第二章:やさしさ

『彼女に優しい自分が好きなだけでしょ?』

 そう涙ながらに突き付けられたのが、高校二年生の秋。

 日の落ちた空に、深く息を吐く。

 街灯には埃で薄っすらと、呼気の輪郭が浮かび、消えると、また一つため息が零れた。

 片手をポケットに突っ込む。じんわりと暖かくなっていく。先月より先週、先週より今日と、少しずつ前より空気が冷たくなるのを感じた。

 夏が過ぎると、街中を歩きたくなる。

 目的地はなくただひたすら、ぼんやりと一人で喧騒の中を進む。

 左からは車のヘッドライトが視界の端をすり抜け、右からは店内の活気が誘うように道中へと流れていた。

 でも、基本的にそっちへ足を運ぶことはない。あっても、コンビニくらい。そういうのを求めて、ここに来ているわけではないから。

 空の車のバックライトに照らされた、二人の男女。

 何をするでもなく、ただ手を繋いで、幸せそうに微笑んで見える。

 そういう時間の楽しさが、僕には分からない。もし彼の立場に僕がなったら、きっとひどく透明な空間に感じてしまう気がする。

 俯きがちに、その光景をしり目に横を通り過ぎる。

 その時、口角が嫌につり上がるような笑みが溢れていた。

 ふと、思ってしまった。

 あんなふうにできれば、僕は彼女を傷つけずに済んだのだろうかと。

 そもそも、そんなふうに思っているから、僕は彼女のことが分からなかったのかもしれないけど。

 ひたすらに足を進めていると、見覚えのある場所に着く。

 青い通学路の看板とミラー。小学校と中学校の分かれ道のY字路。

 僕たちは高校生になっても、今までと同じようにこの道を使い、一緒に通学していた。それは僕たちの関係が変わる前から、ずっとそうだった。

 今はもう、通学でこの道を使うことはないけれど。

 僕は踵を返し、また、来た道を戻る。

 まだ、家に帰るべきじゃない。

 きっと今この時間は、家に明かりが点いているはずだから。

 さざ波に流されるように、ふらふらと歩く。薄く伸びる影や横を通り過ぎるバイク、半分にかけた月を眺めながら。

 目的地はないけど、目的はあるにはあった。

 ただ、一人になりたくなかった。

 部屋に一人でいると色々なことを考えて、この頃の冷たい夜風みたいに、思い出したくないことが頭の中をつんざくから。

 でも、家の中にはいたくない。

 僕のことを知っていると人といっしょにいると余計に、一人きりなんだっていう思いでいっぱいになる。

 誰かと一緒にいたくない。

 でも、一人にはなりたくない。

 そんな衝動へいっそうかき回される秋は、やはり好きにはなれないんだろう。

「ねえ、お兄さん」

 今おひとりですか? と女性に声をかけられる。ぼんやりと駅前で壁に寄りかかっていたら、いつの間にか隣で同じようにしていた。

 顎のあたりで切りそろえられたボブヘアー。深いブラウンカラーの毛先には、軽く外巻きのカールがかかっていた。化粧は今どきのナチュラルメイクで、目元だけはパッチリとしている。

 熟れた桃のように潤んだリップで、「今日、寒いですね」と体を擦りながら空を見上げ、緩やかにこちらへ視線を繋ぐ。この女性は何も羽織らずに、上半身は少し厚手のニットだけ。

