第2章

第10話

 東海道を一組の旅装の男女が並んで歩いている。菅笠すげがさをかぶった山岡鉄太郎と、益満休之助改め、おみつは手ぬぐいを頭巾にしている。

 三月六日の早朝に二人は江戸を発った。

 江戸から二里(約八キロメートル)進むと最初の宿場町しゅくばまちである品川に到着した。江戸湾えどわんの海岸脇に連なる宿場町は「北の吉原、南の品川」とうたわれる一大遊里としての顔を持っていた。

 八代将軍徳川吉宗とくがわよしむねが桜の名所とした御殿山ごてんやまは、燃えるような桜色に染まっていた。

 さらに三刻(六時間)歩き続けて川崎宿に着いた。

 川崎宿の手前には多摩川下流の六郷川ろくごうがわという大きな川がある。鉄太郎とお満はしばらく待ってから渡し船に乗って船着き場に到着した。

 驚いたことにすでに官軍が川崎宿まで進軍していて、そこかしこに兵たちが固まっていた。「だんぶくろ」と称するズボンを穿いた洋装の軍服も目についた。

「おい、そこんおとことおなご。どけいっとじゃ」

 三人の薩摩藩士が近づいてくる。

「なんて言っているんだ」

 鉄太郎は手に負えないといった顔をお満に向けた。

「どこに行くのか、と聞いております」

「おまえさんとこの大将に呼ばれて行くんだよ」

「なにゆちょっど」

「すまぬが相手をしてくれ」

 お満は微笑んでから薩摩武士たちに近づいて行った。お満は木札きふだらしきものを見せてなにやら説明をしている。

 ――薩摩の手形みたいなものか。

 しばらくするとお満が笑顔でもどってきた。

 薩摩武士たちに会釈をする。

「気をつけて行けや」

 薩摩藩士たちも機嫌はよいようだ。鼻の下をのばしてお満を見送っている。

 ――これは助かるな。

 鉄太郎にとってこの道中、お満の薩摩藩隠密という立場と美貌はたしかに役に立ってくれそうであった。

 ――しかし味方であるとはかぎらぬ。

 西郷吉之助さいごうきちのすけがなぜ益満休之助――お満を立会人に指名したのかも分からない。

 お満は薩摩藩の隠密だ。西郷が仕掛けた罠に加担していることも十分に考えることができる。

 ――いまはなるようにしかならぬか。

 まだ駿府への旅は始まったばかり。

 あまり考えすぎると、かえって身動きが取れなくなる。

 山岡鉄太郎はまずは旅を楽しむことにした。


「うむ。こいつはうまい」

 川崎宿で鉄太郎とお満は昼餉をとっていた。

 鉄太郎は茶碗の飯をいきおいよく口にかきこんでいる。

 名物茶屋の万年屋で奈良茶飯ならちゃめしを注文した。奈良茶飯は炒った大豆や野菜などを塩味で炊き込んだ茶飯である。もともとは奈良の東大寺とうだいじなどで食べられていた。

