第五章:魚心あれば水心

 ネオン色が咲き乱れる夜。

 会社から数駅離れた場所で、私はぼんやりとその景色を眺めながら立っていた。

 人の行き来が多く、過ぎ去るように談笑が飛び交う。金曜日の夜だから、会社員と思しき人々は、心が解き放たれたような顔をしているように見えた。少なからず、私もその一人。

 だけど、今はとてつもなく心臓がどくどく跳ねていて、手汗もひどい。十二月の寒さなんて、どうでも良くなるくらい。

 なぜなら、今日は東さんとディナーの約束をしている。

 正直、最初は社交辞令化と思った。私と違って東さんは社内で有名で、営業の成績もよくて、顔もすごく整っている年上の人。そんな人が、辛うじて女をやれている私と食事をしたいだなんて、想像もしないから。

 本当に、どうして私なんだろう。

 社内には、もっとかわいい人はたくさんいるのに。

「ごめん、お待たせ」

 駆け足で現れた東さんに「私もさっき来たところなので」と、よくあるセリフを吐いてみる。どうやら定時予定だったが、急用で少し残業になってしまったよう。営業は大変そうだなと、ほとんどの日を定時で上がれている私は思った。

 辺りを見渡せば、ビルやおしゃれな施設が建ち並んでいて、視界に入る限りでは敷居が高そうなレストランばかり。よくよく考えれば、おしゃれで食通なら当たり前のことだった。

 私、こういうところ苦手なんだけどなぁ。

 緊張するし、どうやって食べればいいのか悩まされるし。

 そう懸念を抱いていたけど、ビル群を通り過ぎて小道に入る。たどり着いたレストランは、少しばかりこじんまりとしているけど、とてもおしゃれなレストランだった。

 店内はレンガのヨーロッパ風で、薄橙色の照明が落ち着いた雰囲気を醸し出す。席につくと手書きのメニュー表とその写真が張られたバインダーを渡され、いい意味でレトロなお店だと思った。

「こういうところのほうが、山下さんは好みかなって思って」

「よくわかりましたね」

「まあ、俺がこういう店が好きなだけってこともあるけど」

 ニッと東さんは笑みを浮かべ、そうなんですねと私もつられて笑ってしまう。目じりの小じわが愛らしく、これは女性陣が悩殺されるのも納得だった。

 事前に予約してくれていたらしく、出てきたコース料理はどれもおいしかった。特に、あの豚肉は最高だった。分厚く柔らかくて、あの白いソースが何なのかは分からなかったけど、とにかくおいしかった。

 東さんと過ごす時間は、正直楽しいなと感じている。

 立場の違う人だと思っていたけど、会話のテンポもあって、甘いもの好きなところも同じ。今日もデザートではしゃいでしまったけど、東さんは引かずに話を聞いてくれた。何なら私よりも詳しいから、勉強になるくらい。

 緊張なんて、いつの間にか忘れ去られていた。

 ほぼ初対面の方とこんなにも解けたことなんて、幼馴染の京ちゃんくらいしかなかったのに。それも、小学生の頃のこと。

 友達になれたら、きっと楽しいんだろうな。

「山下さん」

「はい」

「今度また、二人でどう?」

「はい、ぜひ」

 笑顔で頷く。今度はどんなおいしいお店に連れていってくれるのだろうか。それか次は、私のおすすめを紹介するのもありだなぁ。

 そうやって私の中で楽しみを膨らませていると、視界の片隅で、東さんが困ったように眉を顰めているのが分かる。

 浮かれすぎて引かれただろうか。不安になって声をかけてみると、「分かっていなさそうだから、あらかじめ言っておく」と彼は一つ咳払いをしてこっちを見つめる。

「俺はただ、君と一緒にいたいだけなんだ」

 姿勢を正し、栗色の瞳はとても真っ直ぐ私を捉えていた。私は、つい視線を外してしまう。

 どういう、ことだろう。

 一緒にいたいだけ。

 それは、友だちとして?

 それとも、男女として?