 僕は羽織っているブルゾンに手をかける。けど、ぴたりと手を止めてしまう。

 無意識だった。

 あの時の、ある女の子の顔が、何もない心を逆なでするように脳裏を過ぎった。

 だけど本当に一瞬のことで、僕はさっさとアウターを脱ぎ、後ろに回って女性の肩にかけてあげる。

 いいんだ、これで。

 そう頭の中で繰り返しながら、目の前にいる女性に笑顔を向ける。

 すると白々しくもお礼を言われる。

 誘いだと分かっていて、それに乗った。お互いの目的はいっしょで、その後は何も残らないことを知っている。

 人の温もりだけを感じられる。

 僕にはそれだけで十分なんだ、きっと。

 思考回路の明かりを落とし、夜の街へと呑まれていく。

 そして気づけば時間というものは過ぎ去っていた。

 カラフルだった夜の光は、深い夜の暗闇に塗りつぶされ、明けた空はやけに白くて目が眩む。僕も、ひと時の熱から抜け出す。

 その頃にはもう、女性の顔なんて忘れていた。

 覚えていることといえば、パーツが綺麗だったなってことくらい。

 一人になりたい。

 けど迫りくるように、いつだって誰かの熱を体が求めだす。僕はいったい、どうしたいんだろう。分からないけど。

 まあ、いいか。

 どうでもいい。考えても無駄。

 そうやってまた、僕は一人で夜の街へと流れる。

 早く、僕の中で進む時間が終わってくれないかなと。

 思えば、幼い頃から何も変わっていないのかもしれない。

 僕はいつまで経っても、空っぽのままなのだから――



――陽だまりで微睡む中、鐘の音に呼び起こされる。

 耳に馴染んだその音は、教室を一気に活気で満たす口火となり、さっきまでの引き締まった空気は見る影もない。

 それでも僕は尾を引くように欠伸をしていると、ひらりひらりと何かがノートの上に乗る。触れると今にも溶けてなくなってしまいそうで、そっと手の平に乗せた。

「桜の花びら、か」

 そう窓の外を覗くと、視界の七割は緑に色づいていた。そういえばだいぶ暖かくなってきたなと、春の終わりを噛みしめるようにじっと桜の木を見据える。

 春は、季節の中では好きな方。

 夏は暑くて、秋は何かと忙しく、冬は寒いから。それに比べて春は暖かくて、あまり行事もない。つまり消去法で、気楽でいられる春が好きだった。

「いつまでぼうっとしてるの?」

 ため息交じりに聞こえた声に振り向くと、一人の女の子が呆れたような眼差しで立っていた。

 彼女は幼馴染の藍花(あいか)。

 学校のパンフレットに載るほどきれいに着られた制服に、そよ風に揺れるさらさらな長い髪は一つにまとめられている。眼鏡はブラウンのスクエア型。真面目をつぎ込んだかのような外見のままに、中身も秀才。

 顔はたぶん、かわいいんだと思う。

 もう少し着崩せばモテそうなのにな、とは思いつつ、絶対に怒られるだろうから一度も口にしたことはなかった。

「こんな日に日向ぼっこしたら、最高なんだろうなって」

 欠伸をしてから言うと、次はあからさまにため息を吐かれる。ちんたら片づけていたら、いつの間にか手伝ってもらっていて、彼女はテキパキと近くの机をくっつけ、弁当を広げた。

「そういえば、また彼女と別れたの?」

「うん、一昨日に」

 頬杖を付きながら答えると、藍花はまたため息を吐き、きれいな姿勢でご飯を食べる。僕のせいで何回ため息を吐かせているのか気になり、思い返していると、彼女は机を指さす。そこには米粒が落ちていて、ぽいっと弁当の蓋裏に乗せた。

「全然長続きしないよね。今さらだけど」

「はは、どうしてだろうね」

 苦笑いしながら、おどけてみる。というより、そうするしかないのかもしれない。

 振られる時は決まって、僕は悪者になる。

 それに気づき始めたのは、たしか中学校の卒業間際だったと思う。

 小学生の頃は、目立つ方ではないけど、特別引っ込み思案というわけでもなかった。そのせいかすごく中途半端な立場にいて、クラス内に派閥があっても、どちらにも関りがあって遊ぶような感じ。

 そのどっちつかずで、優柔不断だったのがいけなかったのか。

 小学生の頃、集団でいじめを受けていた時期があった。

 といっても机に落書きをしたり、教科書等を隠したり、という派手なことはされなかった。どちらかというと、班行動で強制的に嫌なことやらされたり、てんか(ドッチボールの個人戦のような遊び)で遊んでいるように見せて執拗にボールを当てられたりと、陰湿なことばかり。

