、と、鈍い音がしてアンセが目を見開く。


 近づいてきた彼女の体を、アルグスのショートソードが貫いたのだ。


「な……ぜ……?」


 瞳孔が開き、アンセの表情が絶望に染まる。何とかアルグスにすがろうと手を伸ばしたが、アルグスはその手に触れることなく彼女の腹を蹴ってショートソードを引き抜いた。アンセはそのまま仰向けに倒れ、ごぼりと血を吐き出す。


「ダンジョンにはドッペルゲンガーやトロールみたいに人間そっくりに化ける奴もいる。一度別れた人間がダンジョン内で再会する時、ましてやアンセみたいな熟練の冒険者なら、そう不用意に近づいたりはしない。それに……」


 無表情にそう呟いたアルグスは後ろに振り向いて、自分の足跡を眺めた。


「さっきまで断続的に滴っていた血液が急に止まった。残っている筈の既に落ちた血痕も消えている。ドアを開けたタイミングで何か仕掛けてきたな」


 確かに彼の後ろ、ドラゴンのすぐ横から歩いてきたときに血を滴らせながら歩いてきたはずなのであるが、その血痕もついていないし、左手首の傷口からもいつの間にか血が止まっている。


「こんな無駄なことに時間を取るな、ガスタルデッロ」


 そう言ってアルグスは天井を見つめる。


 しかしガスタルデッロからの返答は、無い。


「ふぅ……」


 妙に蒸し暑い気がする。


 アルグスは、額の汗を拭ってから、血だまりの中、すでに動かなくなったアンセの方を見た。


 当然ながら、動く気配はない。再び天井を見上げてから、そしてもう一度アンセの方を見る。


「おかしい……夢が……覚めない」


 妙に蒸し暑い気がする。


「はぁ……はぁ……」


 蒸し暑さのせいか、自然と呼吸が荒くなってくる。ふと、先ほど自分で切った左手首の内側を見てみると、血が止まっているどころか、傷一つないことに気付いた。


 「おかしい……さっき、確かに切ったはず。切った時の痛みだって、覚えている……」


 そうだ。確かに覚えている。その痛みを。


 さっき手首を切った時が現実で、今は夢の中のはず。まさかこれが逆であるなどという事はあるまい。きっと。


「そんな事が……あるはずがない」


 アルグスは何を思ってか、もう一度手首をショートソードで切ってみた。


「つっ……」


 ぴりりと、痛む。さっきと同じような痛みだ。


 いや……さっきは、本当に痛んでいただろうか。


 ほんの数分前の事なのに、記憶が酷く曖昧だ。


 妙に蒸し暑い気がする。


 不意に、心に闇が降りてきた。


「ひいっ……」


 がくりと膝が笑い、唐突に自分の体重を支え切れなくなりアルグスはその場にへたり込んでしまった。


 違う。そんな筈がない。これが現実であるはずがない。今殺したのはあのアンセであるはずがないのだ。これは夢の中のはずなのだから。


「アンセ……違う、そんな筈は」


 アルグスは思い通りに動かない足を引きずって血の海の中べちゃべちゃと音を立ててアンセに這いずって寄っていく。その瞳は既に光を宿してはいない。


「お、起きて。起きてくれ、アンセ!」


 彼女の上半身を抱き上げて膝の上に抱え、軽く頬を叩いてみる。


 反応は、無い。


「う、嘘だ……そんなはずは」


 荒い呼吸が口から洩れる。自分の心臓の音がどくんどくんとやけにうるさい。普段からこんなに大きな音がしていただろうか。

 アルグスは努めて冷静に首元に指を当ててアンセの脈拍を確認する。


 当然のことながら、脈打っては、いない。


「ち、違うんだ、アンセ。そんなつもりは」


 アルグスの瞳孔が開き、呼吸はどんどんと浅くなる。先ほどまではあれほど冷静に戦って、デーモンとドラゴンを屠っていたアルグスが、今はアドレナリンとエンドルフィンの枯渇による禁断症状で冷静な振る舞いが全くできないでいる。


「アンセ、お願い。お願いだから起きて。ねえ、そんな、死んだふりなんてしないで」


 既に物言わぬ抜け殻となったアンセに必死で話しかけるアルグス。


「違う、そんなつもりじゃあ……アンセ、意地悪をしないで起きて。僕は、君の事が……アンセ!」


 アルグスの指先は小刻みに震えていた。


「そんな……そんな筈じゃ……」


 震える指の爪の先を噛む。


 血の味がした。


 血の匂いもする。


 改めて、視覚と触覚以外でも、その死の気配が感じられた。目の焦点も会わず、どうしたらいいかもわからず、何を考えたらいいのかも分からない。


 この場所になぜアンセがいるのか。


 その不自然な状況を「おかしい」と感じる思考力すらも失われていた。


「助けて……だれか、助けて。このままじゃ、アンセが死んでしまう」


 ただ、指をくわえて、しょっぱくて鉄臭い、血の味だけを確認しながら焦点の合わない目でアンセを見つめ続ける。


「アンセ……」


 そっと、もはやピクリとも動かない彼女の頬を撫でる。


「ぼくの……こいびと」


 妙に、蒸し暑い気がした。

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