 いや、本当は後者なんじゃないかとは思っている。だけど、どうして私なんだろう。明らかに、東さんと私とではつり合っていないのに。

「休日に、どうかな?」

 少し前のめりになり、問いかけてくる。でも私はいっそう俯き、口を噤んでしまう。

「嫌?」

「あ、いえ、嫌とかでは、ないんですけど。ただ……」

 顔を上げてとっさに言うけど、けっきょくは答えになっていなくて、また下を向いてしまう。

「何か、悩んでいることがあるんだね」

 そう微笑んで言う彼の目元は、少し寂しそうに垂れ下がっていて、私は「ごめんなさい」と頭を下げる。

「俺は、本気だから……いつでも返事は待ってる」

 東さんは嫌な顔一つせず、おまけに会計まで済ませてもらって、至れり尽くせりという感じだった。

 駅は反対方向なのに、電車に乗るまで送ってくれた。

 電車に揺られながら、ドアに寄りかかる。窓の外に浮かぶ、点々とした夜の明かりを眺めた。

 機械的なアナウンスと、席で笑って話しているスーツ姿の男たちがうるさくて、イヤフォンをして塞ぐ。アプリから最近人気のプレイリストを開き、適当に音を流した。

 どうして、答えられなかったのか。

 一つは、東さんからの告白が魅力的だから。

 それともう一つは、何故か答えようとするたびに、零の顔が私の頭の中で過ぎってしまったから。

 なんで、零なんだろう。

 零は大学生で、私とは一回りも年が離れているのに。

 彼を、そういう目で見たことはないはずなのに。

 今日は、金曜日。

 本来だったらあの神社に行く日。

 だけど、零に今日のことは言えなかった。東さんと会うのは、それなりに前から決まっていたことなのに。

 言わなきゃいけない訳ではないけど、東さんみたいなイケメンの人と食事に行くんだから、自慢しても良いくらいだった。

 それでもこの前会った時、どうしても言えなかった。

 何を、後ろめたく感じているんだろう。

 ……いくら考えても、分からない。

 だから私は知りもしない音楽に耳を澄ませ、来たことのない街の夜の景色をぼんやりと見る。

 私には、恋愛は向いてないんだ。

 そう、言い聞かせながら。



 囲むようにそびえ立つ山々と、視界を埋め尽くすほどの緑。といっても、それのどれもが田んぼや畑だけど。

 空気はとても澄んでいる。都内で感じる埃っぽさは微塵もなく、深呼吸をするとむしろおいしいなと感じくらい。

 私は今、父と母と車に乗っていた。運転は、父がしてくれている。私も免許は持っているけど、すっかりペーパードライバーになってしまった。仕事に追われていたこともあるけど、今どきネットショッピングがあるし、買い物はそれで十分だったから。

 向かっているのは、茨城に住んでいる父方のおばあちゃんの家。

 私もお父さんも年末年始休暇に入っていた。年越しを迎える前は、父母どちらかのおばあちゃんの家に帰ることが、毎年恒例になっていた。

 でも、私が名古屋にいた時は、たまに仕事が忙しくなって行けないこともあった。東京に戻ってからは会社が割とホワイトだから、そういうことはめっきり減って、そこは親孝行できて良いなって思っていた。

 車で約三時間。凸凹した細い道を抜け、おばあちゃん家の庭に着く。あらかじめ連絡しておいたからか、玄関のところで待っていたおばあちゃんに手を振られ、私は手を振り返し、お母さんは会釈をしていた。

「寒かったろう。早く家にお入り?」

 二重の玄関をくぐると、廊下はキンキンに冷えていた。手を洗うために使った水道水も痛くなるほど冷たい。でも居間の方に行くと暖房がついていて、中央にはこたつ。私は真っ先にそこに入り、ぬくぬくする。

 それからの数日間は、親戚の人たちと会ったり、おじいちゃんのお墓参りにいったり。それ以外の時間は、基本的にダラダラしていた。

 でもその数時間、私は厚着をして、鉛筆とスケッチブックを手に外へ出ていた。

 せっかくこんなにも喉かな場所に来ているのだから、東京では見られないものを描いておきたいと思った。あまりの寒さにずっと居続けることはできなかったけど、数日間に及んで描き続けたおかげで、どうにか完成することができた。

 稚拙だなって、感じてしまった。

 寒すぎて震えていたせいもあるけど、きれいな景色をそのまま描いている感じ。全然、学生のころの方がうまかった。

 でも、どうにか描き切ることができた。

 今はその事実の積み重ねが大事だと、心に言い聞かせる。下手なことに悲観して、後戻りしないように。

 今日は後ダラダラするだけかな。帰るの明日だし。

「晴ちゃん、ちょっといいかい?」

 何かなと着いていってみると、連れて来られたのは、何も植えられていない土だけの畑。まだ冬だし、ここで何をするのかと思えば、畑に残った茎や葉の野菜くずの掃除をするのだと言い、私にはその手伝いをしてほしいそう。

 することもないから良いか、と気軽に引き受けたものの、案外きつい作業だった。

 ただ野菜のくずを拾うだけ。でもずっと同じ体勢で、二人でやるにはかなりの広さだから、腰がめちゃくちゃ痛い。これを還暦越えのおばあちゃんが一人でやっているのだとすると、改めてすごいなと思わされた。