 ほうじ茶と大豆の香ばしさが食欲をそそり、鉄太郎はすでに三杯目であった。

「ずいぶんと気に入られたようですね」

「腹が減っては戦はできぬと言うではないか」

 二人は店先の縁台に座っていた。

 お満は茶碗を盆においてから、手を合わせてごちそうさまと言った。

「忍法肉ノ宮、と言ったか」

「はい。わたしはどのような姿にでも自在に化けることができます。男でも女でも」

「見事なものだ。虎尾こびの会ではまったく気がつかなかった。ふうむ、男にでもなあ」

 虎尾の会に山岡鉄太郎も益満休之助も名を連ねていたが、ほとんど交流はなかった。もう少し親しい間柄であっても、果たして気づいていたかどうか。

 鉄太郎は口を動かしながら笑みを浮かべた。

「種付けはできませぬよ」

 いたずらっぽくお満が言うと、鉄太郎は声をあげて笑った。

「では、いまのそなたの顔は本当の顔か」

「……さて」

「見てみたいものだな。そなたの本当の顔を」

 鉄太郎はお満の顔をしばし見つめた。お満は目をそらせて下を向いた。

 鉄太郎は茶碗を持ったまま立ちあがる。

「そろそろ出てくるかな。八瀬鬼童衆とやらは」

 残った茶飯を一気にかきこんだ。


 川崎宿を出たところ。

 二人の足元に小さな生き物が細かく飛び跳ねながら近づいて来た。

「なんだ」

 よく見ると薄茶色のきれいな毛並みの動物であった。

 その生き物はお満の足に飛び乗ると、螺旋を描くように身体を登って行く。

 そして首の周りをじゃれつきながら回り続けた。

「まあ、この子はなんでしょう」

 お満はくすぐったそうに笑っていた。嫌がってはいない。

「狐か」

 身体は小さいが、たしかに狐であった。尻尾だけが大きく膨らんでいる。

 狐が走って来た方を見ると、遠くを眺めるように見ていた長めのうぐいす色の羽織を着た学者風の男がいた。

 鉄太郎たちに手を振っていた。

 男は三十代後半くらいか。総髪の細い顔から垂れたどじょうひげと、つねに笑みを絶やさない垂れ目が胡散臭い印象を与える。

 鉄太郎とお満はそのまま男に近づいて行った。

「これ、亜門あもん。相変わらず美女には目がない奴だ。戻って来い」

 お満にまとわりついていた子狐は、学者風の男の方に戻って行った。

 すると、男が首にぶら下げていた青い竹筒に入ってしまった。

「山岡鉄太郎先生でありますな」

「いかにも。幕臣山岡鉄太郎と申す」

「やはり! お待ちして申しておりました。わたしは清水次郎長の子分、正雪しょうせつと申します。お見知りおきのほどを」

 名乗った男は深々とお辞儀をした。

「その方らか。しばらく世話になる」

「いやいや。たいへんなお役目とうかがっております。お役にたつことができれば恐悦でありますよ」

 正雪はちらちらとお満の方に目をやっている。

「こちらはこのたびの立会人。薩摩藩のお満どの」

「ほう。これはお美しい立会人でありますな」

 正雪はお満にも丁寧にお辞儀をした。お満も頭を下げた。

「ずいぶんと待たせてしまったな」

「いやいや。あそこのぼろ家で休んでおりました」

 正雪が指さす方にぽつんとあばら家が建っていた。誰も住まなくなってからだいぶ経っているようだ。

「いまにも崩れはしないかとひやひやしておりました」

「先ほどの子狐だが」

 鉄太郎は正雪の首の竹筒を見ている。

「ああ、これはわたしの飼っている狐でして。名前は亜門と言います。こう見えて大人の狐です」

「もう大人なのですね。でも可愛い」

 お満が穏やかな笑みを浮かべる。すっかり亜門を気に入ったようだ。

「いや、亜門めは女に対して節操がないのです。とくに美女には」

「まあ」

 しばらく声をあげて正雪は笑っていたが、ふと気づいたようにあたりを見回した。

「あらためまして、勝海舟先生からお話は聞いておられるかと思いますが。われらがこの旅をお供させていただきます」

 正雪はうしろを振りかえった。道端にたたずんでいる者たちがいる。

「あそこにいる男が五寸釘ごすんくぎと申します。こら! お供え物を盗むんじゃない」

 地蔵に供えてある握り飯に手を出そうとしていた男が立ちあがる。道中合羽どうちゅうかっぱ三度笠さんどがさを身に着けた渡世人とせにんらしい姿で、精悍な顔をした若者だ。名前通りの五寸釘を口にくわえてニヒルな笑みを浮かべている。形ばかりに頭を下げる。

「ああ見えてあいつの五寸釘は百発百中。忍びの手裏剣より頼りになります」

 鉄太郎が目をやると、お満はうすく笑みを浮かべている。五寸釘の腕と、忍びである自分の腕のどちらが上であるかを考えているのだろうか。

「そして、あの木陰でいびきをかいて昼寝をしておりますのが石松いしまつと申します」

 たしかに大きないびきがここまで聞こえてくる。

 大きい。身の丈は七尺(二・一メートル)に届こうかという巨漢だ。常人より大きな鉄太郎より一回り以上大きい。だが、顔は童子のように幼い。

「あれは見ての通り怪力が自慢でして」

「だろうな。寝る時はべつの部屋にしてくれ」

「そしてあちらの女がいちと申します」

 長い髪をした透き通るような白い肌の玲瓏れいろうな美女だ。

 こちらも渡世人風の姿だが、目を閉じて杖を抱くように持っている。

 ぎこちなく顔をこちらに向けて軽く頭を下げる。

「目が見えぬのか」

「先生、お気をつけて。次郎長一家最強の侠客です。刀を抜いた瞬間にこちらが斬られます」

「あの仕込み杖で居合の達人というわけか」

「どうです! 清水次郎長自慢の子分たちが先生をお守りします! どうぞ大船に乗ったお気持ちでいてください」

「それで、おぬしは何ができるんだ」

 正雪はよくぞ聞いてくれたといわんばかりに頭を指さした。

「日本一の石頭で頭突きが得意か」

「それは石松の野郎です! 頭、頭脳です。わたしは見てのとおり軍学者ぐんがくしゃです。わたしの兵法ひょうほうをもって先生を駿府まで無事にお届けいたしましょう」

 大きな白い扇子をばさりと開いて扇ぎながら正雪は高笑いをする。

「楽しそうなところ申し訳ないが。おれは勝先生から四人の供がつくと聞いている」

 正雪が笑いをとめて鉄太郎を見る。

「なぜ、五人いるんだ」

「えっ」

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