 それが数か月続き、クラス替えのタイミングでいじめは終わった。

 でもそのせいで僕は、トラウマのようなものを植え付けられた。

 世の中で一番怖いのは人間なんだって、子どもながらに思い知らされた時だった。

 その経験を踏まえ、中学生からはあまり人と関わらなくなった。

 それなのに、何故か女の子から告白されるようになってしまった。

 周りからそれとなく聞くと、どうやら静かに過ごしていたところを、クールでかっこいいと勘違いしてしまう女子が数人いたらしい。

 告白は、ほとんど断らなかった。

 初めて告白された時、どうして良いか分からなくて断ったことがあった。その時は初心で、恋愛なんかこれっぽっちも分からなかったし。

 その時に泣かれてしまい、罪悪感に苛まれたことがあってから、よっぽどのことがなければ、ひとまず告白は断らないことにしていた。

 だからといって適当に付き合うわけではなく、自分なりに本気で恋人をしていた。

 でも、うまくいった試しなんて一度もない。

 想像と違ったとか、いっしょにいても楽しくないとか、散々な言われよう。

 それでも、定期的に彼女はできていた。

 断って罪悪感に押しつぶされるくらいなら、きっぱり僕に飽きてくれた方がマシだと思ったから。そのまま時間が経って、忘れるか、笑い話にでもしてほしいとさえ思う。

 もちろん、振られる時はかなり辛い。けどそうすること以外、他の方法を今でさえも思いつかずにいる。

 誰かのことを好きになったことがない。

 そのせいで、今みたいになっている。

 ……違う、本当は分かっていた。

 それでも誰かと付き合うのは、僕自身の弱さが原因だって。

「好きじゃないから、続かないんでしょ?」

 頬杖を付きながら辛辣な言葉を浴びせられ、頬をかいてしまう。

「まあたしかにそうなんだけどさ、これでも本気で向き合ってるつもりだよ?」

 はは、と笑いながら言うと彼女に、笑わないで、と冷たい声で軽く睨まれる。僕は口を噤んでしまう。口調が厳しいのは相変わらずだけど、いつもと違う気がする。どうして怒っているのか、僕にはあまり分からないけど。

「そうじゃなくて、相手の子がってこと」

 ぱんっといつの間にか食べ終えた弁当箱を勢いよく閉め、そそくさと片づけを始める。

「私だったら――」

 去り際に零した声は、教室の笑い声にもみ消される。何て言ったのか気になったけど、すぐに廊下へと出ていってしまった。

 その後、藍花と話すことはなくて、そのまま放課後になってしまう。いつも通り一緒に帰るのかと思ったけど、今日はどうやら、僕の妹の一夏(いちか)と出かける予定があるらしい。今は彼女もいないから、真っ直ぐ家に帰る。

 だけど空が暗くなってきた頃、藍花から一つのメッセージが送られてきた。

『この後7時に、マンションのロビーまで来てほしい』



「ごめんなさい、お待たせ」

 ロビーにある椅子でダラダラと本を読んでいると、制服姿の藍花が現れる。僕は何度か瞬きし、首を傾げてしまった。

「制服?」

「さっき一夏ちゃん送って来たばかりで、そのまま来たから」

「それなら、僕も部屋で待って入れ替わりで良かったんじゃない?」

「それだと、駄目、今日は」

 藍花は俯きがちに首を横に振る。覗き込もうとすると、彼女は唇を尖らせてすぐにそっぽを向いてしまった。

「まあでも、いったん着替えてきなよ。制服だと、色々とあれだし」

「そうだね。急いで着替えてくる」

 ゆっくりで大丈夫だよと言う前に駆け足で行ってしまい、僕はまた小首を傾げながらも本を開いた。

 戻ってくると、何故か彼女は眼鏡からコンタクトにし、服装もパンツではなくロングスカートを履いている。スカート姿なんて、制服以外でほとんど見たことないのに。

 僕たちはロビーを出ると、歩き出す藍花に僕がついていく形になった。

 辿り着いたのは、Y字路の先にある小さな公園。砂場とブランコ、滑り台があるだけの、普通の公園。小学生の頃はよく来ていたなと、少し懐かしくなる。

 でも幼い頃とは違って、僕らは親たちがよく座っていたベンチに腰掛ける。といっても、僕の母さんがこの公園に来たことは、ほとんどないけど。

 母さんは、僕に興味なんてなかったから。

「月が、きれいだね」

 風になびく長い髪を押さえながら、藍花はそんなことを言う。柄にもないことを突然言うものだから、少しからかおってやろうと思った。けど、瞬く間にそんな気は失せてしまう。