 拾った野菜くずは堆肥にするらしい。そこらへんはよく分からないから、あまり詳しく聞かないでおくことにした。

「晴ちゃん、居間で描いてた子、きれいな子やね」

「え、見たの?」

「彼氏かい?」

「違うよ、ただの友達、みたいな子」

 頬をかきながら答えると、おばあちゃんはニコニコしながら首を縦に振っていた。このままでは余計な詮索をされそうで、私は話題をそらす。

「すごいね、ずっと畑続けてて」

 手元を動かしながら言うと、「まあねぇ」と私より倍くらい早く拾い集めていく。どうにか同じ速度に近づこうとするけど、ちょっと無理そうだ。

「飽きたりしないの?」

 何気なく出た言葉だった。きっと何十年も同じことを繰り返しているのだから。実際、仕事ってそういうものなのではないかと、私は段々と感じ始めていた。

 でも、すごく失礼なことを言ってしまったことに気づく。

 人の仕事にケチをつけるのは、よくないことに決まっている。

 理由はどうあれ、頑張っているものを否定されることの辛さは、私は身に染みて知っているから。

「そんなこと、考えたこともなかったね」

 そんな心配とは裏腹に、おばあちゃんは一瞬黙ったかと思えば、カラカラと大きく笑った。

「そうなの?」

「愛情を注いで育てているからかねぇ」

 悩む素振りを見せず、すぐに帰ってきた言葉。それはたぶん、おばあちゃんにとって当たり前のようなことだからかもしれない。

 愛、かぁ。

 ふと考えてみると、愛ってなんだろうって思った。

 好きと似ていて、また遠いもの。

 それがどうしてなのかは、私には分からないけど、ただ違うものなんだということは、私も感じていた。

「おじいちゃんとの、唯一の繋がりだからねぇ」

 ぼんやりと空を見据え、零すように言葉にする。この空気のように澄んでいて、私の心にすんなり入り込んできた。

 私は、今でも忘れられない。

 おばあちゃんがあの時、涙を流していた姿を。

 いつもニコニコしているおばあちゃんの、初めて見た涙だった。

「大切な人が大事にしていたものだから、私にとっても大事になるのよ」

「何か、それは分かる気がする」

 気づけば出ていた言葉に、おばあちゃんはうんうんと頷いた。

 本格的に絵を描き始めたのは、初めて私の絵を好きだと言ってくれた人がいたから。今こうして絵を描き続けているのも、そのおかげ。

 だから、いつかまた好きだと言って欲しくて、絵を描き続けている、ということもあるのかもしれない。

「そうやって、伝っていくものなのかもねぇ」

 しゃがみ、おじいちゃんと育て上げてきた土に触れ、そっとすくう。素人目にも分かる年季の入った土には、二人の努力を感じる。

 伝っていく。

 あの人以外にも、私の絵を好きだと言ってくれた人。

 零は今、何をしているのだろうか。

「誰を思い浮かべているんだい?」

「え、どうして?」

「すごく、良い笑顔になってるからねぇ」

 私はえっと声を上げてしまい、顔が熱くなるのを感じる。寒いから余計に熱く、痒くて、それを見て「そっかそっか」と察したかのようにおばあちゃんは微笑んだ。

「魚心あれば水心」

 唐突に言われ首を傾げると、おばあちゃんは説明してくれた。

 魚が水に好意を持てば、水も魚に好意を示してくれる。このことから、人も好意を持って接すれば、相手も応じてくれる、という意味らしい。

 つまり、自分から心を開くことが大切だと言う。

「好きはね、とても移ろいやすいけど」

 おばあちゃんはよっこらしょっと立ち上がる。

「好意を伝え合って、いつか愛になった時、いつまでもずっと変わらないものになると、おばあちゃんは思う」

 拾い集めた物を持ち上げ、おばあちゃんは私の分まで受け取ろうとする。腰とか辛いはずなのに、そういうのを一切見せずに。

 また今年も、おじいちゃんとの畑を続けるために。

「だから、今の好きって気持ちを大切にしなさいね?」

 冬の太陽のように穏やかな笑顔に、私は目が離せなくて。ぼうっと突っ立っていると、行くよぉ、と声をかけられ、私はおばあちゃんの背中をついていく。

 昼下がりの太陽と、白む田んぼや畑。山々は朧げに映り、ああ、広いなって、今さらながら感じていた。

 彼女の背中は丸まっているけど、今の景色みたいに大きく見えて、私はおもわず両手でフレームを作り覗いていた。

 写真は撮らなかった。

 目に、焼きつけるように。

 土に汚れた手のひらを見つめ、ぎゅっと握る。

 もしかしたらおばあちゃんは、元々畑仕事が好きではなかったのかもしれない。昔はお見合いとかが主流だったから、本当に好きな人と結婚していない可能性もある。

 でも二人は歩み寄るように畑仕事をして、愛し合って、あの時のおばあちゃんは、涙を流さずにはいられなかったのかな。

 愛って、なんだろう。

 愛し合うって、どんな感じ何だろう。

 好きさえもよく知らない私には、果てしなく遠く感じてしまった。



 幸せで不幸なお知らせが、私のところに押し寄せてくる。

 年賀状の文化が少なくなりつつある今でも、LINEというもので新年の挨拶をする。二十代前半までは、特に気にしていなかった。

 でもこの年になって、久しぶりの知り合いから連絡が来ると、つい目に入ってはため息が出てしまうことがあった。

 それは、子どもが写ったアイコン。

 私の年になると子どもが一人どころか、複数生まれている女性もそこそこ出てくるようになる。

 その度に、私の時間だけが取り残されているように感じてしまう。結婚どころか、彼氏すら作ろうとしていない私は、何も進んでいないみたいで。

 写真だけで、幸せなんだろうなって思う。

 好きになった人と結婚し、その間に子どもが生まれて。

「好きって、なんだろう」

 冬の夜空を眺めながら、ホットココアをちびちび飲む。両手で握っているとじんわり温かくて、ほうっと息を吐くと、空気が白く曇る。

 今夜は金曜日。

 年明けに初めて来た恋岬神社は相変わらず廃れていて、日中さえ、誰か来ていた気配をまるで感じない。

 もしかしたらここを訪れるのは、私と零ぐらいなのかもしれない。

「どうしたんですか、いきなり」

「いや、最近そういうのに触れる機会が多くて、何となく」

 はは、とどこか自嘲的に笑ってしまうと、零は「分からなくもないかな」と同じように笑った。誰にでも好かれそうなこの子に言われるのは、何だか癪だけど、そういう人なりに感じることもあるのかもしれない。そう思えるくらいには、一周回って落ち着きつつあった。

「零は、正月は実家に帰ったの?」

 正月を過ぎたら、誰にでもするような質問。だから特に意味はなかったんだけど、零は肩を強張らせ、頬をかいてから口を切った。

「はい、まあ、少し」

 珍しく、ハッキリしない答えをする彼。私は「そっか」とだけ答えて、「さむー」と適当なことを言っておいた。

 何となく、察してしまった。

 もしかしたら零の中で、家族のことはグレーな話なのかもしれない。

「絵は、好きなことじゃないの?」

 唐突に言われてすぐに言葉が出なかったけど、少ししてさっき「好きって、なんだろう」と言ったことの返答なんだと気づく。

 私はすぐに首を振る。

「それはそうかもしれんないけど、私が思ったのは人間関係のことだから」

「同じですよ、たぶん」

 即答され、私は彼を見遣る。零は「その人にとってかけがえのない存在なら」と付け足すように言った。

 でも私はその言葉をうまく飲み込めなかった。

 趣味に対して好きという感情は一方通行で、人間相手だと、その人も関わってしまう。だから私には、別もののようにしか感じられなかった。

「まあ、もはや晴にとって絵は、愛に近いかもしれないですけどね」

「そうなのかな」

 眉を顰めてしまうと、零は「羨ましいよ」と消え入りそうな声。私の何を見て、羨ましいと思うのだろうか。

 ただの、絵を趣味にしている会社員なのに。

 私には自由な、大学生の男の子の方が羨ましく見えた。

「晴さんは、ちゃんと好きになれますよ」

 私に一つ微笑みかけてから、空を見上げる。木々のおかげで空気は澄み、夜空が映り込んだ瞳には星々が浮かぶ。キラキラしていて、きれいだなって変わらず思う。

 でも、なんだろう。

 今の彼の眼差しは、虚ろに見えた。

「零夜は、何か好きなことないの?」

 そういえば、私は零のことを何も知らない気がする。

 好きなものも、嫌いなものも、過去や将来についても。

 いつも、私の話を聞いてもらってばかりだから。

 零のことも知りたい。そう思ったのとは別に、彼に好きなものがあるか質問した理由はあった。

『晴さんは、ちゃんと好きになれますよ』

 そこには何だか、零夜は含まれていないような、そんな気がしたから。

「……なさそうですね」

 目を伏せ、顎に手を当てながら長考していたけど、けっきょくその答えが来た。「ほんとに?」と聞くと、「ほんとに」と苦笑いしながら返ってくる。

 でも、そのことを否定はできないなとも思った。

 今なら、もしかしたら言葉にできるかもしれないけど、少し前なら絶対に好きとは言えなかった。

 だからある意味、零は本当のことを言ってくれているように、私には感じられた。

「得意なことも?」

「強いていうなら、料理とか」

「あー、何か似合う」

 つい出た一言に、零はくすくすと笑う。「晴さんは、想像できないかも」と余計なことを言われ、私はむすっとして肩を小突く。いっそう彼は声を漏らして笑い、気づけば私も笑顔になっていた。

「食べてみたい、零夜の料理」

 そう言ってみると、零はぽかんとこっちに目を据える。私が眉を顰めてしまうと、「まあ、分かってないですよね」とため息交じりに言われる。

「どういうこと?」

 前のめりに聞き返してしまうと、また一つため息を吐く。すると彼は、今まで保たれていた距離を踏み越え、私の真横に座る。

 そして、私の手をそっと握った。

「誘ってる? ってことですよ」