 降り注ぐ月明かりに濡れて、彼女の黒髪がやや青みがかる。

 髪の一つ一つが目に映りながらも、風が吹くと絹のカーテンのように滑らかに揺れ、微かに花に似た甘い香りがした。

 よく見ると黒髪のカーテンから透けて、目元にはラメが映る。口元も艶やかで、ほんのり赤い気がした。

 藍花の長い黒髪は、昔から好きだった。

 彼女の真っ直ぐで清らかなところを表しているみたいで、幼かった頃はよく触っていた気がする。

 そんなふうに改めて思ったけど、新たな気づきもある。

 彼女が化粧をしているところを、初めて見た。きっと香水も使っていて、いっしょにいるからこそ知っている柔軟剤の香りは、もうしない。

 思えば、藍花と学校や帰り以外で会うことは、中学生の頃からめっきり減っていたかもしれない。

 だからこそ知らなかったのか、そもそも、そういうふうに彼女を見ていないから気づかなかったのか。

 普段は女の子といる時に、変化に敏感でいるように気をつけている。そうすると、喜んでもらえることが多いから。

 でも、藍花には自然と気づいていた。

 だから、不思議で仕方がなかった。

 僕たちは、幼馴染でしかないはずなのに。

「今日は、話があって呼んだの」

 藍花は未だにこっちを向かず、月の光に浮かぶ影を見据える。小さな石ころをこっち目がけてけると、僕の足にぶつかる。「いてっ」と冗談で言ってみるけど、彼女はそんなこと気に留めることなく、ようやく僕の目を見た。

 いつもの視線ではなくて。

 月光に照らされた、そよ風に揺れる湖のように潤んでいて。

 その想いのこもった瞳に、僕はおもわず息を呑んでいた。

「好き、です」

 頬が、ほんのり赤い。

 膝の上に置かれた両手は、震えながらぎゅっと握られている。揺れる真っ直ぐな視線に、僕は頬をかきながら視線を落としてしまう。

 好き……藍花が、僕を好き……。

 分からない。

 いったい、何て答えればいいんだろうか。

 僕の返事によって、今までの関係はがらりと変わってしまう。

 でも、このまま付き合えば、ある意味では今までどおり。

 だからといって、付き合ってもいいのだろうか。

 幼馴染で、家族みたいに大切で。

 だからこそ、悩んでしまう。

「大丈夫、分かってる」

 藍花は口角を上げ、すっと立ち上がる。

 大丈夫と言っているけど、彼女はずっと夜空ばかり見つめて、全くこっちを見ようとはしてくれない。

 きっと、気づいている。

 僕が藍花のことを、そういうふうに見てはいないことに。

 でも、それは彼女に対してだけじゃない。

 悪いのは、僕。

 心の底から何か好きになれないから。

 僕の都合で、藍花を悲しませて良いのだろうか。

 だから、僕は――

「付き合おう、藍花」

 立ち上がって、藍花の手を取る。軽く手を引いてこっちを向かせると、目を見開き、今にも零れ落ちてしまいそうなくらい瞳は濡れていた。

「……そっか……そっか」

 消え入りそうな声に、耳を澄ませる。

 その言葉は、どこか言い聞かせているようだった。

 俯いて目元から零れ落ちそうになり、僕はおもわずそれを拭おうとすると、彼女は「メイクしてるから」と振り返ってしまう。その間、僕はぼんやりと公園の方を眺めた。

 ここで、小さい頃は遊んでいた。

 太陽の下で無邪気にはしゃいで、体中を砂まみれにして。

 でも今は、お互い身だしなみを気にするようになって、二人だけど、全く違う関係に変わろうとしている。

 だからなのか。

 体が、変にフワフワしていた。

 観客席から眺めて、まるで別の誰かの話を聞いているみたいで、どうしても実感が湧かなかった。

 当たり前かもしれないけど、やっぱりまだ。

 僕の中では、藍花は幼馴染だから。

「私は、どんなあなたでも好き……ずっと、いっしょにいたい」

 背後から抱きしめられ、背中越しに彼女の声が震えて伝わる。というより、本当に彼女の声は震えていた。

 びっくりするほど温かくて、僕は振り返り、正面から彼女を抱き寄せる。ゆるやかに、力強く。

 最初は動揺を感じたけど、すぐに彼女の手は僕の背へと回される。

 漫画やドラマでいうところの、ドキドキ、というものはなくて、妙なくらい頭の中は冷静だった。

 だけど、今までと少し違う感覚。

 藍花の熱に触れていると、心まで伝染するように落ち着く。

 もしかして、これが好きになるということなのだろうか。

 ……そうだといいな。

 これまでとは違う関係。

 けど、根本的なところは変わらない。

 藍花は、ずっと大切で。

 このひと時で、もっと大切な存在になっただけ。

 だとしたら、彼女となら、うまくやっていけるかもしれない。

 そう、つい笑顔がこぼれてしまう。それが彼女から見えたのか、僕を抱きしめる力が強まるのを感じた。

 でも、僕はまだ知らない。

 この瞬間の選択が彼女に、また別の意味の涙を流させることになろうとは。

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