 じっと、私のことを見つめてくる。視線が離せずに、何度か目を瞬かせてしまう。その瞳にはさっきまで星空がきらめいていたのに、今は、ぼんやりと私の姿が見える。

 どうして、私の手を握っていて、こんなにも近いんだろう。

 それに、誘ってる?

 いったい何のことを言っているのか……私はとっさに彼から距離を取り、彼の触れていた手を胸の辺りで握りしめた。

「え、いや、そんなつもりはなかったんだけど」

 私は今ごろ、すごく大胆な発言をしていたことに気づいた。零が困惑するのも納得で、穴があったら今すぐにでも入りたい。

 手料理を食べたいということは、彼の家に行くということになる。

 一人暮らしをする、大学生の青年の家に。

 そんなの客観的に考えてみれば、何も起こらないはずがなかった。

 顔が、馬鹿みたいに熱い。彼の目も、顔も見ることができない。そうやっていつまでも俯いていると、隣からくすりと小さく笑い声が聞えた。

「大丈夫、分かってますから」

 そう言いつつ未だに笑い声を漏らしていて、私は目を丸くしてしまう。やや経って冗談だったことに気づいた私は、唇を尖らせ彼の肩を押そうとした。

 だけど寸前で、彼に手を握られ止められてしまう。

 すぐ離してくれるかと思った。でも零は私の手を握ったまま、じっとそこに顔を向けていた。

 じわりと、そこだけが熱を持っているみたいだった。それが伝染するように、私の胸の辺りにも流れてきて、すぐに離そうとする。

 するとハッとしたように私を見て、手を離し、すぐに笑みが戻る。

「まあ、気が向いたらですかね」

 それだけを言って立ち上がり、そろそろ帰りますか、と言われる。時間も時間だから、私はとりあえず首を縦に振った。

 零は毎回、家の近くまで送ってくれる。

 夜道は危ないと、ほぼアラサーの私を女性扱いしてくれる。元々そういうことをされたことがなかったからこそ、当初は照れ臭かったのを覚えている。

 だから、あまり遅くならないようにしてくれるのは、とても自然な行動なのかもしれない。

 それでも、さっきの零がおかしく感じてしまうのは、私だけなんだろうか。

 そう思いつつ、どう聞けばいいのか分からなくて、けっきょく道を分かれるまで楽しく話して終わってしまった。

 ぴろん、とスマホが鳴る。

 東さんからメッセージで、最近見つけたというスイーツのURLを送ってくれていた。おいしそうだから私も買ってみようと思いながら、前に告げられた東さんの言葉を思い出す。

 いつでも待ってる。

 そう言ってはくれているけど、いつまでも待たせているわけにはいかない。

 そもそも、まだ告白されたわけではない。

 ただ、デートに誘われているだけ。

 趣味も合って、話も弾んで、社内で期待もされている。おまけにかっこよく優しい。こんな素敵な人、中々いないと思う。

 そんな男性に誘われているんだから、素直に会うべきなのかもしれない。

 なのにこうして返事をできずにいるのは、東さんとは真剣に向き合わなければいけないと思うから。

 ずっと、引っかかっていた。

 私にとって、今したいことはなんなのか。

 好きなことは、なんなのか。

 答えをもう、出さなければいけないのかもしれない。

 けど、もうとっくに私の中で出ている気がする。

 私の現状を考えると、浮かぶものはたった一つしかないから。

『今度、会いませんか?』

 私は、東さんにメッセージを送った。

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